乳児人体実験

【乳児人体実験】昭和27年(1952年)

 この事件の発端は、名古屋市立大学医学会雑誌第5巻4号に掲載された「乳児院保育の概要」という論文であった。この論文で小児科医・奥田赳(32)が、名古屋市立乳児院で乳児を利用した人体実験が行われていると暴露したのだった。

 児童福祉法によって開設された名古屋市立乳児院は、両親のいない乳児や、親の事情で子育てができない乳児など21人が収容されていた。ほとんどが2歳以下の健康な乳児で、小川次郎病院長らは医学研究のためと称して乳児たちに人体実験を行っていた。小児科医長・奥田赳は病院長・小川次郎のやり方にかねてから反対して病院で対立していた。

 日本弁護士会の人権擁護委員会が調査に乗り出し、院長ら関係者の事情聴取が行われた。その結果、乳幼児に特殊大腸菌を飲ませる実験で乳児1人が死亡していたこと、胸腺の研究のため乳幼児の胸腔に空気を入れてレントゲン撮影を行っていたこと、乳児の直腸に大腸バルーンを入れ腸の運動を長時間観察していたことが明らかとなった。これらの実験結果は、それぞれ日本細菌学雑誌第8巻1号、名古屋市立大学医学会雑誌第3巻、日本小児科学雑誌第65巻に論文として発表されていた。

 小川病院長は「乳児は肺炎で死亡したのであって、特殊大腸菌を飲ませていなかった」と主張したが、解剖の結果、特殊大腸菌が腸内から検出された。この死亡した乳児の母親は、名古屋大学で手術を行うため乳児院に子供を預けていたのだった。

 たとえ生命の危険が少ないとしても、健康な乳児を実験に用いたことは、児童福祉、人権擁護の点から問題になった。小川院長らは、実験の結果を医学専門誌に発表しているが、このことは、周囲が騒ぐまで自分の行為の間違いに気づいていなかったことを示している。

 ジェンナーを気取っての実験だったのだろうが、医師として、あるいは人間としての良心に帰する事件であった。なお昭和26年、東京国立第1病院で乳児に致死性大腸菌を感染させる人体実験が行われたとする報告もある