一斉休診と保険医辞退

一斉休診と保険医辞退 昭和36年(1961年)

 昭和36年、この年は日本の医療史の中で、最も激しい医療闘争が行われた年である。同年4月に国民皆保険が開始されることがすでに決定し、日本の医師全員が新しい保険医療体制に組み込まれることになっていた。明治以来、自由診療を基本としていた開業医は、この新しい保険診療体制を前に最低条件を勝ち取ろうしていた。

 日本医師会は政府に4項目の要望書を提示し、その回答を求めていた。政府に要望した4項目は、診療報酬の値上げ、制限診療の撤廃、事務の簡素化、地域格差の改善であった。ところが日本医師会が求めた4項目について、政府はことごとく拒否してきたので、そのため日本医師会は実力行使に出たのだった。

 4項目のひとつである「制限診療の撤廃」について説明を加える。医師の立場からすれば、患者に最良の治療を行いたいと思うが、医療費を払う国は、最良の治療は医療費を増大させ、保険財政そのものを破綻させると捉えていた。そのため政府は最高の医療ではなく、「最低レベルで、画一的な医療」を求めていた。制限医療とは疾患によって薬剤の使用基準、治療方針が決められ、医師はその範囲内の治療しかできないというものであった。例えば肺炎で抗生物質が使えるのは5日まで、虫垂炎の入院は5日までという制限をつけるものであった。

 この制限診療への医師の不満、反発は大きかった。「制限診療は国家統制のもとで、医療の国営化をつくるもの」と医師たちは憤慨し、日本医師会は「あれもするな、これもするなの保険医療を改めよう」をスローガンに掲げた。日本医師会は自分たちの利得のためではなく、医師としての独立性を求め、患者の治療を最優先する人道的な立場から反発した。政府への抗議行動は、日本医師会会員だけでなく、勤務医、大学に所属する医師を含め、日本の医師のほとんどが行動をともにした。

 国民皆保険が始まると自由な診療ができなくなり、医師としての医療行為が脅かされる不安が強かった。また収入減につながる不安も重なり医師の団結は強かった。医師たちの抗議に対しても政府は態度を変えなかったため、日本医師会は理事会を開き、「医療危機突破闘争本部」を設置し、全国一斉の休診を申し合わせた。

 抗議行動は、日本医師会よりも一足早く東京都医師会が先頭を切った。東京都医師会(渡辺真言会長)は昭和36年1月31日の日曜日に一斉休診を強行、8000人の医師が東京・日比谷の野外音楽堂に集まり、「東京都医師会医療危機突破抗議集会」を開催した。

 集会で厚生省への抗議文を読み終えると、眼鏡をかけネクタイを締めた医師たちが、タスキを掛けて2.5キロにわたるデモ行進を行った。デモ行進には大学病院の医師たちも参加し、「東大医師会」「慶応医師会」「慈恵医師会」などのプラカードを立て、厚生省へデモ行進を行った。医師の抗議行動は東京だけでなく、大阪では5000人の医師が抗議集会とデモ行進を行い、この抗議行動は日本各地に広がっていった。

 日本医師会長・武見太郎と日本歯科医師会長・河村弘は本格的な抗議として、2月19日の日曜日に全国一斉の休診に踏み切ることを決定。同日、全国一斉休診が実行された。この一斉休診には日本のほとんどの開業医が参加し、各地で開かれた集会には開業医の4割、約2万人が参加した。

 全国一斉休診という無謀にちかい抗議であったが、その日は日曜日で、急病患者に備え指定病院や待機する医師を事前に決めていたので大きな混乱は起きなかった。一方、この一斉休診が国民や政治家に与えた影響は大きかった。病気になった場合の不安が、心理的な圧迫をもたらした。

 日本医師会は診療費の引き上げを要求、さらなる闘争に入った。全国一斉の休診に加え、3月1日には全国で保険医の総辞退を決定。また4月1日から始まる国民皆保険に一切協力しないことを表明し、全国の8割の医師が地区医師会に保険医の辞退願いを提出、その対応を地区医師会に一任した。日本医師会の号令があれば、いつでも保険医の総辞退が可能になった。

 自民党三役はこの日本医師会の強硬な事態に驚き、事態収集のため日本医師会へ会談を求めてきた。この会談の結果、2月28日、自民党は制限医療の撤廃を認めることになった。さらに3月3日には、日本医師会長・武見太郎と日本歯科医師会長・河村弘は、自民党政調会長・福田赳夫と会談し、自民党が示した医療費値上げ案を承諾。この妥協案により日本医師会が予定していた保険医総辞退は回避された。

 昭和36年のこの一連の医療闘争は、厚生行政をめぐる日本医師会と政治家との戦いであった。日本医師会は一斉休診と保険医辞退という戦略によって完全に勝利した。制限医療反対の旗を掲げ、診療報酬の値上げを勝ち取ったのである。武見太郎が指導したこの闘争により、日本医師会は巨大な政治力を示すことになる。

 武見太郎は国民への理解を求めようとしなかった。記者会見で「一斉休診日に病気になるやつが悪い」と発言し、この自分の正当性を主張する発言に、武見太郎は国民から傲慢な医師のイメージを持たれることになる。

 武見太郎はマスコミ嫌いだった。「吉田茂のほかに、カメラマンに水をかける者がいるとすれば、それは武見太郎だろう」といわれていた。そのため医師と国民の間に溝を作り、医師が尊敬される立場から、権威を振りかざす者として、次第に国民の悪感情を買うことになった。

 国民感情は別として、世界で類をみない国民皆保険制度を目前に控え、医師たちが全国一斉休診、保険医総辞退を行ったことは、医師たちの最大の闘争として日本医師会史上に明記すべき出来事である。武見は「喧嘩太郎」と呼ばれていたが、喧嘩太郎がいなければこの事態は収拾されなかったであろう。