ロンゲラップ島の悲劇

【ロンゲラップ島の悲劇】

 原水爆禁止運動のきっかけとなった「第五福竜丸」は世界的によく知られているが、水爆はミクロネシアの住民にも甚大な被害をもたらしていた。このことは長い間秘密にされていたが、忘れてはいけない事実である。

 昭和29年3月1日、ビキニ環礁で水爆実験が行われ、広島型原爆の750〜1150倍もの水爆の威力がミクロネシアの住民を襲った。ビキニ環礁から190キロ離れたロンゲラップ島とウトリック島に、6時間にわたり死の灰が降り注いだ。子供たちは初めてみる雪のような白い粉をかけあって遊んでいたが、やがて激しい嘔吐、皮膚の炎症、脱毛などの急性放射能障害が島民を襲った。そのため島の住民243人、米兵観測隊員28人が甲状腺疾患などの放射能障害で苦しむことになる。島民18人が甲状腺がんで死亡したことが後に公表されている。

 ロンゲラップ島の住民たちは被爆の事実を一切知らされず、アメリカは40年間にわたり住民の健康を追跡調査するだけで、住民の健康被害を研究対象にしていたのである。このアメリカの行為は人体実験に等しいことで、少数民族への人権抑圧として厳しく批判されることになった。

 昭和60年になって、ロンゲラップの島の住民は汚染された故郷を捨て、200キロ離れたクエゼリン環礁メジャト島に移住することになった。しかし、新しい島に移住しても、奇形児の誕生など島民の不安は尽きることはなかった。島の住民全員が、原水爆実験のモルモットにされたのである