ライシャワー大使刺傷事件

ライシャワー大使刺傷事件 昭和39年(1964年)

 昭和39年3月24日正午頃、エドウィン・ライシャワー駐日アメリカ大使(53)が東京・赤坂の大使館の裏玄関から車に乗ろうとした時、刃渡り16センチのナイフを持った工員風の少年に襲われ、右大腿を刺され負傷した。少年はその場にいた書記官や海兵隊らに取り押さえられ、駆けつけた赤坂署員に引き渡された。この殺傷事件は外国の要人が襲われた戦後初の事件であった。

 書記官がネクタイで止血の応急処置を行い、直ちに虎ノ門共済病院に運ばれた。刺された大腿部の傷口は2.8センチ、深さ10センチで出血量は3000ccを超え、1000ccの輸血が行われた。虎ノ門共済病院医師団と横須賀米軍病院医師団による手術は4時間に及んだ。

 このような突然の事態となったが、ライシャワー大使はあくまで冷静だった。手術室に運ばれる途中、駆けつけたハル夫人に親指と人さし指で「OK」のサインを送るほどの余裕をみせた。手術の翌日、「わたしは日本で生まれたが、日本人の血はない。日本人の血液を多量に輸血してもらい、これで私は本当の日本人と血を分けた兄弟になれた」と言って周囲を笑わせた。「この小さな事件が日米間の友好関係を傷つけないように」と何度も繰り返した。この日本国民を慰める言葉に、日本国民はライシャワー大使にいっそうの親しみを覚えた。

 刺傷事件が起きたのは東京オリンピックが開催される7カ月前のことである。日本が世界を意識していた時期に事件は起き、日米間の重大な国際問題へ発展する可能性が危惧された。

 駐日アメリカ大使が治外法権の大使館内で危害を加えられたことで、この不祥事への対応に注目が集まった。日本政府はこの事件を重要視し、池田勇人首相はアメリカのジョンソン大統領に遺憾の意を表明し、早川崇国家公安委員長は引責辞任し、天皇、皇后、皇太子夫妻が見舞い品を贈った。

 犯人の少年は、静岡県沼津市に住む精神に障害を持つ少年(19)であった。少年は高校生の時から統合失調症を患い、沼津の病院で治療を受けており、犯行は精神障害によるもので思想的背景はないとされた。

 少年は「世間を騒がせるために大使を襲ってやろうと思った」と自白したが、その動機の詳細は支離滅裂であった。少年はこれまでアメリカ大使館に2回侵入し、事件前にも米国大使館への放火の疑いで警察から尋問を受けていていた。犯行時は心神喪失状態だったとして不起訴処分となり、精神病院で治療を受けていたが、事件から7年後に少年は自殺している。

 ライシャワー大使は順調に回復し、4月15日に虎ノ門共済病院を退院すると、リハビリのためハワイの陸軍病院に3カ月入院することになった。生命に別条はなかったが、輸血による血清肝炎を併発し、長い闘病生活を強いられることになった。

 輸血にはさまざまなウイルスが混入している可能性があり、輸血や血液製剤の投与によってさまざまな悲劇が生まれている。B型肝炎ウイルス、C型肝炎ウイルスの検査法が確立するまでは、輸血後肝炎は避けられないことであり、ライシャワー大使はその犠牲者となった。大使はこの血清肝炎について後々まで多くを語らなかった。

 この大使刺傷事件は、日本に3つの教訓を残した。

 ひとつは当時の輸血の98%が売血によって行われていたことである。血液銀行が売血者と呼ばれる半職業的血液提供者の血液を買い上げるシステムになっていて、この売血制度がライシャワー大使の血清肝炎を引き起こした。この事件をきっかけに、朝日新聞は「黄色い血」として血清肝炎を取り上げ、売血廃止のキャンペーンを行った。「黄色い血」とは売血常習者が輸血を繰り返すことによって血球成分が少なくなり、血液が黄色く見えたからである。さらに黄色い血は肝臓病患者の黄疸をイメージさせ、かつて梅毒を「黒い血」と呼んでいたのに対比させた言葉でもあった。

 日本政府と国民は大使が日本人の血液によって血清肝炎になったことを日本の恥と受け止めた。そのため売血制度を是正する献血運動が盛り上がることになる。マスコミは売血制度批判のキャンペーンを行い、献血運動が広がり、献血率は急速に上昇した。政府は事件から3カ月後、輸血の売血制度廃止を閣議決定した。このように大使は期せずして日本の輸血制度に大きな貢献をしたのである。

 ふたつ目の教訓は、日本の病院は施設の面で世界最低のレベルであることが認識されたことである。虎ノ門共済病院は日本では有数の病院であるが、その虎ノ門共済病院でさえ外国人の目から見れば最低レベルの病院に映った。建物の汚れ、ゴキブリが出るような不衛生、このような日本の病院はアメリカ人から見れば貧民窟の病院と映ったらしい。日本の医療事情を知る大使は、外国要人の面会を断り、日本の恥を世界に見せなかった。

 最後の教訓は、統合失調症などの精神障害者への対策が強化されたことである。アメリカの対日感情の悪化を懸念した政府は、精神医療法を改正し、緊急措置入院制度などを新設することになった。保健所は精神相談員を増員し、精神障害患者が引き起こす犯罪への対策を図った。つまり危険性のある精神病患者を治安対象にしたのだった。

 精神医療法の改正は、それまでの精神病治療の流れに逆行していた。それまでは向精神薬の開発により精神病患者の社会復帰を促進し、入院治療から通院治療へと変換を目指していた。しかしこの流れが変わり、患者の人権は軽視され、精神病患者を隔離する傾向が強まった。この流れを示すように、昭和35年に9万床だった精神病院は、昭和45年には25万床へと急増している。

 親日家で知られるライシャワーが駐日アメリカ大使に任命されたのは、60年安保闘争の嵐が吹き荒れていた昭和35年の翌年のことである。当時のジョン・F・ケネディ大統領が、親日家であるライシャワー・ハーバード大学教授を駐日大使に任命したのである。

 ライシャワー大使は36年から5年間にわたり駐日大使を務め、日米安保条約などの難問を解決していった。日本はまだ敗戦の痛手を残していたが、ちょうど高度経済成長と相まって、次第に日米蜜月の時代を築き上げた。日米関係が「イコール・パートナー」と呼べるようになったのはライシャワー大使の功績であった。

 ライシャワー大使は歴代の駐日大使の中で、最も日本人に名前が知られていた。またマスメディアに取り上げられた回数も一番多かった。任期中には多くの大学や地方を回り、首相から農民までの対話を実践していた。

 当時、日本政府は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則の堅持を政策としていたが、実際には核の持ち込みは行われていた。この矛盾した政策はライシャワー大使が筋書きをつくったとされている。昭和38年4月、当時の大平正芳外相とライシャワー大使が会談した際、大平外相が「核搭載艦が日本に寄港、通過することは核の持ち込みには当てはまらない」と認めたことが米国立公文書館で見つかっている。ライシャワー大使は日米のパートナーシップを力説し、安保闘争後の新たな日米関係を築き上げた。

 ライシャワー大使は明治43年(1910年)10月東京で生まれ、16歳まで東京で育っている。父親はキリスト教の宣教師で、明治学院で神学と英語を教え、大正7年に新渡戸稲造とともに東京女子大学を設立している。

 ライシャワーはハーバード大学で中国と日本の歴史を学んだ。昭和10年に8年ぶりに日本に戻ってきたが、日本はそれまでの自由な雰囲気は消え、軍国主義とファシズムの空気に包まれていた。ライシャワーは東京帝国大学に通い、博士論文に全力を注いだ。研究のテーマは円仁(天台宗の僧)に関することであった。

 昭和13年、アメリカに帰国すると、国務省の極東課に勤め、日米間の戦争を回避するための提案を行った。提案の中には、日本が開戦を決意するきっかけとなった 「対日石油禁輸」に反対する意見が含まれていた。ライシャワーは日米の開戦を阻止しようとしたが、太平洋戦争が勃発すると、日本の専門家として国務省、陸軍省で対日情報戦に従事した。さらに日本軍向けの降伏ビラなどを作った。

 ライシャワーはアメリカ人の誰よりも日本を理解し、日本人を愛し、日本の軍部を非難した。彼は日本人を愛したがゆえに、日本の軍部を憎んでいた。青年時代に味わった日本の民主主義を愛していたのである。

 昭和31年、ライシャワーは明治の元勲・松方正義の孫・ハルと結婚する。結婚時ハルは40歳、5歳年上のライシャワーは再婚だったので、ハル夫人は1度に3児の母親になった。ハル夫人はプリンシピア大学を卒業し、外国人記者クラブで日本女性初の役員になっていた。ハル夫人は社交界が嫌いだったため、ライシャワーに駐日大使の要請があったときには猛反対した。

 ライシャワーがケネディ大統領の要請で駐日大使に起用されると、日本は日本人の妻を持つライシャワー大使を歓迎した。大使は日本語を流ちょうにしゃべり、「江戸っ子大使」と呼ばれた。日本を愛し、日本のために助言を述べ、鋭い批評をして日本のために尽くした。

 大使は日本の歴史に造詣が深く、特に戦後の急速な近代化に視点を置いた研究を行い、帰米後はハーバード大学教授に復帰している。現在の天皇、皇后両陛下が訪米された際、ボストン郊外の博士宅に2泊したほどである。

 日本に関した著書も多く出版している。「ライシャワーの見た日本・日米関係の歴史と展望」(昭和42年)、日本研究の総まとめといわれる「ザ・ジャパニーズ」(昭和54年)、日米関係を含めた自叙伝「日本への自叙伝」(昭和57年)など多数にわたっている。

 ライシャワー大使はこの事件以降、血清肝炎に悩まされた。晩年には何度か血を吐き、救急車で運ばれるようになった。平成2年6月、慢性肝炎が悪化したが、延命治療を拒否する書類に署名。同年9月1日、尊厳死を選択して79歳で最後の日を静かに迎えた。「私の灰を、日米を結ぶ海に」と遺言を書き、葬儀は行われず、遺骨はカリフォルニア州沖の太平洋にまかれた。

 その後、ハル夫人はサンディエゴ郊外のラホヤで日米学生交換の研修を支援したほか、ライシャワー日本研究所主催の日本研究シンポジウムに参加するなど活動を続けた。ハル夫人は心臓発作のため平成10年9月25日にアメリカで亡くなっている。享年83であった。