ペニシリン・ショック

ペニシリン・ショック 昭和31年(1956年)

 昭和31年5月15日の夜、東大法学部長・尾高朝尾(おだか・ともお)教授(57)が、虫歯の治療のためペニシリンの注射を受け、ショック死する事件が起きた。尾高教授は自宅近くの歯科医院で抜歯を受け、化膿止めとしてペニシリンの注射を受けた。

 尾高教授は注射を受けた直後、注射から5分もたたないうちに胸苦しさを訴え、顔面蒼白となり、全身の痙攣を起こして意識を失った。教授の血圧は低下しショック状態になった。歯科医師はすぐに人工呼吸や酸素吸入などの応急処置を行い、救急車で都立駒込病院に搬送。駒込病院では内科医長らが治療に当たったが、注射から2時間後に死亡。あっという間の出来事だった。

 尾高教授は、昭和19年から東大法学部の教授を務め、日本学術会議の副会長を兼任、法曹界の重鎮として知られていた。尾高教授は法哲学の第一人者で、尾高教授の死亡を新聞は大々的に取り上げた。

 毎日新聞は「ペニシリン乱用に警鐘、ショック死100件に迫る、尾高朝尾博士急死す」の見出しをつけ、朝刊のトップ記事として報道。同紙は、「歯痛など何もなかった。ペニシリンを打つ必要はなかった」という弟の尾高邦雄・東大教授のコメントを載せた。死亡した尾高教授は、尾高邦雄氏のほかに尾高尚忠氏(日響常任指揮者)の弟がいて、尾高三兄弟として有名だった。この著名人の死により、ペニシリンのショック死が社会に与えた影響は大きかった。

 尾高教授の死去から20日後の6月6日、北海道空知郡砂川町の町立社会病院・小笠原康雄内科医長がペニシリンの皮内テストを自分の左腕に行い、わずか0.05ccの注射によって50分後に死亡した。朝日新聞はこの事故を「ペニシリン・死の実験台」と大きく報道した。ペニシリンによるショック死が相次ぎ、この年だけで40人以上が犠牲になった。

 昭和25年5月、東大の学生が野球の練習中のけがでペニシリンの投与を受けショック死したのが日本初例とされている。昭和25年頃から、ペニシリンの生産量に比例するようにショック死が相次ぎ問題になり始めていた。昭和28年には日本抗生物質学術協議会が設立され、ペニシリン・ショックについての研究が行われていた。

 昭和30年までにペニシリン・ショックによる死亡例は年間100人を超えていたが、「ペニシリンのショック死」はまだ一般的にの認識されていなかった。多くの国民はその恐ろしい副作用を知らず、ショック死は異常体質によるで、医師に責任はないとしていた。しかし尾高教授の死亡によってペニシリン禍がいっきに社会問題となり、初めて行政が対策に乗り出すことになった。

 戦後に登場したペニシリンは感染症に驚異的な効果を示し、そのため「奇跡のクスリ」「魔法の弾丸」「霊薬」などと呼ばれていた。ペニシリンの登場により感染症の恐怖は少なくなり、肺炎、丹毒、敗血症などの死亡率は1年で半分以下に激減した。この奇跡的な効果によって、ペニシリンは国内生産を急速に伸ばした。

 ペニシリンを生産する製薬会社は急増し、ペニシリンは街中に氾濫した。昭和30年当時、ペニシリンの製造会社は51社で、5年間で生産量は8倍に増え、3000円だった値段が125円に下落した。新聞や週刊誌でもペニシリンが盛んに宣伝され、薬局で誰でも買うことができた。また錠剤、注射だけでなく、結膜炎になればペニシリン入り目薬、けがにはペニシリン入り軟膏、さらには歯磨き粉にまでペニシリンが配合され、街の薬局で販売されていた。ペニシリンは万能薬とされ、現在に当てはめれば「ビタミン剤の感覚」で市販されていた。

 米国ではペニシリン・ショックはすでに問題視され、「ペニシリン、殺人剤となる」と表現されていた。ペニシリンはその劇的な効果とは裏腹に、激烈な副作用を隠し持っていたのである。尾高教授の死をきっかけに、ペニシリンの出荷量は激減し、1か月に800万本製造されていたペニシリンが、事件の1カ月後の6月には出荷量が5月の半分になり、7月には出荷量はゼロになった。製薬会社は大打撃を受け、厚生省は「使用する場合は、患者のペニシリンに対するアレルギーやアレルギー疾患の既往の有無について問診を行うこと。患者には事前に皮内テストを実施すること」の注意事項を各医療機関に通達した。また薬局の店頭で売られていたペニシリンは、医師の指示がなければ買えない指示薬品になった。

 一般人のペニシリン・アレルギーの頻度は約5%で、薬剤師は6%、ペニシリン工場で働く者は18%とされていた。このようにペニシリンに接触する機会が多い人ほどアレルギー体質が多い。ペニシリン・アレルギーは、軽度のものは蕁麻疹程度だが、重篤な場合には死に至る。当時のデータでは、ペニシリン・ショックの1割が死亡するとされている。

 昭和30年代にペニシリン・ショックが多発したが、それはペニシリンに含まれる不純物によるものである。当時のペニシリンの純度は75%程度で、多くの不純物を含んでいたが、現在のペニシリンの純度は99%以上となっている。なおアナフィラキシー・ショック、アレルギー反応の即時型、I型アレルギー、この3つの単語は同じ意味の言葉である。

 ペニシリン・ショックのメカニズムは、他の薬剤によるショックと同じである。まず薬剤(ペニシリン)が体内に入ると、薬剤(ペニシリン)に血液のタンパクが結合し、人体にとって異種のタンパクとなる。生体側はこの異種タンパクを非自己タンパクと認識して抗体をつくる。次に再度薬剤(ペニシリン)が体内に入ると、抗体と結合した異種タンパクが肥満細胞を刺激してヒスタミン、ヘパリン、セロトニン、アセチルコリンなどを遊離し、これが心臓、血管に作用してショックを起こす。

 この生命を脅かす反応は、本来は自己を守るための免疫反応が過剰に反応したためである。1回目に異物が体内に入った時には、抗体を作って防衛態勢を整える。そのため最初は激しい反応は起こらない。これが2度目以降になると、準備された免疫機能がすぐに動員され、激しい反応を引き起こす。

 ペニシリンによるショックは、注射の場合には投与後15分以内に起き、内服では30分以内がほとんどである。症状は四肢のしびれ感、冷汗、皮膚蒼白、呼吸困難で、この自覚症状に引き続き、急性循環不全による血圧の低下、気道狭窄による呼吸困難が出現する。発症すれば経過は急速に進展し、そのため秒単位の救命処置が必要となる。生命予後は救急処置の対応によって左右され、死に直結するのは主に喉頭浮腫と気管支痙攣による呼吸困難である。そのため喉頭浮腫を軽減し、気管支痙攣を抑えることが治療となる。具体的には、即効性のあるエピネフリンを投与することで、次ぎにアミノフィリン、ステロイドの順に投与することである。

 ペニシリン・ショックが問題になり、問診の強化、予備テストの実施、さらには安全な抗生剤の開発が求められた。経口ペニシリンは比較的安全とされていたが、昭和31年10月2日、経口ペニシリンによるショック死が関東逓信病院で起きている。現在では安全な抗生剤の開発により、抗生剤のショック死は非常に少なくなっている。

 ショック予防のために皮内テストが行われているが、皮内テストは皮膚に局在するIgE抗体を検出する試験なのでIgE抗体が関与しない場合には意味がない。また皮内テストによってすべてが予測できるものではなく、皮内テスト陰性でショックを起こした例もある。さらに皮内テストだけでショックを起こす例も報告され、アメリカでは抗生剤の皮内反応は一般に実施していない。皮内反応はあくまで目安であって、問診はもちろんのこと、ショックが起きた際の緊急処置を行えるようにしておくことである。一度使用した薬剤を数カ月後に使用する場合、以前使用したから安全と考えやすいが、前回使用したことで感作が成立しており、危険な状態とも考えられる。

 平成16年から、薬剤の添付文書から皮内テストは削除されているが、クスリの副作用として、「医薬品副作用被害救済・研究振興調査機構」に申請された人数をみると、現在でも抗生剤によるショック死は少数ではあるが起きている。抗生剤によるショック死の頻度は激減しているが、問題となるのはショックが起きた場合の救命救急処置で、適切な処置の有無よって病院側の責任が問われることになる。

 ペニシリンは日本人にクスリ神話をつくったが、同時にクスリの恐怖神話も作った。尾高朝尾教授のペニシリン・ショック死は、ペニシリン至上主義者に赤信号を示し、何でもペニシリンという時代は終わったのである。