ヘレン・ケラー

 ヘレン・ケラー 昭和38年(1963年)

 目が見えず、耳が聞こえず、しゃべれない、この三重苦を想像できるだろうか。ヘレン・ケラーはこの三重苦を乗り越え、障害者の人権擁護、障害者の教育、社会福祉に立ち上がった女性であった。

 昭和38年、このヘレン・ケラーを描いた米国映画「奇跡の人」(アーサー・ペン監督)が日本で封切られ人々の感動をよんだ。映画は家庭教師アン・サリヴァンによってヘレン・ケラーがすべての物には名前があることを知り、それらを結びつけて人間らしい思考を得るまでを描いている。

 1880年6月27日、ヘレン・ケラーはアメリカ南部のアラバマ州タスカンビヤで生まれた。ケラー家は代々地主で裕福な家庭で、父親のアーサー・ケラーは南北戦争に大尉として従軍、後に地方紙のオーナーになっている。母のケイト・アダムスは父親より20歳若く、この夫婦の間に生まれた長女ヘレン・ケラーは、美しい田園のなかでスクスクと育ち、生後6カ月目には、「こんにちは」「お茶」などの言葉をしゃべり、1歳の誕生日には走り出すほどであった。

 しかし1歳7カ月の時、原因不明の高熱と腹痛に襲われ、一命を取り留めたが耳と目を侵され、さらにしゃべれないという3重苦を背負ってしまった。ヘレンを襲った病気は不明であるが、その症状から猩紅熱によるものとされている。

 ヘレン・ケラーはひとり闇に閉ざされ、原始的な身振りで自分の欲求を表すだけとなった。自分の気持ちを伝えられず、そのためにフラストレーションがたまり、それが怒りとなって感情を爆発させた。ケラー家の人たちは精神病院に入れることを勧めるが、両親はそれを許さなかった。各地の名医を訪ね、ヘレン・ケラーの障害を少しでも治そうとした。

 父親は教育によって人間らしい生活に戻そうとして、適任者を求めアレキサンダー・グラハム・ベルを訪ねた。ベルは電話を発明した偉人であるが、聾唖者教育の活動もしていた。ベルはパーキンス盲学校の校長に家庭教師を依頼、そこで推薦されたのが優秀な成績で卒業したばかりのアン・サリヴァンであった。

 アン・サリヴァンはアイルランドの貧しい移民の娘で、9歳の時に両親に捨てられ、孤児となって社会の底辺の人たちと救貧院で暮らしていた。またトラコーマに罹患して目が見えなくなったが、何度かの手術を受けて弱いながらも視力を回復させていた。

 1887年3月3日、アン・サリヴァンがタスカンビアの駅に降り立った。20歳のサリヴァンが7歳のヘレンに会った時、ヘレンは予想以上に怒りっぽくて乱暴だった。サリヴァンは、ヘレンに人形を抱かせ、指文字でDOLL(人形)という文字を手のひらに書いた。ヘレンは何のことか分からなかったが、繰り返しているうちにDOLLが自分の抱いている人形を意味していることを知った。このようにヘレンは3カ月で300の言葉を覚えたが、これは物を文字で表すだけで、それ以上の進歩はなかった。

 ある日、ヘレンがコップとコップに入っている水の区別ができず、サリヴァンとけんかになった。サリヴァンはヘレンをポンプ小屋に連れて行き、冷たい水にヘレンの手を当てた。そして「ウォーター」と指文字で書くと、ヘレンはじっと考え込み自分の誤りに気づいたのだった。頑固だったヘレンは心を開き、サリヴァンの教えを素直に受け入れるようになった。

 映画「奇跡の人」はヘレンが「ウォーター」と叫ぶクライマックスで終わっていて、ヘレンを奇跡の人と思い込みやすいが、原作「奇跡の人」の題名は「The Miracle Worker」つまり「奇跡をもたらした人」で、ヘレンに献身的に尽くしたサリヴァンを意味しているのである。

 サリヴァンはヘレンに読む力を与えるため、一つひとつの文字を紙に凸文字で表示し、それらを順序よく並べ、紙凸文字によって読書力を培った。ヘレンは知りたいことに興味を持ち、サリヴァンは知り得るすべてを教えた。ヘレンの思考はだんだん整理され、次に点字による学習に移った。点字は浮き出した点の組み合わせを使ってアルファベットの文字を表したものである。

 ヘレンは言葉をしゃべれなかった。ヘレンはしゃべりたいという気持ちから、サリヴァンの口の中に指を入れ、話す時の舌の位置を知ろうとした。そのためサリヴァンは何度も吐いた。

 ヘレンはボストンのホレースマン聾学校、ニューヨークのライトヒューメーソン聾唖学校でしゃべるための発音法を学ぶことになる。サリヴァンののどに手を当て、のどの振動で発音をまねた。そして11歳の春、ヘレンは It is warm today(今日は暖かです)としゃべったのである。

 ヘレンの向学心は旺盛となり、ラドクリフ大学への受験を希望した。ラドクリフ大学はハーバード大学の付属女子大学で、その卒業者はハーバードの卒業者と同等とみなされるほどの名門であった。

 大学の入学試験科目は英語、歴史、フランス語、ドイツ語、ラテン語、ギリシャ古典、代数、幾何学で、ヘレンは入学準備のためケンブリッジ市の女学校に入学。女学校ではサリヴァンも一緒に授業を受け、教師が教えることを指文字でヘレンに伝え、ヘレンは指文字で質問をサリヴァンに伝え、サリヴァンが教師に質問をする毎日となった。

 ヘレンはラテン語が得意で、数学は苦手だった。大学入学のため睡眠時間を割き、何度も指で点字を読むために指先から血が出るほどであった。

 入学試験は他の受験者と同じ問題で、違うのは彼女の問題が点字で書かれていることであった。2回にわたる入学試験の結果、ヘレンは優秀な成績でラドクリフ大学に合格した。しかし試験の合格がイコール入学許可ではなかった。入学には大学の理事会の許可が必要だった。ラドクリフ大学は保守的で、学生部長はこれまでの慣例を変えたくなかった。障害を持つヘレンは大学生活を送れないとして、ヘレンにラドクリフ大学で学問を学ぶよりもひとりで勉強したほうがよいと忠告した。

 ラドクリフ大学が受け入れを迷っているうちに、コーネル大学とシカゴ大学から奨学金の申し出があったが、ヘレンはその申し出を辞退した。ヘレンには成績で合格したのに入学を渋るラドクリフ大学に対しプライドがあった。障害者の地位を守るために、引き下がることはできなかった。結局、ラドクリフ大学の新入生の名簿にヘレン・ケラーの名前がのったのである。ヘレン21歳、大学の歴史始まって以来のことと新聞は賞賛した。

 大学生活でサリバンはいつもヘレンに付き添い、大学の講義、友人の会話をヘレンの手のひらでせわしく指を動かした。1904年10月にヘレンは極めて優秀な成績でラドクリフ大学を卒業、視聴覚障害者として優等文学士の学位を取得した。

 卒業時、ちょうどセントルイス博覧会が開催されており、ヘレンの卒業を祝して「ヘレン・ケラー・デー」を設けヘレンの講演会が予定された。聴覚障害者がものをしゃべる「奇跡の人ヘレン」、この演説を聞こうと聴衆は詰めかけた。大講堂に入りきれない聴衆は、折り重なるように会場の窓から中をのぞき込んだ。ヘレンは生まれて初めて、力一杯声を張り上げた。

 だが自分で自分の声が聞こえないため、壇上の声は弱く、そばにいた人が辛うじて聞こえる程度だった。博覧会会長のフランシスがヘレンの声を大声で復唱して聴衆に伝えた。大講堂にあふれた聴衆は目の前の奇跡に驚き感激した。演説が終わると聴衆はヘレンのもとに殺到し、この騒ぎで警察官が出動したほどである。「トム・ソーヤの冒険」の小説で有名な作家、マーク・トウェインはヘレン・ケラーを「19世紀の奇跡」とたたえた。

 ヘレンはその後40数年間、アメリカ国内ばかりでなく世界各国で講演を行った。1000回以上の講演を行い、視聴覚障害者の教育と福祉を訴えた。ヘレンの社会活動は、講演にとどまらず、訪問した国々に大きな影響を与えた。訪問を受けた国ではヘレンの来訪を記念し、視聴覚障害者のために福祉事業を実現していった。ヘレンはアメリカ盲財団に協力し、盲人救済のための資金援助を行った。

 ヘレンは講演だけでなく多くの本を書いている。ヘレンの著書は大学在学中に執筆した「楽天主義」、「私の生涯の物語」をはじめ読者に多くの感動を与えた。1905年の随筆「暗黒より出でて」のほか、1908年「私の住む世界」、1910年自由詩「石壁の歌」、1913年「暗闇を抜けて」、1927年「私の宗教」、1930年「中流」、「私の近頃の生活」、1933年「夕暮の平和」、1938年「日誌」、1940年「われら信仰を持たん」などがある。いずれも出版と同時に多くの人から愛読された。

 ヘレンは世界的に有名な女性となった。詩人、作家、思想家、講演家として世界中の目や耳や口の不自由な人に大きな励ましと勇気を与えた。たとえ重度の障害を背負っても、障害を諦めるのではなく、人生を投げ出すのではなく、人生に希望と勇気を持つことを教えてくれた。それは人生そのものに夢と希望を与えてくれるものであった。ヘレンは三重苦を克服した経験を通して、世界に支援を訴え続けたのである。

 ヘレンはフィラデルフィアのテンプル大学から人文学博士号を、英国グラスゴー大学から法学博士号の称号を受けた。サリヴァンも同じ学位を贈られたが、サリヴァンは自分にはその資格がないとして辞退し、再三の薦めによって翌年になって博士号を受理した。

 ヘレンは平和論者として有名であった。戦争に反対し、福祉事業を唱え、恵まれない人達のために献身的に行動した。しかしアメリカの大戦参加に反対したため、一部の人たちから中傷を受けたが、ひるまずに平和主義を訴え続けた。さらに人種差別に反対し、婦人参政権を主張した。

 ヘレン・ケラーの生涯は幾多の苦難に満ちていたが、サリヴァンに助けられながら希望と努力によって乗り越えた。苦悩や困難に遭遇しても希望を捨てなかったのは、正しいと思ったことを曲げない強い信念からであであった。また彼女特有の楽天主義が困難を軽く受け止めていたのである。

 このヘレンにも心を悩ますことがあった。ヘレンが37歳の夏、秘書を務めていた年下の青年から愛の告白を受けた時のことである。その青年は社会主義的な思想を持ち、ヘレンは青年の考えに同調したが、母親の猛反対で恋愛感情を捨てなければいけなかった。

 昭和11年10月20日、ヘレンを「世紀の奇跡」に育て上げたサリヴァンがその生涯を70歳で閉じた。ヘレンはサリヴァンの手を握りながら泣き崩れた。楽天主義を唱えるヘレンもこの痛手は大きかった。

 昭和23年8月、ヘレンはマッカーサーの賓客として日本を訪れ、日本各地で講演旅行を行った。ヘレンは3度来日して、日本に身体障害者更生事業である「東京ヘレン・ケラー協会やヘレン財団」を立ち上げている。昭和43年6月1日、ヘレンは87歳で死去するが、その慈愛に満ちた勇気は私たちの心の中で生きている。ヘレンの出生の地はヘレン・ケラー記念公園になっている。