ノイローゼ

ノイローゼ 昭和30年(1955年)

 昭和31年の経済白書に「もはや戦後ではない」と記され、「三種の神器」と呼ばれたテレビ、洗濯機、冷蔵庫が家庭に目立ち始め、人々は生活の向上を実感するようになったが、それと平行するように昭和30年頃からノイローゼという言葉が流行(はや)りだした。

 ノイローゼとは、医学的には「心理的な要因による心身の異常で、脳の器質的変化を伴わない精神障害」のことであるが、このノイローゼが「ちょっと考えすぎ、ちょっと悩みすぎ」といった日常的な言葉として安易に使われるようになった。昭和30年7月24日、週刊朝日が「ノイローゼと現代人」の特集のなかで、「ノイローゼは現代人のアクセサリー」と書いたことがノイローゼ・ブームのきっかけとなった。当時は、著名人の自殺が相次ぎ、ノイローゼに関した本が多数出版された。

 終戦からの数年間は食糧難の時代で、人々はその日を生きることに必死で、ノイローゼになるゆとりはなかった。戦後10年を経て人々の生活が安定し、貧困という物質的な悩みが精神的な悩みに移行し、精神的な悩みが一種の知的ファッションになった。

 塩野義製薬は統合失調剤「ウインタミン」を発売したが、その広告のキャッチフレーズは「現代人の流行病ノイローゼ」であった。統合失調(分裂病)は精神の病気で、ノイローゼは心の病なので、「ウインタミン」の宣伝は、ノイローゼの言葉に便乗したといえる。

 敗戦で人生観や価値観が大きく変わり、田舎から都会に人々が移動し、企業では機械化による合理化が進められ、さらに家庭の不和や失恋、仕事の失敗や職場の人間関係などがノイローゼの要因となった。生活に余裕が出たため、自分の健康に関心が向き、そのことが健康不安を生じさせ、健康不安が身体の変調をもたらす悪循環となった。貧困による生活苦よりも、心の不安定がノイローゼをもたらした。

 昭和32年1月10日、第一製薬は国産第1号の精神安定剤「アトラキシン」を発売したが、そのときの宣伝文句は「文化人病、都会人病への新しい薬」であった。同年だけで不安神経症、不眠症、過度の緊張をとる精神安定剤(トランキライザー)が10社以上の製薬会社から次々に販売され、「トランキライザーの時代」と呼ばれるようになった。

 ノイローゼに似た言葉として不定愁訴がある。不定愁訴は原因がないのに多彩な症状を訴えることで、文字通り「なげきを訴えるところ定かならず」のことである。この不定愁訴という言葉は、昭和39年に第一製薬が発売したトランコパールの新聞広告で使用され、また昭和39年4月に日本経済新聞で有馬頼義の小説「不定愁訴」が連載され話題を呼んだことから流行語となった。不定愁訴は頭痛や肩こりから生理不順、不眠など多彩な訴えを含んでいたが、病気のようで病気ではないので、不定愁訴は患者がどれほどつらくても医師から相手にされず、そのため患者はさらに悩むことになった。

 昭和28年頃から自殺が増え、昭和33年6月1日の新聞には、日本の自殺率が世界第1位になったという不名誉な記録が掲載された。日本人の年間自殺率は10万人当たり24.2人で、2位はオーストリア、3位はフィンランド、4位はスイスの順であった。

 戦時中は空襲を受け、戦後は食糧難で日本人のストレスは極度に高まったが、ノイローゼや自殺は少なかった。戦時中は一億玉砕、挙国一致などが国民の一体感を高め、戦後の食糧難はストレスを覚えるほどの心に余裕がなかった。それが時間が経つにつれ、戦前の思いを捨てきれない人たちや職場や社会などに適応できない人たちが増え、さらに苦悩そのものが知的で純粋とする文学的な雰囲気があった。連帯観が崩壊し、孤独に耐えられない人たちが増加し、自殺、ノイローゼ、新興宗教が次々に生まれた。

 なお日本の自殺率は現在でも世界最高で、自殺率は欧米の約2倍になる。自殺者は平成10年から12年連続で年間3万人を超え、交通事故死の約3〜4倍、日本人死因の第6位、日本人30人に1人の死因になっている。また1人の自殺者の陰には30人の未遂者がいるとされ、自殺は大きな社会問題になっている。このように日本は自殺大国になっているが、自殺は個人的なものとされ、うつ病という医学的側面から、あるいは貧困、雇用、孤立、病苦などの社会面から取り上げられることは少ない。

 日本の自殺者の特徴は、働き盛りの中年男性に多いことである。日本の中年男性に自殺が多いのは、失業率と自殺が平行していることから不況の影響とされているが、そう単純ではない。物質的な豊かさが精神的脆弱をもたらし、貧困に対する忍耐力が低下し、自殺を禁じる宗教を持たず、自分を押し殺すことを美徳とする国民性。このように様々ことが、行き詰まりのなかで重なり、人間の弱さと閉塞した不安がその要因になっていると思われる。