スモン(慢性キノホルム剤中毒

スモン(慢性キノホルム剤中毒) 昭和39年(1964年)

 昭和33年頃から、原因不明の「奇妙なしびれ病」が全国各地で見られるようになった。この奇妙な疾患は、下痢や激しい腹痛などが2週間ぐらい続き、さらに足の裏からピリピリするような異常知覚が出現。このしびれが両下肢の先端から次第に上行し、腹部、胸部へ広がり、さらに進行すると患者は筋肉の脱力から歩行困難となった。やや遅れて視力障害、膀胱直腸障害、中枢神経などの障害をきたして死に至った。

 「奇妙なしびれ病」は、昭和36年に国民皆保険制度が実施されると、急カーブで増加した。昭和36年の患者総数は153人であったが、40年の年間患者発生数は450人を超え、さらに4年後の44年には年間患者発生数が2300人で、累計患者数は7300人に達するほどであった。昭和47年まで患者は発生し、登録された患者総数は9249人となった。

 この疾患の最初の報告は、昭和33年に和歌山県立医大・楠井賢造教授が近畿精神神経学会総会で発表した症例である。その演題名は「多発性神経炎様症状を伴った頑固な出血性下痢の治癒した1症例」であった。

 この腹部症状、末梢神経症状、視力障害を特徴とする疾患は、当時はまだ独立した疾患とは認められず、「非特異性脳脊髄炎」「神経症状を伴った大腸炎」などさまざまな病名で呼ばれていた。この楠井教授の報告以降、同様の症状患者が内科学会などで次々に発表され、病気の輪郭が次第に明らかになった。

 昭和39年5月、日本内科学会総会でこの奇病がシンポジウムとして取り上げられ、臨床所見と病理所見から独立した新たの疾患と認められたが、全く謎に包まれていた。患者の症状に基づき亜急性脊髄視神経神経症(subacute myelo-optico-neuropathy)と名付けられ、ラテン語の頭文字をつなぎスモン(SMON)と呼ぶようになった。この「奇妙なしびれ病」の特徴は、特定の地域で集団発生することであった。昭和32年に山形市で、34年に大牟田、津の両市で、38年に釧路、室蘭、札幌、米沢、徳島の各市で、39年に埼玉県・戸田ボート場周辺で、44年には岡山県井原市で、このように日本各地で集団発生した。地域による集団発生からマスコミは風土病の一種と報道、釧路病などの名前で呼ばれた。

 スモンが日本中の関心を集めたのは、昭和39年に埼玉県・戸田ボート場付近で46人の患者が集団発症したことを朝日新聞がセンセーショナルに報道したことである。この報道は東京オリンピック開幕前の7月24日で、このしびれ病がオリンピックのボートコース周辺で多発していると報じたのである。この集団発症は「戸田の奇病」と呼ばれた。

 スモンは限られた地区に発生したことから風土病とされていたが、日本各地で患者が増加するにつれ感染説が有力となった。その他、ビタミン欠乏説、鉱毒説、農薬説、アレルギー説、代謝障害説などがあったが、多くの研究者はスモンをウイルス感染と考えていた。伝染病を思わせる地域集積性と家族集積性がそろっていたからである。

 そのため昭和39年に結成されたスモン研究班の班員は、感染症の専門家で占められ、研究者たちはスモンの病原菌を発見しようと躍起になった。翌40年、久留米大学・新宮助教授は患者の血液、髄液からウイルスを分離したと発表。また神経学会会長である京都大学・前川孫次郎教授は神経学会の特別講演で、スモンは伝染病であることは明確で、スモンを伝染性索脊髄炎あるいは伝染性白質脊髄炎と呼ぶことを提案した。

 昭和44年の公衆衛生学会でスモン感染説が発表され、人から人への感染によりスモンは今後増加するだろうと警告された。スモン・ウイルス説は確定には至らなかったが、医学界の大多数が支持していた。岡山大学医学部は、岡山県井原市のスモン集団発生の状況を調査しウイルス感染を住民に警告した。

 このような医学界の動きにより、地方自治体の中には感染予防を住民に警告するところが現れ、市の広報でスモン感染への注意が呼びかけられた。そのためスモン患者は社会から差別と排除を受けることになった。スモン患者は失業、離婚、破談、隔離され、周囲の冷たい視線を浴びながら孤独と絶望の中で心の支えを失っていた。

 スモン研究班は、スモン・ウイルス説を疑わず、原因ウイルスを誰が最初に発見するかが関心の的になっていた。このような時、昭和45年2月6日の朝日新聞は、「スモン病ウイルス感染説」を朝刊のトップ記事で報道した。京都大学医学部・井上幸重助教授がスモン患者の便から新型ウイルスを分離し、分離したウイルスをハムスターに接種してスモン様の変化を起こすことに成功したと報じたのである。

 この報道によりスモン・ウイルス説は揺るぎないものとなり、原因ウイルスの発見はスモンの治療に朗報をもたらすと新聞は書いた。井上助教授の発表から4カ月後、ウイルスの電子顕微鏡写真が報道され、厚生省はスモンに伝染病予防法を適応すると発表した。

 これらの報道がスモン患者や家族に与えた影響は大きかった。スモンは治療法のない難病で、しかも他人に感染させることが絶望へと導いた。スモンで亡くなった患者の葬儀には手伝いに行く者がいなくなり、スモンを抱えた家族の縁談は破談となり、患者が買い物に行っても店は現金を受け取ろうとしなかった。

 患者の家には誰も寄りつかず、医療機関も患者を避けるようになった。スモン患者は病気の苦難に加え、周囲の差別、さらには一家離散に苦しむことになった。患者の苦悩は極限に達し、絶望の中で500人以上の患者が自殺している。

 根拠のない医学者のコメントにより、一般人までがウイルス感染説を信じ、スモン患者への偏見を強めることになった。しかしこのウイルス発見は、その後、急展開を迎え、スモン感染説は誰もが予想しなかった展開で否定されることになった。

 田村善蔵・東大薬学部教授はウイルス説に懐疑的で、スモン病患者に特徴的な症状である緑色舌苔、緑色便、緑色尿に注目していた。東大グループはスモン患者から分離した舌の緑色色素を分析し、その色素の本体がキノホルムと鉄イオンの結合体であることを明らかにした。田村教授は舌の緑色変化がキノホルムによるものとスモン調査研究協議会に報告するが、ウイルス説が大勢を占めていた研究会では、スモンとは関係ないとされた。

 新たな難題が待ち受けていた。腹痛、下痢が主な症状であるスモンの治療薬として、ほとんどの患者がキノホルムを内服していたからである。このため患者の舌からキノホルムが検出されても当然とされた。緑色舌苔はスモン患者が整腸剤であるキノホルムを用いた偶然の結果で、原因ではないとの考えが支配的であった。

 キノホルムは水に溶けにくく、体内にはほとんど吸収されない安全な薬とされていた。そのため病院、医院だけでなく大衆薬の整腸剤にもキノホルムが含まれ、下痢の患者に使われていた。しかしこの発見により、スモンのキノホルム説が急上昇することになる。入院中のスモン患者はすべてキノホルムを毎日1.2g以上服用していた。

 新潟大学・椿忠雄教授はスモンとキノホルムとの因果関係を重視し、直ちに新潟、長野両県でキノホルム患者の服用歴の調査を行った。

 その結果、<1>スモン病のほとんどの患者が、発症前にキノホルムを大量に内服していた<2>キノホルムの服用量が多い者ほど、服用期間が長い者ほどスモンの重症例が多い<3>キノホルムを中止すると改善に向かう患者が多い<4>キノホルムの服用によりスモンと同様の発症例が戦前に報告されている。このことから、昭和45年8月、椿教授はスモン病の原因はキノホルムであると厚生省に報告した。同月7日の朝日新聞に「スモン病の症状悪化に整腸剤が一役」との見出しで報道された。

 昭和45年9月5日、椿教授は日本神経学会でスモンのキノホルム説を発表。同7日、厚生省は「結論が出るまでは、同剤の使用を見合わせるべき」とし、同時にキノホルム剤の販売を一時中止するように通達を出した。患者の緑舌に注目し、スモンの原因が急速に進んだことから、「緑舌はスモン解明のみどりの窓口」とたたえられた。

 急上昇を続けていたスモン患者の発生は、この日を境に激減した。昭和45年の1月から8月までの患者発生数は1276人であったが、9月7日の販売中止から4カ月間に新たに発症した患者数は23人に激減し、翌46年以降の患者数はゼロになった。

 このことから医学界もスモン・キノホルム説に傾くようになった。またサル、イヌ、ネコの動物実験でもスモン様の神経症状をつくることができた。昭和47年3月12日、厚生省スモン調査協議会は、スモンをキノホルム中毒が原因と正式に認める発表を行った。椿教授は疫学調査だけでスモンの原因を突き止めたが、もしキノホルム説が間違っていれば学者生命を断たれていたであろう。よほどの自信と患者を救いたいという決意があったのだろう。

 キノホルムは1889年、コールタールに含まれるキノリンが殺菌効果を持つことにスイスのバーゼル社が注目、傷口に塗る外用の消毒薬として開発された。日本では、昭和5年頃からアメーバ赤痢の治療薬として市販され、投与疾患はアメーバ赤痢に限られ、投与量は1日0.75gが極量で、使用は厳しく制限されていた。アメーバ赤痢の症例は国内では少なかったため、太平洋戦争で日本軍が南方に進出した際に使用された例がほとんどであった。戦前は劇薬の指定を受けていたが、戦後も売り続けられた。しかしアメーバ赤痢の患者は少なく、内服期間も短かったため、副作用は極めて少ないとされ、そのため薬事審議会にかけられることなく劇薬指定が解除されることになった。

 製薬会社はキノホルムの売り上げを伸ばすため、アメーバ赤痢だけでなく下痢止め、整腸剤として販売した。キノホルムが普通の下痢にも効くと宣伝され、薬局でも販売されるようになった。キノホルムは副作用のない安全な胃腸薬と宣伝され、普通の下痢には1日4.5g投与することが推奨された。かつてアメーバ赤痢に投与された5倍の量のキノホルムが連日処方されることになった。

 スモンの被害を深めたのは、製薬会社が何の根拠もなく利潤追求のためキノホルムを安全な薬剤と宣伝したことである。またキノホルムにより胃腸障害が出現すると、その治療としてキノホルムを増量して処方したことである。また一部の研究者によってスモンにキノホルムが有効との宣伝がなされたことが被害を大きくした。スモンはキノホルムによる副作用であったが、同時に薬の乱用が招いた薬害事件であった。

 日本各地でスモンの集団発生をみたが、スモン多発地区は特定の病院がキノホルムを過剰に処方していたからである。昭和39年の埼玉県・戸田ボート場周辺での集団発生は、オリンピック施設周辺での赤痢予防のために、保健所が周辺住民にキノホルムを予防内服させていたからである。岡山県井原市の集団発生は、天皇の視察に際し、赤痢予防のため住民たちにキノホルムを予防投与したからであった。住民たちは赤痢になる前に、キノホルムの猛毒に倒れたのである。

 欧米ではキノホルムの使用はアメーバ赤痢に限定されていので、スモンは日本だけに発生した日本特有の疾患である。厚生省が確認したスモン患者は1万1000人、死者は600人以上とされているが、実際にはその3倍以上と推測されている。

 アメリカでも、キノホルムをアメーバ赤痢以外の一般下痢症にも適応を広げようとする製薬会社があったが、FDA(食品医薬品局)はそれを許可しなかった。現在でもスモンとの病名が使われているが、スモンは「キノホルム内服による中毒性神経障害」と呼ぶべき疾患である。

 スモンは製薬会社と厚生省の安全認識の欠如が引き起こした薬害事件であった。新しい患者の発生はなくなったが、後遺症に悩む多くの患者への補償と治療、患者の社会復帰が大きな問題になった。

 昭和47年3月、スモンの原因はキノホルム剤服用によるものと結論され、厚生省は難病のひとつとして対策を講じることになった。治療としてはビタミンB12やB1の大量投与、副腎皮質ステロイドなどが試みられたが、効果はほとんどなかった。リハビリも効果は不十分で、回復は困難であった。

 キノホルムの被害者は被害者団体を結成し、責任の明確化と被害者の救済を求め各地裁に提訴した。患者団体は全国組織を結成し、救済のみならず薬害の根絶を求める裁判闘争を展開し、国民の共感を集めた。

 昭和46年5月28日、スモン病患者、相良よしみつと志方サキ子の2人が日本チバガイギー、田辺製薬、武田薬品工業などの製薬会社などを相手取って一律5000万円を要求する損害賠償請求の初の訴訟を起こした(一次訴訟)。原告2人で始まったこの訴訟は、二次、三次訴訟となるにつれ原告数が増え、最終的に全国22地域3900人となった。各製薬会社は和解に応じようとしたが、田辺製薬だけは最後までウイルス説にこだわり、和解に応じようとしなかった。

 田辺製薬は社内で行っていた動物実験でキノホルムがスモンの原因であることを知っていたが、その事実を隠してウイルス説を曲げなかった。この会社の姿勢に憤慨した田辺製薬の研究員白木博次医師が裁判でそのことを証言し、この白木証言で裁判の流れが大きく変わった。

 スモン裁判はかつてない大規模な薬害裁判で、訴訟は全国33地裁、8高裁で争われ、原告数の合計は7561人となった。

 昭和53年3月1日、金沢地裁で原告勝利の初めての判決が下った。最大の焦点だった国の責任については、「キノホルム製造の許可承認は違法とは認められないが、昭和42年以降は承認を取り消し得たのにその権限を行使しなかった不作為の違法がある」とした。そのため昭和42年以降に発症した患者や悪化した患者について国は損害賠償の義務を負うことになり、国の負担分は3分の1の範囲とされた。製薬3社に対しては「キノホルムの副作用について多くの警告を受けながら何ら措置をせず、大量販売、大量消費の風潮を助長した」と厳しく批判した。同様の判決が各地の地裁で下されるようになった。

 昭和54年4月から「スモンの会全国連絡協議会」を中心に、弁護団、労働組合、消費者団体などによって「スモン被害者の恒久救済と薬害根絶をめざす全国実行委員会」が結成され、スモン全面解決要求大行動が展開された。さらに勝訴判決をテコに厚生省、法務省、大蔵省および製薬3社に向けての抗議行動が行われた。

 各政党・議員への要請などが行われ、厚生省前に座り込み、泊まり込みの抗議行動が行われた。参加した人数は延べ3万人を超え、行動期間中に都内各駅頭でまかれたビラは約50種類120万枚以上に及び、この大行動を通じて患者らは大きな成果を獲得した。

 昭和54年9月15日、東京スモン訴訟で、当時の橋本龍太郎厚生大臣と製薬3社(田辺製薬、武田薬品、日本チバガイギー)がその責任を認め謝罪、和解確認書に調印した。また橋本厚生大臣は薬害根絶の努力を約束した。和解によって補償を受けた被害者は6470人、和解総額は約1430億円に達した。

 このスモン病をきっかけに、昭和54年に薬事法が大改正になり、医薬品の有効性、安全性の確保が追加された。さらに患者を薬剤の副作用から救済する「医薬品副作用被害救済基本法」が国会で成立した。