サリドマイド事件

サリドマイド事件 昭和36年(1961年)

 サリドマイドは、昭和32年10月に西ドイツのグリュネンタール社が開発した催眠薬で、ドイツでは「コンテルガン」の商品名で市販されていた。その薬理作用上、催眠のみならず胃腸薬としての効能も加わり、世界各地で広く販売されていた。

 日本では大日本製薬が厚生省の承認を得て、昭和33年1月から「イソミン」の商品名で発売していた。大日本製薬以外にも国内では10社を超える製薬会社がサリドマイドを販売していたが、9割以上は大日本製薬のイソミンが占めていた。

 サリドマイドは安らかな眠りをもたらし、胃腸にも良いと宣伝され、医家向けだけでなく、大衆向けの胃腸薬としても「プロバンM」の商品名で自由に誰でも薬局で買うことができた。

 それまでの睡眠薬バルビタールは、連用により危険を伴う副作用が出現するのに対し、非バルビツール系であるサリドマイドは副作用がなく、気軽に使える新薬として「夢の睡眠薬」、「クセにならない安全なイソミン錠」と宣伝された。イソミン錠は大量に服用しても死亡することはなく、睡眠薬による自殺も防止できるともてはやされ、安全性を誇示するように「妊婦のつわり予防薬」として盛んに宣伝された。この根拠のない安全性の宣伝がサリドマイドの被害を大きく、かつ悲惨なものにした。

 製薬会社は、サリドマイドの長期投与によって末梢神経炎の副作用が生じることを事前に知っていた。そのため服用期間の短い妊婦ならば末梢神経炎の恐れはないとして、つわり防止として宣伝したのだった。販売戦略として妊婦がターゲットにされ、このつわり予防薬が奇形児を生じさせた。

 サリドマイドによる奇形は、手足が対称性に欠損することで、腕があっても短い、あるいは小さな手が肩甲骨から直接出ているようになるのが特徴であった。この奇形がアザラシに似ていることから「アザラシ肢症(フォコメリア)」と呼ばれていた。さらに難聴、心臓、消化器などに異常を生じさせた。

 昭和36年9月、西ドイツでこのアザラシ肢症が多発していることが発表され、この報告がサリドマイド事件の始まりとなった。アザラシ肢症は自然界ではまず見られない奇形で、ハンブルグ大学でも過去20年間、アザラシ肢症の発生を認めていなかった。ところが昭和35年の1年間だけで33例のアザラシ肢症が発症したのだった。

 さらにハンブルグ市内の新生児が調査され、手足のない子供が1000人に2人の割合で出産していたことがわかった。この発表から2か月後の11月、西ドイツで開催された小児科学会で、バンブルグ大学講師W・レンツ博士は異常発症しているアザラシ肢症の原因としてサリドマイドの可能性を報告した。妊娠初期にサリドマイドを服用すると、高頻度でアザラシ肢症の奇形児が生まれると警告した。

 レンツ博士はサリドマイドとアザラシ肢症との因果関係を完全に証明したわけではなかった。医学的な根拠はなかったが、自然界ではほとんど見られないアザラシ肢症が多発し、母親からの聞き取り調査からサリドマイドと何らかの関係があると警告したのである。

 レンツ博士はグリュネンタール社に対し、科学的証明を待つのではなく、無関係であることが証明できるまで薬を回収すべきと主張した。レンツ博士の仮説に反対する研究者も多かったが、レンツ博士の警告が新聞で報道されると西ドイツ政府の反応は早かった。レンツ博士の警告から2週間後には、グリュネンタール社は西ドイツ市場からサリドマイドを回収するにした。

 イギリス、スウェーデンなどの欧米各国も西ドイツの対応を知り、直ちに販売中止、製品の回収を行った。この中止処置でアザラシ肢症は消失したが、サリドマイドの販売を中止しなかったのはブラジルと日本だけであった。

 サリドマイドが日本で多くの悲惨な犠牲者を出したのは、日本の製薬会社、厚生省の対応の遅さであった。サリドマイドが西ドイツで販売中止、回収された経緯は大日本製薬にも報告されていたが、日本の市場からサリドマイドが回収されたのは翌年9月のことだった。

 レンツ博士の警告を受けた西ドイツ政府は、即時にサリドマイドの回収を始めたが、日本では回収決定までに10か月を要した。ドイツは「疑わしきものは罰する」との態度であったが、日本は「疑わしきものは罰せず」の態度をとった。

 欧米での対応を、日本の製薬会社が知らないはずはなかった。大日本製薬は少なくても昭和36年12月5日の時点で、レンツ博士の警告、グリュネンタール社からの副作用の情報を入手していた。大日本製薬は12月6日にこの情報を厚生省に報告したが、厚生省から販売の停止や回収の指示はなかった。

 大日本製薬と厚生省はサリドマイドの危険性を医師や薬局に連絡せず、副作用の事実を隠していた。大日本製薬の学術課長は、昭和37年1月に西ドイツに調査に行き、「グリュネンタール社がサリドマイドを回収したのは新聞が騒いだからで、レンツ学説は根拠がない」とする報告を大日本製薬と厚生省にしていた。

 厚生省は学問的な裏付けがないことを理由に、薬害との因果関係を隠蔽することに努めた。そのためレンツ警告後に適切な処置がなされず、被害を拡大させることになる。何の情報もない一般の妊婦は、何も知らないまま妊娠中の不快な症状を和らげる安全な薬剤と信じてサリドマイドを飲み続けた。

 昭和37年2月22日、タイム紙がサリドマイド被害の記事を掲載した。また3月および4月には、販売を継続している大日本製薬にグリュネンタール社が警告を出していた。同年5月17日、朝日新聞が夕刊でサリドマイド事件について日本で初めての特ダネ報道を行った。その記事はサリドマイドが奇形児出産の可能性があるため、西ドイツでは販売が中止されたというボン支局からの報告であった。

 この報道をきっかけに、日本のジャーナリズムが一斉に動き出し、大日本製薬の宮武徳次郎社長は「サリドマイドが奇形児を出産するという学問的な裏付けはないが、イソミンの製造を自主的に中止する」と発表した。大日本製薬は新聞紙上に意見広告を出し、西ドイツでは奇形児の報告があるが、日本ではそのような事実はない。そのような副作用がサリドマイドにあるかどうか現在実験中で、とりあえず妊娠中の服用は避けてほしいと述べた。この時点で大日本製薬はイソミンの製造を中止したが、市場から製剤の回収をしていない。回収をしなかったため、市場ではサリドマイドの在庫が一掃されるまで販売体制がとられていた。製薬会社のドル箱になっていたサリドマイドを販売停止にせず、とにかく売りまくろうという企業側の営利主義が被害を拡大させた。

 この朝日新聞の記事に、厚生省製薬課長は「学問的根拠はないが、大日本製薬の措置に深く敬意を表したい」との談話を発表した。一度承認した薬をたやすく引っ込められない、という厚生省のメンツが働いていた。また新聞の続報には、医学、薬学の専門家たちが登場し、「サリドマイドを妊娠中に使用しても問題ない」というコメントを述べ、安全性が強調された。日赤産院長の三谷茂、産婦人科学会の重鎮森山豊は「サリドマイドは引き金かもしれないが、主たる原因ではない」と述べ、大阪大学教授の杉山博は「レンツの調査は間違いである」と強調した。

 日本の医学界では、薬の製造を取りやめた製薬会社の英断を評価するコメントが多かったが、この時点で、レンツ博士の警告からすでに半年が経過していた。大日本製薬社長は「この処置はあくまでも自社の良心に基づくもので、出荷を停止するが、在庫が薬局で売られることに問題はない」と述べている。

 大日本製薬や御用達学者は「日本にはアザラシ肢症の発症がない」と強調したが、実は北海道大学医学部小児科・梶井正医師がサリドマイドによるアザラシ肢症を小児学会で報告していた。このことを読売新聞が昭和37年8月28日の朝刊でスクープし、さらに日本小児学会などでアザラシ肢症が次々に報告された。

 大日本製薬はイソミン販売以来、日本ではアザラシ肢症の報告がないと主張していたが、その主張は通用しなくなった。問題は次第に大きくなり、9月12日、大日本製薬はサリドマイドと奇形児との因果関係を否定しながら、サリドマイドを市場から回収することになった。この回収によりアザラシ肢症の患者が急速に減少することになった。

 西ドイツがサリドマイドを中止した時点で、日本でもサリドマイドを回収していれば、日本のサリドマイド被害者の半数以上は救えたとされている。レンツ博士の警告があった後に、日本でサリドマイド障害児が急増し、サリドマイドの販売中止により発症がゼロになった事実からもうなずけることである。

 日本におけるサリドマイド障害児は推定約1200人。世界全体では7000人である。もちろん病院から処方されたサリドマイドだけでなく、薬局で市販されているサリドマイドの内服によって生じた奇形児も多くいた。薬局で市販されたサリドマイドについては、患者の母親が内服した事実を証明することができず、また因果関係を認められなかった軽症例が多数いたとされている。さらにサリドマイド児の大半が胎児期に死亡し死産となったので、実際には統計の数倍以上の被害だったとされている。

 サリドマイドはレンツ博士によって薬害と警告されたが、レンツ博士と時を同じくして日本においてもその薬害に気づいていた医師たちがいた。都立築地産院で昭和34年から2年間に111人の妊婦に、妊娠悪阻、不眠の治療としてイソミンを投与し、3人のアザラシ肢症奇形が発生していたことが報告されている。この報告は、日本産婦人科学会雑誌(昭和38年、15巻、9号)に内海捨三郎ら5人の連名で論文になっている。内海医師は「アザラシ肢症は大変珍しい奇形なので3例続いたのはおかしいと考え、それ以降イソミンを投与しなかった」と新聞記者のインタビューに答えている。さらに奇形発生の事実を製薬会社へ報告していたと証言している。

 被害者たちは法務省に人権侵害の申し立てを行い、製薬会社に直接補償を求めたが、いずれも受け入れられなかった。そのため昭和38年、サリドマイド被害児の家族は、厚生省と大日本製薬を相手に損害賠償を求める民事訴訟を起こした。この訴訟事件は、日本初の薬害訴訟として注目された。

 製薬会社と国は、因果関係について争う姿勢を見せていたが、西ドイツでグリュネンタール社が被害補償を提示したことから、厚生省と大日本製薬は「安全性の確認とレンツ警告の対応に落ち度があったことを認め」和解が成立した。昭和47年10月、日本の薬害訴訟としては過去最高額である、1人当り2800万から4000万円の賠償金の支払いが確認された。

 この国の過失責任を明確化し、恒久的福祉対策が明記されたサリドマイド訴訟は薬害訴訟の先駆的役割を果たすことになる。この和解にあたって特記すべきことは、原告被害者だけでなく、裁判に参加しなかったサリドマイド児にも損害賠償がなされたことである。サリドマイド児の認定患者は309人であった。

 サリドマイド事件は裁判という闘争を避け、和解によって救済が早期に解決したことは喜ばしいことである。しかしこれは和解であって、薬害訴訟として責任ある判決でなかったことが、その後に続く薬害を根絶できなかった要因になった。

 当時の厚生省で、患者との和解交渉に当たったのが薬務局長の松下廉蔵であった。松下廉蔵は和解時に「二度とこのような間違いは起こしません」とコメントを述べたが、その後、松下廉蔵はミドリ十字の社長に天下り、「薬害エイズ事件」を引き起こした張本人として被告の席に座ることになる。松下廉蔵はサリドマイド事件から12年後に日本最大の薬害である「薬害エイズ事件」を引き起こしたのであった。サリドマイド事件は彼にとって何の教訓にもならなかった。国民の健康を守るべき厚生官僚といえども、製薬会社の営利主義に毒されていた。

 この厚生省の松下薬務局長と対照的に比較されたのが、アメリカの食品医薬品局(FDA)の審査官だったF・C・ケルシー女史である。アメリカでも大手製薬会社からサリドマイドの販売承認の申請が14回出されていたが、ケルシー女史は製薬会社や上司からの圧力に屈せず、毒性、副作用の疑問のあるサリドマイドに製造承認を与えなかった。ケルシー女史はサリドマイドの長期投与によって多発性神経炎を起こす副作用を知っていて、妊婦が服用した際の安全性のデータがないことから承認しなかったのである。

 サリドマイドは世界各国にアザラシ肢症の薬害をもたらしたが、アメリカだけはその被害を免れた。このことからケネディー大統領はケルシー女史に「大統領市民勲章」を与えている。このニュースが伝わると、「日本には1人のレンツ博士、1人のケルシー女史もいなかったのか」と厚生省への風当たりが強まった。

 さらに厚生省の薬事審議会がイソミンの製造承認をわずか1時間半の審議で決定していたことが暴露された。また製薬会社はサリドマイドはすでに欧米で発売され、安全で効果的な薬剤と強調したが、日本で承認された時点では、サリドマイドはまだ世界では発売されていなかった。日本の新薬の承認がいかにいい加減であったのか想像できる。人間の命、健康を守るべき厚生省が、利潤追求の企業の論理に荷担したと言われても反論できないであろう。

 その当時は、国際的にも国内的にも、医薬品の審査基準には胎児への安全性の確認は義務付けられていなかった。このサリドマイド事件の教訓から、新薬の開発時には医薬品の胎児への影響、特に催奇性についての動物実験が昭和38年から法律で義務づけられることになった。

 サリドマイドはその後の研究でハンセン病に効果があることが偶然に発見され、平成10年、FDAの諮問委員会がハンセン病の癩性結節性紅斑の治療薬としてサリドマイドを制限付きで承認した。この使用制限は厳しいもので、指定された医師のみが用いること。女性患者には信頼性の高い避妊法を2種類実施し、妊娠していないことを文書で証明すること。治療期間を通して妊娠検査をすることが義務付けられた。男性患者にも妊娠可能な女性と性交渉を持つ場合にはコンドームの使用が求められた。また多発性骨髄腫を初めとした悪性疾患、エイズなどの消耗疾患、治療法のない難病にも効果があることが分かった。

 日本でもブラジルからサリドマイドを輸入し、限られた医療機関で用いられるようになった。平成12年以降、多発性骨髄腫の治療薬としてサリドマイドが投与された患者は1300人を超え、個人輸入は約37万8000錠以上であることが患者団体の集計から分かっている。個人輸入による服用は可能であるが未承認薬であるため、患者はおよそ月4万円の出費を強いられた。平成20年、厚労省はサリドマイドを多発性骨髄腫の治療薬として、安全管理の徹底を条件に承認することになった。