サユリスト

サユリスト 昭和32年(1957年)

 昭和32年、吉永小百合は11歳のときに、赤胴鈴之助の子役オーデションに応募し、千葉秀作の娘役に選ばれた。これが芸能界入りの第一歩で、高校在学中に「キューポラのある街」にヒロインで出演、それ以降、清純派女優として今日まで多くの映画に出演している。昭和37には「寒い朝」で歌手デビューし20万枚のヒット。また橋幸夫とのデュエットで「いつでも夢を」を歌い30万枚の大ヒットとなり「第4回日本レコード大賞」を受賞している。

 その後、早稲田大学文学部進学し、可憐さ、知性、奥ゆかしい庶民性から、学生ばかりでなく幅広いファンを引きつけた。大学生に小百合ファンが多いことから、小百合ファンの大学生をいつしかサユリストと呼ぶようになった。

 ほぼ同時期、このサユリストとは別に、さゆりストという言葉がある。さゆりストとはさまざまな職業を経てストリッパーに転じ、関西ストリップ界の女王となった一条さゆりのファンのことである。一条さゆりはワイセツ罪で9回逮捕されたが、有罪判決を受けても違法な特出しストリップを止めようとしなかった。当時は学園紛争の時代である。「反権力の象徴」としてさゆりの意気込みに、女性に恵まれないおじさん・さゆりストは涙を浮かべて応援した。老人の客は一条の股間を見つめ、一条さゆりのストリップに涙ぐみながら拍手を送った。客の喝采とさゆりの一体感が、性風俗という世俗が反権力の象徴となり、さらには人間の裏の真実をみせていた。駒田信二が小説「一条さゆりの性」を書き、多くの”さゆりスト”を生んだ。7年間、11PM(よみうりテレビ)にレギュラー出演していた。さらに日活ロマンポルノ「一条さゆり濡れた欲情」として映画化され、本人も映画に出演している。

 一条さゆりは特出しの女王と呼ばれ一世を風靡(ふうび)していたが、執行猶予中でも大胆な露出を続け、司法当局の神経を逆なですることになる。権力への挑戦と受け止められ、大阪・吉野ミュージックに出演中に公然ワイセツ罪で10回目の逮捕となり、最高裁まで争ったが、昭和50年に1ヶ月の実刑に服して引退することになった。

 刑務所を出所すると、労務者の多い大阪・西成区のあいりん地区でスナックを経営していたが、しだいに酒におぼれ破滅的な生活を送るようになった。自殺未遂とも思える交通事故をおこし、別れ話から男性にガソリンをかけられ大やけどを負い、あいりん地区では一時期路上生活をしていた。

 平成5年8月、大阪市西成区の杏林記念病院で肝不全のためひっそりと息をひきとった。看取る者のいない60歳の寂しい人生であったが、葬儀には往年のおじさん・さゆりストが多数集まり懐かしげに旅立ちを見送った。一条さゆりについては加藤詩子が「一条さゆりの真実 虚実のはざまを生きた女」の題名で新潮社から出版している。著者の加藤詩子は、カメラマンとしてストリッパーを撮影するうち、引退していた一条さゆりに興味を持ち、共同生活を送りながら彼女の人生を書いたのであった。

 サユリストとさゆりスト、このふたりのさゆりは、男性にとっては、女性のサガの表と裏の真実、演技と表現、幸福と不幸、華やかさと寂しさ、幸運と悲運、このようにふたりのさゆりは正反対のさゆりであったが、どちらのさゆりも、男性にとって愛すべきさゆりであった。