ケネディー大統領暗殺

ケネディー大統領暗殺 昭和38年(1963年)

 昭和38年11月22日、ちょうどその日は、日米間で初めてのリレー衛星によるテレビ中継が始まる日であった。宇宙中継では史上最年少の43歳でアメリカ第35代大統領になったジョン・F・ケネディーの放映が予定されていた。当時は衛星中継とはいわず、宇宙中継と呼んでいた。

 この記念すべき日を前に、各マスコミは取材に追われていた。そこに飛び込んできたのがケネディー大統領暗殺という悲報だった。テレビはケネディー大統領を失ったアメリカ国民の悲痛ともいえる悲しみを放映した。

 大統領の座に就いて約2年半のケネディー大統領は、翌年に大統領選挙を控え、テキサス州ダラスを遊説中であった。ダラスの飛行場からジャクリーヌ夫人らとともにオープンカーに乗り、沿道の歓迎に応じながらパレードを行っていた。

 ケネディー大統領はオープンカーの後部座席に座り、熱狂的な観衆に手を振っていた。ヒューストン通りを徐行しながら左折、エルム通りに入った時に暗殺が起きた。午後0時30分、ケネディー大統領は3発の銃弾を受け、観衆の目の前で崩れ落ちた。

 1発目の弾丸はケネディーの後部から首を貫き、前席に同乗していたテキサス州知事・コナリーも重傷を負った。2発目の弾丸は右前方から頭部に命中、3発目の弾丸はケネディー大統領の頭蓋骨を吹き飛ばした。ジャクリーン夫人が車から乗り出し、散らばった脳を拾い集めようとするシーンが映し出された。自動車は全速力でパークランド病院へ向かった。

 この映像は、衝撃的ニュースとなって全世界に伝えられた。ケネディー大統領はパークランド病院で救命処置を受けたが、即死に近い状態であった。パークランド病院の6人の医師団は病理解剖を申し出るが、シークレット・サービスはこれを拒否、ワシントンの海軍病院で解剖が行われた。

 FBIと地元警察は、暗殺事件からわずか80分後に容疑者として元海兵隊員のリー・オズワルド(24)を映画館で逮捕した。オズワルドは教科書倉庫6階の角部屋から狙撃したとされているが、逮捕されたオズワルドは犯行を否認した。

 事件から2日後、郡刑務所へ移送される途中の警察の地下駐車場で、オズワルドはジャック・ルビー(52)にピストルで下腹部を撃たれて死亡した。ルビーはストリップ酒場のクラブ経営者で、そのルビーも1967年に死去、死因はがんとされているが詳細は不明である。

 アメリカ政府はアール・ウォーレン最高裁首席判事をトップとする7人委員会(ウォーレン委員会)を設置して真相の究明にあたった。1年間に及ぶウォーレン委員会の調査結果は、「オズワルドという共産主義者が、教科書倉庫ビルの6階から3発のライフル弾を撃ち込んで大統領を射殺し、またルビーには背後関係はなく、この暗殺事件はいかなる陰謀とも無関係である」というものであった。

 このケネディー大統領暗殺事件は多くの謎を含んでいた。それはパレード直前に道順を変えた警備体制、角度の違う不自然な弾道、教科書倉庫6階に2人の男性がいたという目撃証言、逮捕されたオズワルドから硝煙反応が出なかったことなどである。

 このようにオズワルドの単独犯には疑問点が多すぎた。オズワルドが射殺されて迷宮入りとなったが、この暗殺事件はFBI、CIA、軍部、政敵などによる国家機関関与の犯罪とうわさされた。

 自動車パレードの前方の陸橋付近から複数犯によって大統領が狙撃され、ライフルの発射音も背後からではなく前方から聞こえたという複数の証言があった。ビデオに映された暗殺の映像では、1発目の弾丸でケネディーの身体は前に傾き、3発目の弾丸によって後方に身体がのけぞった。このことから後方と前方の2カ所から撃たれた説が有力である。偶然と思われるが、前方から発射音が聞こえたと証言した18人が次々に変死または怪死し、このことが謎を深めた。容疑者オズワルドは共産主義者で、ソ連に住んでいたことは事実であったが、FBIまたはCIAの手先、あるいはマフィアの情報屋という状況証拠もあった。

 ケネディー暗殺の真相は不明のまま多くの陰謀説があるが、その中で最も信憑性が高いのは、ベトナム戦争の拡大を望んでいた軍需産業と石油資本による暗殺説である。ケネディー大統領の最優先政策は戦争回避で、ベトナム戦争から撤退する政策を出していた。

 ケネディー大統領の後任に、副大統領であるリンドン・ジョンソンが就任したが、このジョンソン大統領を犯人とする説が根強く残っている。ジョンソン大統領の顧問弁護士エドワード・クラークが事件後にオーストラリアの大使に任命され、さらに200万ドルを受け取っていたことが税務調査で判明。このクラークの部下であるウォレスの指紋が教科書倉庫に残されていた。ウォレスは事件直後に警察官に職務質問を受けたが、ウォレスはシークレット・サービスと答え、シークレット・サービスのバッジを見せている。このバッジは副大統領が管理しており、副大統領でなければ入手できないものであった。ジョンソン大統領陰謀説の傍証として、ケネディー大統領暗殺後のジョンソン大統領、ニクソン大統領がいずれもベトナム戦線を拡大させ、アメリカの夢を壊し、ベトナム戦争を泥沼状態に陥れたことが挙げられる。世界から尊敬されていたアメリカは、アメリカのヒーローであるケネディー大統領の死とともに消えたのである。

 ケネディー大統領の暗殺は共産主義陣営説、キューバ説、白人優越主義を唱えるKKK説など、さまざまいわれている。ウォーレン委員会が収集した膨大な資料は80年間非公開とされ、現在も国立公文書館に保管されている。ケネディー大統領暗殺の真相はアメリカの情報公開法により2029年に明らかになる予定である。

 ケネディー家はアイルランドからの移民であった。アイルランドでは100万人が餓死するほどのジャガイモの大飢饉に襲われ、飢餓のため100万人が祖国を捨て新天地アメリカへ移住し、ケネディー大統領の曽祖父も、他のアイルランド人たちとともに1849年に移住した。

 当時のケネディー家は食事に困るほど貧困な生活であった。祖父のパトリック・J・ケネディーの代になって、暮らしは良くなるが財産を築くほどではなかった。ケネディー大統領の父親ジョセフ・P・ケネディー・シニアはハーバード大学を卒業、苦労しながら銀行、映画産業で成功していた。1929年の株式市場の大暴落前に株を売り抜け、禁酒法時代に薬用アルコールの名目でウイスキーをイギリスから輸入して世界有数の富を築いた。その富は1兆円を超えていた。また政治にも関心が強く、ルーズベルト大統領を当選させるために資金を提供し、その見返りとして駐英大使に任命されている。

 1917年5月29日、ケネディー大統領はマサチューセッツ州ブルックリンで誕生。少年時代はアジソン病に侵され、ベッドの上で本を読みあさっていた。また学生時代にフットボールで背骨を痛め、この痛みに生涯悩まされることになる。1940年にハーバード大学を卒業、卒業論文ではイギリスの第二次世界大戦の準備不足を指摘した「イギリスはなぜ眠っていたか」を書き、英米で8万部を売るベストセラーとなった。

 大学を卒業すると海軍を志願し、海軍情報部に配属され、アジア太平洋戦争が始まると魚雷艇の艇長になった。ソロモン諸島沖海戦で日本の駆逐艦「天霧」に体当たりを受け撃沈するが、部下を抱きかかえながら16時間漂流して救助された。このことがアメリカで報道されると、ケネディーは一躍英雄となった。

 太平洋戦争が終わると民主党に入党、1946年マサチューセッツ州から下院議員選挙に出馬し、29歳の若さで当選する。3年後には上院議員に当選し、大統領の階段を着実に上っていった。 1953年には新聞社のカメラ記者であるジャクリーンと結婚。1957年に英雄的政治家の伝記「勇気ある人々」を執筆し、ピューリッツァー賞を受賞した。

 1960年の大統領選挙に民主党から立候補し、ケネディーはニュー・フロンティア精神をスローガンに、大衆や進歩的知識人の関心を呼んだ。歴代のアメリカの大統領は、白人のアングロ・サクソンでプロテスタントであった。ケネディーはアイルランド系でカトリック教徒であったが、このハンディをはね返すほど若くてハンサムな候補者だった。ケネディーの登場はアメリカ人を魅了し、国民に夢と希望を与えた。

 共和党大統領候補ニクソン副大統領とのテレビ討論では、防衛、経済問題が取り上げられ、ケネディーは落ち着いた若々しい身振りを交えながら新政治体制の必要性を訴えた。最優先すべき課題は戦争回避で、安全を守るためには忍耐が必要と訴えた。

 ケネディーは11万票というわずかの差でニクソン副大統領を破り大統領となった。この勝敗は、テレビ討論における演出の差だったとされている。テレビに映るニクソンはケネディーとは対照的に選挙で疲れ果てた表情であった。この討論会をラジオで聞いていた人たちのアンケート調査では、ニクソンの方が勝っていたのだった。

 ケネディー大統領は就任式で、「アメリカ国民諸君、国が諸君のために何をしてくれるかではなく、諸君が国のために何ができるかを考えなさい。世界の諸君、アメリカが何をしてくれるかではなく、人類のため、何ができるのかをみんなで考えてもらいたい」、という有名な演説を残している。大統領任期中にはキューバ危機、有人衛星打ち上げ成功、アポロ計画の立案、人種問題などがあったが、何よりもアメリカに夢をもたらした功績は大きい。ケネディー大統領は自分のためではなく、他人のため、人類のために何をすべきかを考える偉大な大統領であった。

 1963年、ワシントン大学でソ連を念頭に置いて次のような演説を行っている。「お互いの考えに違いがあることは認めよう。もし今、その違いを克服できないとしても、少なくとも多様性を認める世界をつくる努力をすることはできる。なぜなら、私たちは皆、この小さな惑星に住み、同じ空気を吸い、子供たちの未来を大切に思っているから。そして皆、やがては、死んでいく身なのだから」。この演説はソ連でも放映された。

 ケネディー大統領は46歳の若さで死去したが、ケネディー家はまるでのろわれたように多くの悲運に見舞われている。ケネディー大統領の兄ジョセフ・ケネディーは、第二次世界大戦で自ら操縦する爆撃機が墜落して29歳で死亡している。弟のロバート・ケネディーは大統領まであと一歩のところで44歳で暗殺された。末弟のエドワード・ケネディは自動車事故で秘書のコペクニー嬢を溺死させ(チャパキディック事件)、警察への連絡が遅れたことが政治家としての資質を問われ失脚。ケネディー大統領の1人息子のジョン・F・ケネディー・ジュニアは大統領が暗殺されたときまだ2歳だったが、葬儀で父親のひつぎに向かって敬礼する姿が世界中の涙を誘い、ケネディー家のシンボルになっていた。このケネディー・ジュニアは結婚式に向かう途中、小型飛行機が墜落して死亡している。

 ケネディー夫人のジャクリーヌは、アメリカ大統領夫人という栄光と地位を捨て、世界有数の大富豪オナシスと結婚した。故ケネディー大統領とは似ても似つかぬ短身肥満、高齢のギリシャ人富豪と再婚したことに世界中が驚いた。ジャクリーヌはケネディー大統領と表面上は理想的な夫婦を演じていたが、実際にはケネディー大統領との仲はうまくいってなかった。ケネディー大統領は浮気性で、何人もの愛人がいた。特にマリリン・モンローとは恋仲にあったとされ、モンローの自殺は、自殺ではなくアメリカの機密を知りすぎたために暗殺されたという説が信じられている。

 ケネディー大統領暗殺時、ジャクリーン夫人が散らばった脳を自動車から身を乗り出し拾い集めるシーンは人々の涙を誘った。しかし実際には、車から逃げ出そうと身を乗り出したのが真相とされている。そのジャクリーヌ夫人も1994年5月20日、がんにより64歳で死去している。いずれにしてもケネディー大統領が現職中のアメリカは、古き良きアメリカの時代であった。