アンネの日

アンネの日 昭和36年(1961年)

 「40年間、お待たせしました」。昭和36年10月26日、このキャッチフレーズが新聞広告に掲載され人々を驚かせた。それまで日陰者であった女性生理用品「アンネ・ナプキン」(アンネ社)がこのキャッチフレーズで衝撃的なデビューを果たしたのである。アンネ・ナプキンはそれまで吸収綿だった生理用品を紙製に変え、使い勝手が改良されていた。この大胆な宣伝によって、アンネ・ナプキンは驚異的な売り上げを記録することになった。

 「40年間、お待たせしました」というのは、アメリカでは40年前から紙製のナプキン「コーテックス」が販売されていたからである。第一次世界大戦の従軍看護婦が患者の手当に用いていた紙綿を月経の手当に利用し、これをヒントに紙製の生理用品「コーテックス」が開発されたのだった。

 アメリカでは紙製の生理用品が普及していたが、日本では「アンネ・ナプキン」が発売されるまでは、カット綿と呼ばれる脱脂綿を用いられていた。脱脂綿を使用する際には、その上からゴム製の月経帯を当てるが、それは「もれる、ずれる、むれる、かぶれる、ただれる」の5重苦であった。アンネ・ナプキンは生理による不快感を少なくし、より活動的に行動できるように工夫されていた。

 アンネ・ナプキンは12個が1セットで100円であった。当時の100円は米1キロの値段に相当していたが、働く女性を中心に爆発的な人気で迎えられた。逆に言えば、アンネ・ナプキンが女性の社会進出を助け、日本の高度経済成長を支えたといえる。日本初の紙製生理用品がこのように華々しくデビューした。

 アンネ・ナプキンの発売により、女性の生理時の不快感が軽減されたが、それ以上に、生理が持つ暗いジメジメとした日本人の不浄観を大きく変えた。アンネ・ナプキンが発売されるまでは、生理は「隠すべきもの、不浄なもの、恥ずかしいもの」で、生理用品は日陰商品とされていた。生理用品は避妊具と同様、表だって売られる商品ではなかった。アンネ・ナプキンの登場はこの暗いイメージを吹き飛ばし、生理用品に市民権を与えた。日陰の商品が明るいイメージで売り出され、日本人の生理に対する意識を大きく変えた。

 それまでの日本は、月経中の女性は汚らわしいものとしていた。月経中は仏間に入ることや神社への参拝は禁じられ、明治初期までは月経小屋まで存在していた。月経小屋は古い写真で見ることができるが、たいていは村はずれの汚れた掘っ建て小屋で、月経中の女性たちは家族と離れて月経小屋で生活していた。月経中の女性がその小屋で暮らすのであるが、そこでは肉体労働から解放される特権があった。これは男性社会における女性文化のひとつといえる。

 月経を不浄とするのは現在でも残っていて、女性トイレにある生理用品用のゴミ箱が「汚物入れ」という名称のままである。このような月経の暗いイメージを変えたのは「アンネ・ナプキン」というネーミングであった。アンネという名前はもちろんアンネ・フランクの「アンネの日記」から引用したもので、文学少女趣味的な発想で、少女のもつ清純さ、無邪気な明るさを連想させた。

 このネーミングによって「月経」「メンス」と呼んでいた女性の生理の生々しいイメージが一掃され、またアレ、ナニといった代名詞で呼んでいた月経を、言葉の規制から解放した。アンネという言葉は生理の苦痛を喜びに、陰鬱(いんうつ)を明朗に、閉鎖を開放に変えるネーミングであった。アンネは生理用品の代名詞となり、またアンネ・ナプキンの発売以降、女性の生理日を意味する言葉として「アンネの日」という可愛い言葉が定着した。

 アンネ・ナプキンは若干27歳のアンネ社長・坂井泰子が製品化したもので、ネーミングも彼女によるものである。アンネ・ナプキンは女性の意識と生活を変えただけでなく、女性の地位の向上、男性からの女性解放に役立つことになった。

 坂井泰子はナプキンの先駆者であるが、この坂井を除くと生理用品の研究、改良、販売に携わったのはすべて男性であった。坂井はナプキンの先駆者であったが、その95%の資本金を出資してスポンサーとなったのはミツミ電機の社長・森部一であった。

 なおアメリカでは生理用品のことをサニタリー・ナプキンと呼んでいた。そのため、アンネの後ろにナプキンという言葉をつけたのである。現在のナプキンの基本型となるアンネ・ナプキンが誕生して数年後には、生理用品はスーパーマーケットで気軽に買えるようになった。ナプキン市場には約300社が参入し、激しい競売の時代を迎え、平成4年、アンネ社はライオンに吸収合併され社名は消滅した。

 生理用品としてアンネ・ナプキンの発売から2年後の昭和38年にタンポンが発売されている。タンポンは膣にモノを入れることへの抵抗感や不潔感、痛みや違和感、使用方法が分からない、漏れの心配から普及は低迷している。昭和49年にアメリカでタンポンによる重篤な感染症TSS(Toxic Shoch Syndorome)が指摘され、決定的なダメージとなった。普及率はナプキンの94%に対しタンポンは6%にすぎない。

 脱脂綿は血液を吸収するだけだが、ナプキンは血液を吸収する吸収材、血液を漏らさない防漏材、肌に触れる表面材の3種類の材料が使われている。肌に接する表面には親水性のレーヨンを採用し、防水紙にはポリエチレン薄膜を採用して、生理処理用品は薄型になり、使用感は向上した。

 昭和39年には吸収材に100%綿状パルプを利用した製品が登場して、大幅なコストダウンをもたらした。昭和48年のオイルショックによる紙不足をきっかけに、多くの製品がナプキンの吸収材を綿状パルプに切り替え、この切り替えによって厚みが約半分のスリムタイプが誕生した。高度経済成長に伴う人手不足から女性の社会進出が活発化し、さらにミニスカートやGパンの流行から、薄形ナプキンが求められるようになった。アンネの発売から10年目にはチャームナップ(ユニチャーム)が市場のトップを占めるようになった。

 昭和48年のオイルショックの年にはトイレットペーパー、洗剤とともに生理用品もスーパーから姿を消したが、その後次々と新製品が売り出された。高分子吸収体を利用したロリエ(花王)、ウィスパー(P&G)が発売され、ナプキンの吸収力が格段に向上した。

 ナプキンの開発目標はいずれも、ずれない、漏れない、肌触りが良いことである。さらに個人の生活に合わせ、「ふつう用」「長時間用」「夜間用」といったナプキンが発売された。

 ファッションの流れ、女性の社会進出によって、生理用品は多様性を増し、さらに女性の心理を重視した商品開発も始まり、表面の肌触りも好みで選べるようになった。昭和から平成になると多様化はさらに進み、厚さ2〜3ミリの「スリムタイプ」が登場。さらにギャザータイプの立体形、吸収構造を工夫した製品などが相次いで発売された。

 現在はユニ・チャームが市場の4割を占めている。ユニ・チャームを創立させたのは高原慶一朗であった。高原は生理用品とは無関係の防火建材を製造する会社の経営者だった。昭和37年に高原はアメリカへ工場視察に行くが、そこで見たのは、日本では薬局で客がこっそり買っている生理用品がスーパーの棚に堂々と並んでいる光景であった。アメリカの女性がナプキンを気軽に買うのを見て、ナプキン市場に乗り出したのである。ユニ・チャームがシェア・トップとなったのは、高原のアメリカ視察から8年目のことであった。

 高原慶一朗はナプキンの製造販売を開始、使いやすさの追求、スーパーなどへの販路開拓に力を注ぎ、昭和49年に大成化工から現在の社名に変更して、「チャームナップミニ」などヒット商品を連発した。昭和53年、高分子吸収材を使った生理処理用品が発売された。高分子吸収材は50〜100倍の血液を吸収し、吸収した血液は圧力がかかっても漏れない性質を持っていた。このことから、従来の製品より薄型で十分な吸収力を持ったナプキンを作ることができた。さらに紙おむつ、大人用おむつなどへの事業を拡大している。

 生理用品についての歴史を振り振り返るとその資料は極めて少ないが、生理用品はどの時代、どの国でも局所に「当てる」か「詰める」かで、つまりナプキン式あるいはタンポン式であった。

 エジプトの女性のミイラの腟からパピルスが発見され、古代エジプトの生理用品はタンポン式であったとされている。ナプキンはそれを身体に固定する「当てもの」が必要だったので遅れて普及した。当てものの形はどの国でもT字帯かフンドシ状である。

 日本の生理用品は、古い時代は軟らかくした植物か海綿をタンポンとして利用していた。あるいは軟らかくした草の葉を敷いていた。平安時代の医師・丹波康頼が円融天皇に献上した日本最古の医学書である「医心方」に月経帯の記載がなされている。「医心方」には漢字で月経帯と書かれているが、月経帯はケガレヌノと読まれていた。

 江戸時代には和紙や古布が用いられ、手製の月経帯はひもで締めるものであった。明治21年に発行された婦人衛生雑誌「婦人衛生会雑誌」の第1号には、「月経時に用いる布片は必ず新鮮清潔の布にて作るべし、古布を用いるならば必ず洗濯したものを用いるべし」と書かれている。一般庶民は手ぬぐいでT字帯を作り使用していた。

 日清戦争で従軍看護婦が兵士の傷の手当てに用いる脱脂綿を転用したことから、脱脂綿が生理用品として普及するようになった。それまで肌に当てていた紙や古布に代わり、脱脂綿が使われるようになった。

 大正2年にゴムを用いた和製月経帯「ビクトリヤ月経帯」が発売され、当時としては高級品であったが、デパート、薬店、小間物店で売り出された。高額であったが看護婦や車掌、デパートガールなどの職業婦人を中心に売り上げを伸ばしていった。さらに脱脂綿をガーゼでくるんだ生理用品が登場したが、多くはT字帯と脱脂綿の組み合わせだった。

 昭和13年には、消毒綿の和製タンポン「さんぽん」が桜か岡研究所(現エーザイ)より既婚者用に発売された。当時は貞操が重視されていたので、処女膜が破れる心配から、タンポンは既婚者用であった。しかし戦争の激化とともに綿花が不足し、脱脂綿は貴重品となり、多くの女性たちは脱脂綿の代りにチリ紙(京花紙など)を用いることになった。

 戦後しばらくの間は、ガーゼ、脱脂綿、チリ紙が用いられていたが、昭和26年8月に脱脂綿が統制解除され、脱脂綿が生理処理用品の主役となった。次に脱脂綿を生理に適した大きさにしたカット綿が登場、それまで自分で適当な大きさにちぎって使用していた平綿に比べ便利になった。

 昭和36年にアンネ・ナプキンが発売となるが、月経は恥ずかしいもの、隠すものとする常識をアンネ・ナプキンが打ち砕き、わが国の生理用品に革命をもたらした。昭和37年の生理用品に関する調査では、脱脂綿が最も多く全体の67%、紙製の生理処理用品は26%だった。これが7年後の昭和44年には、脱脂綿5%、ナプキンが89%と大逆転している。

 なお1人の女性が一生の間に使用するナプキンは1万4000個と計算される。生理用品は年間約100億枚売れ、2兆円産業となっている。日本のナプキンは世界一の品質を誇り、欧米やアジアに輸出されている。