アインシュタイン 

アインシュタイン 昭和30年(1955年)

 昭和30年4月18日、アメリカのプリンストン病院で理論物理学者アインシュタインが胆嚢炎のため76歳で死去した。アインシュタインは時間や宇宙という大きな謎を解き明かし、それまでの物理学を根底から覆す発見を人類にもたらした。20世紀を代表する天才アインシュタインの名前は誰でも知っているだろうが、「単純なものこそ美しい」と表現した彼の宇宙と時空の理論を知れば、彼がいかに天才であったかが分かるはずである。

 アインシュタインは1879年にドイツの小都市ウルムでユダヤ人の子供として生まれた。3歳になってもしゃべれず、両親は知恵遅れの子供と思い失望していた。この子供がまさか天才と呼ばれようになるとは想像もしていなかった。少年時代のアインシュタインは学校が嫌いでクラスでは孤立していた。学校にはあまり行かず、独学で好きな自然科学の本を読んでいた。成績は悪くはなかったが、頭の悪い子供とされていた。

 ある日、5歳のアインシュタインに父親がコンパス(羅針盤)を見せた。アインシュタインはコンパスの針が常に一定の方角を指すのを見て、「物事の背後には目に見えない隠された何かがある」と直感した。針が一定の方向を向くのは地球の磁場によるものであるが、5歳のときから自然現象への洞察が鋭かったのである。また6歳頃からバイオリンの指導を受け、バイオリンは彼の生涯において心を和ませる大好きな楽器となった。

 アインシュタインは数学、物理学、哲学が好きであった。訪ねてくる叔父や知り合いの医学生に科学や物理学の指導を受け、彼らと議論を交わすことを楽しみにしていた。11歳で中等教育学校に入学するが、当時は軍国主義教育である。権威主義が幅を利かし、団体行動を強いられていた。学生は寄宿舎での生活であったが、それを嫌ったアインシュタインは知り合いの医師に、「学校生活に耐えられない精神状態である」と診断書を書いてもらい、勝手に家族のもとへ帰った。

 16歳の時、チューリッヒのスイス連邦工科大学を受験するが不合格であった。数学の成績は優秀だったが、現代語、動物、植物が合格点に達していなかった。しかし翌年には合格し、スイス連邦工科大学で数学と物理学を学ぶことになった。当時の物理学はニュートン力学が中心であったが、アインシュタインはニュートン力学に批判的であった物理学者エルンスト・マッハの影響を受け、最先端の学問である電磁気学にのめり込んだ。

 大学での彼の成績は優秀とはいえず、そのため博士号はもらえずに大学を卒業。卒業後の2年間は無職に近い生活で、高校教師、家庭教師などをしていたが、友人の紹介でスイス連邦特許局に就職することになった。特許局は申請された特許内容を審査する仕事であるが、その仕事は彼の科学的興味を満足させ、また決められた時間に仕事が終わるので、自由に研究ができた。仕事のかたわら自由な発想で独自の物理学の世界を作り上げていった。

 アインシュタインは実験室を持たない公務員だったが、彼には実験室は必要なかった。彼の頭の中が実験室で、頭で考えたことをノートに書きながら思考を繰り返していた。物理学者は実験結果から法則を見出したが、アインシュタインは「思考実験を繰り返して物理学の理論を見つける」という理論物理学の先駆者であった。宇宙という壮大な世界をどのように説明するのか、それが彼の理論思考のすべてだった。

 1905年、アインシュタインが26歳のときである。彼はそれまで「波」とされていた光が「粒子」であるという画期的論文を発表した。さらに数カ月後には、特殊相対性理論を発表、この年は彼にとって奇跡の年と呼ばれている。

 アインシュタインは「光とは何か」を常に考えていた。それまでの物理学者は光の速度の変化を測定しようとしたが、実験はことごとく失敗していた。地球は公転しているのだから、公転している方向に進む光の速度と、逆の方向に進む光の速度は違うはずである、がどの実験でも光の速度は同じだった。

 なぜ光の速度が一定なのか、このことは当時の物理学の大きな謎であった。この疑問にアインシュタインは「光の速度は絶対で、他の何かが変化している」と考え、「光の速度は一定で、時間の流れが変化する」という理論にたどりつくのである。

 時間が変化する理論は、それまでの物理学を根本から覆すものだった。宇宙の誕生から今日に至るまで、時間は正確に刻まれ絶対不変と誰もが信じていた。時間が伸びたり縮んだりするという発想はなかった。ところが特殊相対性理論は「速く動けば速く動くほど、時間の流れは遅くなる」というもので、もし光に乗って動くことができれば、時間は停止するはずであった。

 例えば時速100キロで走っている自動車を、時速96キロで走っている自動車の運転手がみれば、時速4キロのスピードに見えるはずである。ところが、光の速度は静止している人が測定しても、猛スピードで走っているロケットの中で測定しても同じなのである。この矛盾は静止している人の時間と、猛スピードで走っているロケットの中の時間の長さが違っていることで説明できた。この常識を覆す特殊相対性理論は難解で、理解できる物理学者は世界に数人もいないといわれたほどであった。だが彼の理論は、後の実験で確かめられることになる。

 地球の極点と赤道では、地球の自転によって速度に差がある。地球の極点と赤道に置かれた時計を比較した実験で、赤道に置かれた時計の時間がわずかに遅くなったのである。また飛行機に乗せたわずかな時計の遅れが特殊相対性理論と一致したのだった。この論文によってアインシュタインは新進気鋭の物理学者として世界の注目を集めた。特許局に勤め、研究室を持たない26歳の若者が、宇宙に関する認識を完全に変えたのである。彼はこの特殊相対性理論によって「速度と時間の関係」を証明した。

 1916年、次にアインシュタインは「一般相対性理論」を完成させ重力の問題を解決した。この一般相対性理論は「重力は空間のくぼみで、重力は光を含めたあらゆるものを引き寄せる」というもので、ニュートン力学を全面的に書き換えるものだった。

 それまで光は直進するとされてきたが、一般相対性理論は光も重力によって曲がるという考えであった。光が曲がるということは、直進するよりも長い距離を移動することになる。光のスピードは一定であるから、重力が大きければ大きいほど時間の流れが遅くなる。この「光は重力によって曲げられる」という彼の理論は、1919年の皆既日食の観測で見事に証明された。英国の観測隊が、本来なら見えるはずがない太陽の裏側の星を皆既日食の際に観測したのである。これは星の光が太陽の重力によって曲げられたことを証明する観測であった。彼の理論からブラック・ホールが予言され、後にその存在が証明されることになる。ブラック・ホールとは強力な重力によって、光さえも外に出ることができず、時間が止まるというものであった。

 また、「化学反応によって物質の重さが減少すると、減少した分だけ運動エネルギーが増加する」という理論を打ち立て、この論文は特殊相対性理論を発表した4カ月後に発表された。質量とエネルギーの関係を示したE=mc2という有名な公式の登場である。Eはエネルギー、mは質量、cは光の速さを示し、あらゆる物体にはエネルギーが含まれ、「エネルギーは質量×光の速度の2乗」とする公式であった。つまり1gの物質には、莫大(ばくだい)なエネルギーが秘められていることを示していた。物質には莫大なエネルギーが閉じ込められ、核分裂によって計り知れないエネルギーが出ることを数値で示したのである。この公式がなければ、原子力の実用化、原子爆弾の開発は大幅に遅れたとされている。

 アインシュタインは理論物理学者と呼ばれている。理論物理学とは頭の中で実験を繰り返し、普遍的な理論を組み立てる学問である。それまでの物理学は実験や観測データから定理を導くものであったが、理論物理学は理論があって、その理論を実験で証明するのである。宇宙の仕組みや物質の振る舞いをうまく説明できる仮説を作り、普遍的な理論に組み立て、それを証明するのであった。

 アインシュタインは、「自然界において絶対なのは光の速度で、相対的なのは時間と空間である」という概念を誕生させた。300年にわたって信じられてきたニュートン物理学を変え、新しい物理学の時代を切り開いた。アインシュタインは宇宙や自然界には偶然はあり得ず、すべては何らかの法則によって成り立っていると考えていた。「神がサイコロを振ることはあり得ない」とした。

 1917年にアインシュタインは一般相対性理論をもとに「宇宙モデル」を発表する。宇宙における時間、空間、エネルギーを方程式で示したのであるが、この方程式によると宇宙はいつか縮んでしまうことになった。この彼の宇宙理論以降、多くの理論物理学者が宇宙の存在を数値で示そうとしたがまだ完成されていない。

 アインシュタインは日本にも来ている。1922年の10月8日、マルセーユから日本郵船の北野丸に乗り、北野丸が上海に向かっている途中の11月10日、スウェーデン科学アカデミーのノーベル賞委員会はアインシュタインにノーベル物理学賞を与えると発表した。

 アインシュタインは11月17日に神戸で下船、12月29日まで日本に滞在し、日本各地で熱狂的な歓迎を受けた。各地の講演会には数千人が集まり、話を理解できなくても聴衆は催眠術にかかったように身動きもせずに静聴した。

 アインシュタインは世界的な有名人となったが、ドイツでは「第1次世界大戦で負けたのは、ユダヤ人が協力しなかったから」とする反ユダヤ主義が意図的に広められていた。そのため、1933年10月、アインシュタインはナチスの迫害から逃れるためアメリカに渡った。

 アインシュタインは「暴力は何の解決をも生み出さない」とする平和主義であったが、多くのユダヤ人が殺害されているのに怒りを覚え、ナチスを倒すためには暴力しかないと次第に考えるようになった。1939年、原子爆弾開発を促す手紙をルーズベルト大統領に提出し、マンハッタン計画が開始されることになった。

 第二次世界大戦が終わると原爆の悲劇を知り、平和運動、世界連邦運動、核兵器根絶運動に尽くすことになる。1948年、プリンストン高級研究所を訪れた湯川秀樹博士に、原爆が日本に投下されたことを謝罪したほどであった。

 アインシュタインの業績は華々しいものであったが、それ以上にユーモアあふれた表情や言動、親しみやすい風貌で人々の心を魅了した。相対性理論について、「男の子が可愛い女の子と1時間並んで座っていたとすれば、その1時間は1分のように感じるでしょう。もし熱いストーブのそばに1分間座っていたら、その1分間は1時間のように感じるでしょう。これが相対性理論です」とユーモアで答えてくれた。

 1955年4月18日午前1時15分、アルバート・アインシュタインは息を引き取った。享年76。葬儀はわずか12人の参列だけの簡素なものだった。彼の遺志により、灰となった遺体は近くのデラウェア川に流された。アインシュタインの墓はないが、彼の名前は永遠に残るであろう。