お化粧の時代

【お化粧の時代】昭和28年(1953年)

 日本人は生きること、食べることに必死で、戦後数年間、日本の女性は化粧をする余裕がなかった。しかし戦争からの開放にあふれた女性は、もんぺを捨てワンピースに着替え、女性のファッションは和服から洋装へと変わり始めた。特に夏の猛暑によってノースリーブが流行し、実用的で健康的なノースリーブが女性ファッションを変えた。耐乏生活を余儀なくされていた若い女性たちは、化粧の方法を知らなかったが、おしゃれは女性の本能である。若い女性は心を躍らせながら口紅やリボンをつけて街に出た。

 昭和24年には初のファッションショウが開催され、昭和26年、第1回ミス日本で、後に俳優となる山本富士子が優勝した。昭和28年にアメリカのマイアミで行われたミス・ユニバース世界大会で伊東絹子さん(19)が3位に入賞し、この突然の快挙に日本中が沸きあがった。日本人ばなれした伊東絹子の体型から8頭身美人という言葉が流行し、男性ばかりではなく日本全体が明るいムードに包まれた。日本人の体型が欧米並みになったと新聞は報じたが、当時20歳の日本人女性の平均身長は153.9cm、平均体重は49.6kg、バストが平均80.7cmで、身長164cm、体重52kgの伊東絹子さんは当時としてはかなりのプロポーションであった。なお8頭身とは頭が身長の8分の1という意味である。

 いずれにしても伊東絹子さんのシンデレラ・ストーリーによって、日本の若い女性はお洒落やファッションへ目を向け、また映画で見る外人女優の化粧や服装を意識するようになった。

 昭和30年頃から化粧品が店頭に出回るようになり、日本の女性も化粧をするゆとりができてきて、日本の女性はきれいになっていった。昭和32年には東京・渋谷東急会館に資生堂美容室がオープンし、美容室に行くことが山の手女性のステータスとなった。化粧品メーカーも宣伝が激しくなり、ミツワは有馬稲子、コーセーは南田洋子、黒龍は原節子を専属に起用した。 

 昭和30年の11月にマンボダンスが流行、同時に細身のズボンにリーゼントのマンボスタイルが流行した。翌31年には石原慎太郎原作の映画「太陽の季節」が放映され、アロハシャツと慎太郎刈りのヘアスタイルが流行し、若い男性もファッションを意識するようになった。

 化粧とファション、お洒落は贅沢とされていたが、お洒落は自由な意志の表現で、自由と民主主義のバロメーターである。昭和34年にはアメリカのロングビーチで行われた第8回ミス・ユニバース世界大会で児島明子さん(22)がアジア人として初めて優勝。高知県出身の児島明子さんは帰国後、日本各地でパレードを行い、日本に希望と活力を与えてくれた。その後、児島明子さんは人気俳優・宝田明さんと結婚している。現在のミスコンテストは女性差別の声から下火になっているが、当時のミスコンテストは日本が世界に追いつくひとつの象徴であった。