結核死亡率半減記念式典

結核死亡率半減記念式典 昭和27年(1952年)

 新石器時代のヒトの骨格から結核の病巣が発見されたことからも、結核は太古の時代から人類を苦しめてきたことが分かる。世界各地の古代文献にも結核の記載が残されていて、ヒポクラテスは結核を「消耗病」と名付けていた。

 この結核が急増したのは、18世紀にイギリスで始まった産業革命がきっかけであった。産業革命により産業構造が農業から工業へ変わり、人々の生活が農村から都市へ移ったことが、結核の蔓延する環境をつくった。産業革命の時代、イギリス人の1%が結核を発症したとされ、日本では明治初期から結核が増加することになる。

 昭和10年、それまで死亡率第1位であった肺炎・気管支炎に代わって結核が第1位となった。以後昭和25年まで、結核は日本人の死因の第1位の座を守り続け、毎年10万人以上の日本人が結核で死亡した。その当時、結核は若者の命を奪う不治の病として恐れられていた。

 欧米に追い着くことが日本の目標であった時代、国の宝である若い労働者や兵隊の命を奪う結核は「亡国の病」と呼ばれていた。富国強兵が叫ばれていた時代、国家的損失をもたらす最大の敵が結核だった。

 横山源之助の「日本之下層社会」、細井和喜蔵の「女工哀史」、石原修の「女工と結核」に当時の底辺の人々の生活が詳しく書かれている。それらの本を読めば、富国強兵政策を担う若者がその政策に圧迫され、若い娘たちが最悪の環境の中で結核になっていたことが分かる。農村から都会に出てきた若い労働者は、長時間労働、低賃金、低栄養という過酷な条件下で、次々に結核に罹患していった。特に紡績工場で働く女子労働者は、「女工哀史」から想像できるように劣悪な労働条件で働いていた。

 当時、日本の主産業は繊維業で、女子労働者40万人が繊維工場で働いていた。年齢は15歳から19歳で、彼女たちはタコ部屋同然の寮に入れられ、全寮制度が結核を蔓延させた。結核は咳やくしゃみにより空気感染するため、不衛生の集団生活を強いられた労働者の間で容易に蔓延していった。しかも健康管理の概念が乏しかったので、結核が進行して喀血するまで働かされた。結核が進行して働けなくなると労働者は農村に追い帰され、そのため結核は農村に持ち込まれ、日本中で流行することになった。

 患者の多くが若者であったことが、より悲劇的なものにした。さらにヒトからヒトへ感染することが周囲の偏見と差別をよんだ。青白い顔をした青年たちは洗面器に鮮血を吐き、孤独の中で死んでいった。当時の人たちが結核を恐れたのは、治療法がなかったからである。

 結核への本格的な対策がとられたのは、多くの若者が結核に冒され、徴兵検査で不合格者が増えたからである。新鮮な空気を吸うこと、日光浴がよいとされ、サナトリウムが各地に建設された。患者はサナトリウムのベッドの上で長時間を過ごしたが、治療の効果はなかった。

 戦争が長引くにつれ、栄養状態の悪化がさらに結核を蔓延させた。結核の罹患率の増加に加え、死亡率も高まっていった。終戦後の昭和22年の統計によると、結核による死亡数は年間14万6000人に達していた。日露戦争の戦死者が12万人であったことから、いかに多くの人たちが結核で亡くなったかが分かる。まさに結核は「亡国病、国民病」であった。

 終戦時の食糧難の時代に、体力のない結核患者が食糧を確保することは困難であった。結核療養所の患者たちは配給が少ないうえに、療養所の職員による配給食糧の横流しが横行し、満足な栄養をとることはできなかった。

 結核の治療には栄養補給が最も大切であるが、その食糧が不足していた。療養所の患者たちはこの状況を打開するため、「日本患者同盟」を組織して抗議するに至った。全国規模の結核患者が結束して行政に抗議する世界でもまれな組織ができた。

 しかし結核療養所に入所している患者はまだ恵まれていた。結核療養所に入所している結核患者は全体のわずか5%で、残り95%の患者は自宅で療養していた。自宅で療養を強いられた患者は何らの保護も受けられず、栄養失調により症状を悪化させていった。

 現在の人たちが、がんを恐れるように、当時の人たちは結核を恐れていた。結核に取り付かれることは死を意味していた。当時の医師は、結核患者に肺浸潤、肋膜炎、肺尖カタル、カリエスなどの病名を告げることがあった。これらの病名はすべて結核と同じ意味であるが、結核そのものが伝染性、不治の病とする暗いイメージを持っていたので、医師は結核という直接的な病名を避けていたのである。ちょうど今の医師たちががんと言わず腫瘍と告げるのと似ている。

 国民病、亡国病と呼ばれていた結核の厚い壁を破ったのは、昭和18年に米国の細菌学者ワクスマンが発見したストレプトマイシンであった。ストレプトマイシンは土壌中の放線菌から発見された抗生物質で、ワクスマンの発見以降は製薬会社メルクが後を継ぎ、大量生産に成功、商品化に乗り出した。

 当時、青かびから精製されたペニシリンが開発されていたが、ペニシリンはブドウ球菌などの化膿菌には劇的効果があったが結核菌には無効だった。ストレプトマイシンは、ペニシリンでは効果のなかった野兎病、ブルセラ菌などのグラム陰性菌に効果があり、特に結核菌には驚異的な治療効果を示した。このストレプトマイシンの発見は、イギリスの医学雑誌「ランセット」に論文が掲載され、その内容は「医学のあゆみ」誌の昭和20年11月10日号に紹介されている。

 昭和24年4月、ストレプトマイシンが日本に登場。しかしアメリカから輸入されたストレプトマイシンは、研究用としてわずか5000人分だけであった。そのため厚生省はストレプトマイシンを各地の病院に厳重に配分し、結核への治療効果を各病院に報告するように義務づけた。ストレプトマイシンの効果は驚異的であったが、米国から輸入された量では、200万人を超える日本の結核患者には焼け石に水であった。そのため結核患者はストレプトマイシンを手に入れるため闇市に殺到したが、闇市では1本3000円の公定価格が3倍以上の1万円で売られていた。そのためヤミのストレプトマイシンを買えたのは裕福な家庭だけで、一般庶民にとっては高嶺の花であった。

 だが昭和25年になると、ストレプトマイシンの国内生産が開始され、健康保険も使用できるようになり、多くの人たちがその恩恵を受けることになった。ストレプトマイシンの登場により、結核は徐々に減少することになる。間もなく、パス、ヒドラジドとの3剤併用が始まり、結核は目に見えて減っていった。

 昭和25年を境に不治の病とされていた結核の予後が大きく変わった。わずか数年の違いによって、結核患者の生死が大きく分かれることになった。

 昭和21年9月から結核予防運動が始まり、レントゲン自動車による街頭検診が行われるようになり、翌22年には予防接種法が公布され、30歳未満の国民は年1回ツベルクリン反応の検査を受け、陰性者はBCGを接種することになった。

 昭和26年4月には新結核予防法が施行され、「結核患者の登録」「医療費の公費負担」「BCG強制接種」が設定され、誰でも結核の治療を受けられるようになった。それまでの結核対策に比べ、新結核予防法は画期的な前進をもたらした。

 昭和26年、結核は日本人の死因第1位を脱して2位になった。昭和22年のピーク時に比べ、5年後の昭和27年には結核死亡率が半減、昭和27年5月27日、厚生省主催による「結核死亡半減記念式典」が日比谷公会堂で行われた。

 結核の死亡数は半減し、結核の脅威は減ったが、昭和28年の調査では結核患者数は553万人、全人口の6.4%がまだ結核に罹患していた。このように結核の脅威は薄れたが、まだ多くの患者が結核の治療を受けていた。

 昭和32年1月20日、結核予防のための健康診断が全額公費負担になり、結核の死亡率はピークの昭和22年に比べ、昭和37年には4分の1、昭和42年には10分の1に低下した。

 現在、結核は過去の病気とされがちであるが、アメリカではホームレスの増加、エイズ患者の増加により昭和60年頃から増加している。日本ではそれまで減少し続けていた結核患者が頭打ちの状態になっている。

 かつて結核は青年の病気であったが、現在では老人の発症率が高くなっている。高齢化に伴う老人の増加と、以前結核に罹患した者が老人になって再発するためである。また生活困窮者、零細企業、出稼ぎ労働者、外国人労働者など健康管理が行き届かない階層での結核増加が注目されている。あいりん地区を含む大阪市西成区では罹患率(人口10万対)が570(日本の平均34)を超えるなど、際だった発病状況になっている。

 現在、日本の結核患者は約4万人、結核死亡者数は年間約2000人である。結核は以前ほどの脅威はなくなったが、感染症の中では現在でも患者数の多い疾患である。

 結核患者が減少したため、結核患者を診察したことのない医師が増えている。そのため結核の診断が遅れるという新たな課題が起きている。また患者の発見の遅れが集団感染を引き起こすことが多い。特に医師、看護師、学校の教師が集団感染の感染源になることがあるため、注意が必要である。