昭和20年

 昭和20年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、翌15日の玉音放送によって長かった戦争は終結した。敗戦による失望と落胆、悲哀と絶望、国民はこの虚脱感の中で呆然と立ちつくすしかなかった。そして我に返れば、都市住宅の3分の1が空爆で焼失し、国内のインフラは破壊され、物量は寸断されたまま日本は壊滅的打撃を受けていた。復員兵や引き揚げ者が狭い日本に戻り、食糧難からエンゲル係数は戦前の32.5%から67.8%へ上がり、人々は極貧の中で「食うため、生きるため」の苦難の日々を送った。

 空腹、貧困、ノミシラミ、不衛生、伝染病、国民生活は最悪の事態になった。しかし戦争が終わった安堵感、空襲のない安心感、軍国主義からの解放、新たな民主主義への期待が人心を支えていた。終戦から5日目には、3年8ヶ月ぶりに外燈がともり、2ヶ月後にはリンゴの歌が焼け野原に流れ、希望に満ちた映画が日本を明るく照らした。鬼畜米英のアメリカ兵は映画俳優のようで、天皇陛下万歳がマッカーサー万歳に変わっていた。

 既存の価値観は崩壊したが、同時に「新生日本の風」が息詰まる心を晴れやかにした。昭和21年にはプロ野球が再開し、昭和22年の「東京ブギブギ(笹置シヅ子)」が地に落ちた神州日本を元気にした。昭和23年に湯川秀樹博士がノーベル賞を受賞し、昭和26年に白井義男が世界フライ級チャンピオンになり、力道山が日本に自信を与えてくれた。日本が初めて経験する国家的敗北のなかで、没落した軍人や華族が密かに嘆いていただろうが、多くの庶民にとって終戦はまさに民主主義の始まりであった。

 連合国軍総司令部(GHQ)は日本の軍国主義を全面否定し、日本が再びアメリカの脅威とならないように、東京裁判で平和に対する罪人として戦犯者を裁き、戦争に協力した者を公職から追放し、戦争の温床となった15の財閥を解体させた。さらに農地改革を行い、自由で民主的な日本を誕生させようとした。しかし米ソの対立が深まると、GHQは日本をソ連共産主義の防波堤とするため、労働組合を取り締まり、警察予備隊を設立させた。このGHQの政策は、日本に史上最大の転換をもたらし、今日の日本の出発点といえる。しかし日本人は故意に忘れようとしているのか、戦国時代や明治維新の激動は語っても、民衆にそれ以上の変化をもたらしたGHQについては語ろうとしない。

 日本経済は統制経済から、闇経済、預金封鎖、新円切り替え、ハイパーインフレを経て、池田蔵相が「中小企業の倒産やむなし」、と発言した2か月後の昭和25年6月、朝鮮戦争が勃発。繊維や金属を中心とした軍需景気から日本経済は息を吹き返し、政府は電力、鉄鋼、海運、石炭などの基幹産業を優遇する政策をとり、日本経済は急速に復活した。昭和26年4月にマッカーサー元帥が解任され、昭和27年にサンフランシスコ平和条約が発効されると、GHQの占領統治は終結し、日本は独立国として輝かしいスタートとなった。もちろんこの講和条約は共産主義国を除く自由主義陣営との単独講和であり、同時に日米安全保障条約も調印され、日本は共産主義陣営と対立することになった。

 昭和20年前後は、薬もなければ医療器具もなく、人々は栄養失調に倒れ、伝染病に命を奪われていた。国民はその日を生きることに精一杯で、医療を考える余裕すらなかった。しかしGHQによる衛生環境の整備、DDT散布による公衆衛生の改善、ペニシリンやストレプトマイシンの普及によって、日本の公衆衛生と医療は、終戦後の数年間で飛躍的な改善をとげた。

 大正10年から14年までの日本人の平均寿命は男性44.8歳、女性53.2歳だったが、昭和20年の日本人の平均寿命は、男性23.9歳、女性39.5歳とされている。戦争によって日本人の平均寿命がいかに低下したかが分かる。しかし昭和26年の平均寿命は、男性60.8歳、女性64.9歳。昭和30年には男性63.6歳、女性67.8歳と急速に延び、戦後10年間で平均寿命が20歳以上延びるという驚異的な時代となった。この平均寿命の延びが、国民生活の向上をそのものを表している。