寿産院もらい子殺し事件

寿産院もらい子殺し事件 昭和23年(1948年)

 昭和23年1月12日夜、東京都新宿弁天町の路上で自転車に乗っていた葬儀屋・長崎竜太郎(54)がパトロール中の警察の尋問を受けた。自転車の荷台に、かさばったミカン箱を4箱乗せていたのを不審に思っての尋問であった。木箱を調べると乳児の遺体が5体見つかり、これが「寿産院もらい子殺し事件」の発端となった。

 早稲田署で取り調べを受けた長崎竜太郎は、新宿区の寿産院から遺体1人につき500円の埋葬料をもらっていたと自白した。寿産院院長の産婆・石川ミユキ(52)と夫の元警官・石川猛(42)に頼まれ、これまで30体以上の赤ん坊の遺体を埋葬していたと自白したのだった。

 赤ん坊の遺体は国立第一病院に運び込まれ、浅野小児科部長の診断では3人は肺炎と栄養失調、2人は凍死とされた。午後には慶応大学で解剖となったが、乳児の胃の中には食べ物の形跡すら残っていなかった。

 警察が新宿区柳町の寿産院を捜査すると、狭い竹製のベッドに7人の赤ん坊が寝かされていた。赤ん坊が次々に栄養失調で死亡しているのに、産院には配給の粉ミルクや砂糖が大量に隠されていた。

 産婆であるミユキは、昭和19年から23年の約4年間に、新聞や雑誌に乳幼児保育の宣伝を行い、生活苦にあえぐ母親から乳幼児1人につき5000円から9000円の保育費を受け取り、食べ物やミルクを与えずに餓死させていた。さらに産院に特配される粉ミルクや産着などを着服し、闇市で売りさばき100万円以上の利益をあげていた。戦後の混乱に紛れ、幼い命を奪う残忍な犯罪であった。産院には配給の粉ミルクや砂糖が大量に隠されていたが、石川夫妻は、赤ちゃんの死亡届を出すと葬儀用に酒2升が配給されることから、それで毎晩、晩酌を楽しんでいた。

 事件発覚から3日後の1月15日、早稲田署はミユキと夫の猛を「もらい子殺人容疑」で逮捕した。昭和23年はまだ戦後の混乱が続いていた時期である。事情があって家庭で育てられない乳幼児が寿産院に預けられていた。そのため事件が報道されても、子供を引き取りにくる母親はほとんどいなかった。犠牲となった乳児の多くは、戦争未亡人、街の娼婦、水商売の女性など戦後の生活難の中で、頼る相手のいなかった女性が生んだ私生児であった。多くの赤ちゃんが犠牲となったが、母親のほとんどが偽名を使っていたので捜査は難航した。

 昭和19年からの約4年間、産院の預かり子台帳に書かれた子供の数は204人で、区役所の埋葬確認証は103枚となっていた。ところが預けた母親の住所や名前のほとんどが偽名で、寿産院から里子に出された98人の落ち着き先も不明であった。実際には何人が死亡して何人が無事だったのかは正確にはわからなかった。 

 逮捕された石川ミユキは、東大病院付属産婆講習所を卒業。東京都産婆会牛込支部長の肩書きをもち、22年には自由党から新宿区議員選挙に出て落選していた。夫の猛は憲兵軍曹で、除隊後警視庁巡査を8年間務めていた。

 昭和27年、東京地裁は殺人罪については証拠不十分として、石川ミユキに懲役8年、猛に懲役4年という極めて軽い刑を言い渡した。偽りの死亡診断書を書いた医師の中山四郎は禁固4年、共犯とされた寿産院助手の貴志正子は無罪、葬儀屋の長崎は不起訴処分になった。なおミユキは判決のあった昭和27年に恩赦で出所し、警察の悪口を言いながら不動産事業で億単位の資産を残したことが昭和44年の週刊新潮に書かれている。

 石川ミユキは「他の産院でもやっていること」と証言、昭和23年2月10日、朝日新聞は「第二の寿産院事件」として新宿区戸塚町の淀橋産院の荒稼ぎを報道した。赤ん坊の死亡が多い新宿区の産院を調べ、淀橋産院が発覚したのだった。淀橋産院では約2年間に赤ん坊62人が死亡、死因の多くが消化不良や栄養失調であった。また死んでいるのに生きていると偽って不正配給を受けていた。淀橋産院事件でも、寿産院院長と同様に赤ん坊の死亡診断書を出していた医師が警察に拘留された。事件とは無関係であるが、同年7月13日、厚生省は「産婆」を「助産婦」に変え、助産婦になるには専門分野を学び、国家試験が課せられることになった。