飢餓の時代

 終戦からの約3年間は国民が飢餓に苦しみ、飢餓に耐えた時代であった。この餓死寸前の食糧不足がなぜ起きたのか、その分析は曖昧のまま、終戦による混乱によると思われがちである。もちろん終戦による混乱もあるが、食糧危機を引き起こしたのは、偶然にも悪天候による凶作が災いしていたのである。
 昭和20年8月15日の終戦の日、あの暑い夏の情景から、その年が凶作だったと想像できる者は少ないであろう。だが同年9月17日には、死者3756人の犠牲者を出した枕崎台風によって農作物は壊滅状態となり、さらに暴風雨や冷害が重なり、同年の農作物の生産高は前年比35%減となっていた。昭和20年は36年ぶりの未曾有の大凶作の年で、さらに朝鮮や台湾からの食糧はストップし、代わりに600万人もの引揚者が帰国したため食糧事情はますます悪化し、人々はサツマイモのしっぽで飢えをしのいでいた。
 昭和20年10月、当時の渋沢敬三・大蔵大臣は、現状のままだと来年度の餓死者は1000万人を超えるとUP記者に語っている。食糧事情の深刻さはこの大蔵大臣の言葉から伺い知ることができる。まさに「瑞穂(みずほ)の国」日本は飢餓列島と化していた。
 昭和20年12月15日、東京・上野の地下道で浮浪者の一斉狩り込みが行われた。浮浪者の多くは戦災によって住居を失った人たちで、親を失った戦争孤児、引揚者、復員軍人が大勢含まれていた。この日の一斉狩り込みで、帰る家を失った2500人が保護収容された。
 日本の都市のほとんどが空襲で破壊され、廃墟の街は膝上ほどに雑草が伸びていた。住む家を失った人たちは雨風の防げる地下道へ集まり、上野だけではなく、横浜、名古屋、大阪などの都市部はいずれも同じような状況になっていた。
 昭和21年の冬は、厳しい寒波が日本を襲い、救援を待てず凍死する者が続出していた。上野駅だけで毎日6人の浮浪者が亡くなっていた。明らかな統計はないが、終戦当時の日本人の死因は結核よりも餓死の方が多かったとされている。東京都衛生局は浮浪者たちの一時収容所を設け、狩り込みで集めた彼らを厚生施設に収容し、自立更正の指導を行った。
 浮浪者たちは戸籍や住民票がないので食料の配給が受けられず、最悪の状況にあった。彼らのほとんどは餓死に近い栄養失調に陥り、伝染病が流行し、病気で倒れる人、飢え死にする人たちが多数いた。内務省の発表では、戦時中に米軍の空襲で消失した家屋が246万戸、防災上の理由から強制的に取り壊された家屋が55万戸。さらに数十万人の子供たちが戦争で身寄りを失っていた。
 同じころ、作家の野坂昭如は幼い妹と神戸の街をさまよっていた。養子に行った先の家が空襲で焼け、野坂昭如は養親を失い、妹をも失うことになる。20余年後、このことを「火垂るの墓」の題名で小説に書き、野坂昭如は焼跡闇市派として、昭和42年に直木賞を受賞している。
 昭和21年の国民1人当たりの栄養摂取量は1日1400キロカロリーであった。このうちの1000キロカロリーが国による配給で、残り400キロカロリーがヤミ市などによる不法なものだった。現在の1人当たりの栄養摂取量は1日2600キロカロリーなので、終戦当時は現在の約半分の摂取量であった。成人男性が身体を維持できる限界は1400キロカロリーとされ、国民全体が餓死寸前の栄養状態にあった。しかも、この栄養摂取量は国民1人当たりの数値であって、食糧事情の悪い都市部の人たちの摂取カロリーはさらに低いものであった。
 都市部では国の配給だけでは生きていけず、しかも配給は遅配、欠配が繰り返され、実際には必要とされる54%の摂取カロリーにすぎなかった。昭和21年6月の東京都の調査では、東京都民のうち米飯を日に3度食べている者は14%、1度しか食べていない者は71%、1度も食べていない者は15%となっている。
 昭和21年5月31日にNHKのラジオ番組「街頭録音」が始まったが、第1回目のテーマは「あなたはどうして食べていますか」であった。東京の小売物価指数は、戦前を100とすると、昭和20年末には308と3倍に上昇し、この物価上昇に給料はとても追いつけなかった。
  終戦のショックが日本中を覆っていたが、新しい日本の息吹が焼け跡から生まれてきた。焼け跡にはバラックが建てられ、終戦5日目の8月20日には、闇市第1号が東京新宿で産声を上げた。開店したのは新宿マーケット(新宿区新宿1-26付近)で、「光は新宿から」をキャッチフレーズに、闇市が日本再建の先端を担ったのである。
 この新宿マーケットを皮切りに、日本各地で闇市が次々に出現した。政府は米、砂糖、木炭などの日常品を配給制度、あるいは価格統制によって厳しく取り締まったが、これに違反する闇市が焼け跡に建てられていった。闇市には食料品から衣料品、盗品から密輸品まで何でもそろっていた。戦争中には見ることもできなかった日常品があふれ、旧日本軍の隠匿品、米軍の横流し品など、闇市にはさまざまな仕入先から商品が集まり、闇市は「自由広場」「青空市場」などと気取った名前で呼ばれていた。復員してきた若者が担ぎ屋となって、農村から食糧を買い求め、闇市でそれを売っていた。
 配給物資だけでは生活ができない国民は闇市に群がったが、闇市の値段は公定価格の数10倍以上で、何でもそろっていたが、誰でもが買える値段ではなかった。金さえあれば何でも手に入れることができたが、闇市の米や砂糖の値段は公定価格の100倍以上だった。配給だけでは生きていけず、国民はヤミ買いを余儀なくされた。国家公務員の月給が40円の時代に、ヤミ値は白米1升70円(基準価格53銭)、みそ1貫目40円(基準価格2円)だった。
 現金を持たない多くの市民は安い食糧を求め、近郊の農家へ買い出しに行くしかなかった。都会に住む人たちは食べ物を求め、殺人的に混雑する鉄道に乗り、農村へ買い出しに行った。農家を訪ねては、手に持った衣類をコメやイモなどと交換してもらった。嫁入り衣装などの愛着のある着物が、1枚、1枚と食糧に換えられ、都会のたんすから農村のたんすへと移動していった。
 タケノコの皮を1枚ずつ剥いでいくように衣類が食糧と交換されたことから、このような生活を「タケノコ生活」と呼んだ。また一皮剥くたびに涙が出ることから「タマネギ生活」とも呼ばれた。人々は生きるために必死の思いで格闘していた。
 食糧を抱え込んだ農家は都市部の食糧事情につけこみ、「今度は3枚でなければ売ってやらない。晴れ着でなければ駄目だ」などと難題を吹きかけた。このことから、都会人は近郊農家に悪感情を持つことになる。食べ物の恨みは恐ろしいのである。当時は配給制であったが、政府の公定価格よりヤミ価格の方が高かったので、農家は農産物を政府に出さず、高い値段でヤミ業者に売っていた。都市部は空襲を受けたが農村部の被害はわずかだったので、農村の食糧は豊富だった。昭和22年3月1日、警視庁は都内16の主要駅で買出しの人数を調査、その結果、買出しは4万1750人、買込みは2万4910人であった。買出しは千葉県、埼玉県、静岡県などで、その7割がさつまいもであった。
 深刻な食糧事情を反映して、日本各地で「餓死対策国民大会」が頻繁に開催された。この餓死対策国民大会の名称は単なるスローガンではなく、実際に餓死者が続出していたからである。それはやむにやまれぬ自発的な集会であった。昭和21年5月12日、東京・世田谷の住民は「米よこせ区民大会」を開催、隠匿物質を探そうと赤旗を先頭にデモ隊が皇居の台所に進入、天皇の献立を見せろと迫った。
 昭和21年5月19日には、五月晴れの皇居前広場に25万人が集まり、「食糧危機突破人民大会(食糧メーデー)」が行われ、3台のトラックを並べた演壇を前に、労働組員、学生、主婦などが集まった。大会では欠配米の即時配給など15の要求を採択、街頭へ出て「飢餓のデモ行進」を行った。食糧メーデーでは赤旗が振られ、メーデーの歌が合唱された。
 この日のデモで、「憲法よりも米よこせ」のスローガンが掲げられた。このことからマッカーサー元帥は、翌日「暴民デモ許さず」と厳重な警告を発した。さらにマッカーサー元帥は、輸入小麦の放出を決定し、大衆運動の鎮圧に乗り出した。このデモ鎮圧宣言は連合国軍総司令部(GHQ)の民主化政策の転換となった。
 またこの会場で「朕(ちん)はたらふく食っているぞ、なんじ人民は飢えて死ね」と書かれたプラカードの文面が問題になり、プラカードを持っていた共産党員・松島松太郎が不敬罪で起訴された。裁判では「不敬罪の存続の妥当性」そのものが争点となり、松島松太郎はGHQの意向により罪状は不敬罪ではなく、天皇への名誉棄損に変更され、懲役8カ月の実刑となった。
 人々は飢えていたが、ヤミで生きられた人たちはまだ幸せだった。精神病院に入院している患者、結核療養所に入所している患者は悲劇的であった。配給だけの患者は栄養失調で次々に亡くなっていった。また住居を持たない浮浪者は配給を受けられず餓死していった。
 このように国民が飢餓で苦しんでいる時、食糧で儲けようとする犯罪が多発した。陸海軍が本土決戦に備えて備蓄していた食糧、ガソリン、木材など当時500億円とも1000億円ともいわれていた物資が隠匿され、軍人や軍需商人の手で闇市へ売られていった。千葉県流山で、陸軍の隠匿銀塊62トンが発見された事件をはじめとして、軍が隠匿した日用品が日本各地で大量に発見され、隠匿物質の横流し、買いだめ、不正分配などが数多く報道された。闇市にはやくざ、復員軍人、予科練くずれ、戦争孤児などがうろつき、所場代をめぐって暴力団同士のけんかや発砲騒ぎが日常茶飯事のごとく頻発した。
 昭和20年末、東京の露天商は3000人以上とされ、彼らは新宿、浅草、新橋、銀座、上野などに大規模な闇市をつくっていた。日本は戦争に負けて打ちひしがれていたが、闇市から戦後の活力が芽生えてきた。この混乱期に、金の亡者となり、ひと財産を成すバイタリティーにあふれた者が多くいた。
 焼け跡に建つバラック、買い出しの人々で混雑する列車、闇市の喧噪…、これらは飢餓の時代を象徴する風景であった。人々は空腹に苦しめられ、食糧のみに欲望を集中させた。食べることが何よりも優先していた。
 長い戦争を経て、人は人を殺すこと、人が死ぬことに不感症になってしまったか、この殺人的な食糧難により、今日では想像もできないような事件が頻発した。次に飢餓の時代を象徴する事件を示すが、下記の事件以外にも飢餓がもたらした事件は数多く起きている。

【乳児圧死事件】
 誰もが生きていくのに精いっぱいだった時代、昭和20年12月19日、東京・山手線の超満員の電車のなかで、母親に背負われた生後29日の乳児が圧死する事故が起きた。母親は長男の手を引き、赤ん坊を背負い、山手線で新橋から目黒までスシ詰めの電車に押し込まれ、帰宅した時には赤ん坊はすでに死んでいた。
 警察は「注意していれば死なせずにすんだはず」と、乳児の死を母親の過失として東京地検に送検した。このことが朝日新聞で報じられると、大きな社会問題として国民の関心を呼んだ。
 たとえ電車が満員であっても、託児所もない現実を問わずに母親の責任を問うことはできないとする意見。むしろ過失は鉄道当局にあるとする意見、母親の非常識を責める発言、このようにさまざまな意見が新聞社に寄せられた。
 この母親は、病人の世話をしながら2人の子供と借家住まいであった。借家からの立ち退きを迫られ、そのことを父親に相談するため、乳児を背負い山手線に乗ったのである。
 同様に、電車の混雑のなかで圧死する事件が日本各地で起きている。20年12月9日、高崎発上野行きの列車の中で駅員が人波に押され圧死。22年5月16日には、大阪の天王寺と東和歌山間の超満員の電車で10数人が負傷、1人が圧死している。
 終戦直後の交通事情は最悪の状態であった。空襲で車両は焼かれ、燃料となる石炭は不足し、レールは空爆による破壊と老朽化がひどかった。東海道本線ですら1日2往復しかなく、明治初期のダイヤに逆戻りしていた。このため列車が出発する数時間前から人々は改札口に並び、列車の網棚や屋根にまで人があふれ、殺人的な混雑であった。電車に乗る人たちの多くは買い出しが目的であった。
 誰のせいでもない、あの飢餓の時代が生んだ事件であった。結局、母親は情状酌量のうえ不起訴処分となった。

【歌舞伎俳優一家殺害事件】
 昭和21年3月16日、東京都渋谷区に住む歌舞伎俳優、12代片岡仁左衛門(65)と元女優の妻(26)、3男(2)、女中(69)、子守(12)の5人がまき割り用の斧で惨殺される事件が起きた。警視庁捜査一課は、同居人で作家見習いの飯田利明(22)が事件後に姿を消しており、現場に血の付いた飯田の靴下が見つかったことから、飯田を容疑者として指名手配することになった。事件発生から4日後、飯田利明は宮城県の川渡温泉に潜んでいるところを逮捕された。
 取り調べに飯田は次のように自供した。殺人の直接の動機は、自分が書いた顧客に配るあいさつ状の出来を、「これでも作家か」と仁左衛門になじられ、「今夜中に台本を書けば、その料金を払うから、それを持って出ていけ」と言われたことであった。この言葉に逆上したことがきっかけであったが、飯田はそれ以前から仁左衛門を恨んでいた。それは居候である自分の食事が、あまりに少なすぎたからであった。
 仁左衛門一家は1日3食のおかず付きの米飯を食べていたが、飯田は2食しか許されず、しかも食事は天井が反射して映るほど中身の薄い小麦粉のかゆであった。飯田は空腹にたまりかね、「つまみ食い」をしているところを片岡夫人に見つかり、手ひどくしかられた。このことから夫人にも強い反感を抱いていた。
 飯田利明は不満を募らせながら眠ることができず、夜明け前に便所に行くと、偶然にも廊下にあった斧につまずいた。その斧を見ているうちに殺意が起こり、夫人を殺害しようと夫人の寝室に入った。飯田は夫人を殺害するとさらに逆上し、次々に殺害していった。殺害された12歳の子守は飯田の実の妹であった。妹を殺したのは、妹が告げ口をしたと思っていたからである。
 飯田利明は東京・浅草の生まれで、商業高校を卒業すると大阪に養子にいき、岸本姓から飯田姓になった。戦時中は北海道の軍需工場に動員され、終戦と同時に東京に帰ってきたが、浅草の実家は妹を除いて家族全員が死亡しており、大阪の養子の家も跡形もなく破壊されていた。そこで妹が子守として働いている仁左衛門宅に作家見習い兼居候として住まわせてもらっていた。だが家の者からは、ことごとくつらく当たられていた。
 食糧難の時代に食事の恨みが殺意に結びついた悲惨な事件であった。犯人の飯田利明は5人を殺害したが、種々の情状を考慮され無期懲役となった。


【小平事件】
 終戦から1年後の昭和21年8月17日の朝、東京・芝公園の道上寺の裏山で、死後10日ほどたった若い女性の腐乱した死体が発見された。全裸の遺体は首に手ぬぐいが巻かれたままであった。当時、この一帯は「闇の銀座」と呼ばれるほどのデートコースだったので、最初は単なる痴情による殺害と思われた。ところが遺体から少し離れた草むらからも、白骨化した女性の死体が発見され、連続殺人の可能性が出てきた。
 最初に発見された被害者の身元は意外に早く判明した。遺体発見から3日後の8月20日、被害者は捜索願が出されていた大相撲の行司・式守伊三郎の娘(17)であることがわかった。母親の話では、娘は8月4日に「就職口を探しに行く」と言って家を出たまま行方不明になっていた。
 娘の日記には、その日に小平義男(42)という人物と会うことになっていて、小平の住所も書かれていた。小平の容疑が濃厚になり、8月20日、小平は渋谷区の自宅で逮捕された。取り調べが始まると、小平は道上寺の2件の殺人をあっさりと自供、さらに驚くことに過去の暴行殺人事件を次々に得意げに自白した。小平は40人の女性を暴行し、抵抗した10人の女性を暴行後に殺害していたのだった。
 小平義男はリュックを背負った買い出しの若い女性に目をつけると、「闇米を安く売ってくれる農家を世話してあげる」と親切に声をかけ、言葉巧みに山林に誘い込んで暴行を加えていた。いきなり女性の首を絞め、無抵抗となったところを強姦。自分の欲望を満足させると、証拠隠滅のため絞め殺すという残忍な手口であった。小平は食糧難に便乗し、食べ物を餌に1年4カ月の間に10人の女性の生命を奪っていた。
 殺人鬼小平義男は、明治38年に栃木県日光で生まれている。店員や工員などをしていたが長続きせず、19歳の時に志願兵として横須賀海兵隊に入隊。中国大陸へ出兵したことが犯行への道を決定させた。中国の先々で売春婦と接し、上海事変では6人の中国兵を刺殺、さらに民家に入って強盗と強姦を繰り返していた。日本軍隊の風紀は乱れていて、小平は戦争によって殺人と強姦に快楽を覚えていた。
 小平義男は除隊後に結婚したが、小平に私生児がいることが発覚して離婚話となり、離婚させようとした義父を殺害して15年の懲役刑を受けた。しかし2度の恩赦により6年半で出所し、その後、第一海軍衣糧廠でボイラーマンとして働き、同じ職場の女性に食べ物を与え、20年5月25日に強姦、その後発覚を恐れて女性を殺害している。このとき味わった快楽がその後の殺人を生んでいくことになる。
 昭和21年より進駐軍の洗濯夫として働いていたが、若い買い出しの女性を見ると、「安い米がある、一緒に行こう」と甘い言葉をかけ、若い女性たちを簡単にだましては毒牙にかけていた。犯罪史上最も凶悪なこの事件は、当時の食糧難を象徴する犯罪であった。
 殺人鬼・小平義男は精神鑑定を受けたが、「性格異常者であるが、責任能力はある」とされ、裁判では10件の殺害のうち3件は証拠不十分で無罪となったが、7件について死刑判決がでた。昭和23年11月、小平義男は最高裁で死刑が確定し、翌年10月5日、宮城刑務所で刑が執行された。小平義男はまんじゅうを3つ食べ、たばこを一服し、「この期におよんで何も言い残すことはありません」と念仏を唱えながら絞首台に立った。享年44。
 
【東京慈恵医大生殺害事件】
 昭和21年7月10日の深夜零時頃、長野県北アルプス連峰の烏帽子岳登山口の山小屋で、宿泊中の東京慈恵医大予科3年生のパーティー4人が何者かに襲われた。学生たちは北アルプスの山開きに参加するため山小屋に泊まり込んでいた。寝込みを襲われた4人のうち原震治君(25)と助川佐君(22)が死亡、下城正雄君と関根栄三郎君が重傷を負った。
 犯人は熟睡している学生たちをこん棒で殴りつけたのだった。関根栄三郎君が血まみれになりながら、山小屋から50メートル離れた発電所の番小屋に転がり込むように助けを求め、発電所の職員が大町警察署に電話で連絡。非常線が張られ、事件発生から3時間後に犯人は現場から8キロ離れた笹平国有林で逮捕された。
 犯人は兵庫県の造船工・神川義春(24)と無職・斉藤和一(21)の2人で、東京慈恵医大パーティーの食糧を奪うための計画的犯行であることを自供。犯人たちは、事件の前日から登山をしている4人のパーティーに目をつけて後を追っていた。山小屋で学生たちと同宿、深夜になってこん棒で襲撃したのだった。米1斗と缶詰、学生らがリュックサックに入れていた食糧を狙っての犯行であった。犯人2人は長野地裁で死刑の判決を受け、昭和23年7月13日処刑された。


【欠糖病】
 終戦から昭和21年の秋にかけて日本の食糧事情は最悪となっていた。飢餓の時代には糖尿病の患者はほとんど見られず、それとは逆に糖不足からくる欠糖病患者が続発して話題になった。欠糖病は栄養失調の一種で、身体のだるさが主症状で、症状が進行すると意識を失う患者までいた。欠糖病の治療は簡単で、ひと塊の砂糖を与えるとすぐに回復した。この治療への反応性が良いことが欠糖病の大きな特徴であった。
 患者の多くは中年の男性であった。家族のために自分は食べ物を食べずに、妻子への食費を捻出するために働いていたからである。当時の医学の教科書には欠糖病の記載はあったが、欠糖病患者を診察した医師は少なかった。この欠糖病患者が多発していることを京大医学部・家森秀次郎助教授が朝日新聞に書いて話題となった。糖尿病に悩む現代社会では想像もつかない病気である。


【教授餓死事件】
 配給だけでは栄養失調となってしまう時代、国民のほとんどは闇市や買い出しで飢えをしのいでいた。配給以外のヤミ買いで食糧を得ることは食糧統制法に違反する犯罪行為であったが、この食糧不足を前に、政府が命じる配給のみの生活を行い、餓死する事件が起きている。国家を信じ、正しく生きようとする精神が食糧難の現実の前に挫折したのである。
 昭和20年10月11日、東京高等学校ドイツ語教授・亀尾英四郎が栄養失調で死亡した。亀尾教授はまじめすぎるほどの学究肌で、同僚や学生からの評判はよかった。教授はかねてより国の食糧政策を信じ、また教育者として裏表があってはいけないとの信念を持ち、配給のみの生活を送っていた。どんなに苦しくても、国策を守っていく固い信念があった。しかし育ち盛りの6人の子供を抱えた生活は日々困窮するばかりだった。庭に造った2坪あまりの農園は焼け石に水で、子供たちに少しでも多く食べさせたいとする親心から、自分の食事をさらに切り詰めていた。
 亀尾教授の残された日記には、「国家のやり方がわからなくなってきた。限られた収入とこの食糧配給では、今日の生活はやっていけそうにもない」と書かれてあった。亀尾教授はまさしく国策に殉じた犠牲者であった。
 昭和25年9月1日には東大法学部の原田慶吉教授(47)が生活苦から首吊り自殺をしている。原田教授はローマ法制史の権威で、給料のほとんどが書籍代に消えていた。原田教授は闇米を買わず、6畳1間に家族5人の間借り生活をしていた。清く貧しい生活を清貧と言うが、清貧では物理的にも精神的にも生きてゆけなかったのである。

【山口良忠判事「餓死」事件】
 昭和22年10月11日、国民のほとんどがヤミ米でやっと生き延びていたとき、東京地裁の山口良忠判事(33)の餓死事件は大きな衝撃となった。山口判事はヤミ米を口にすることを拒否、配給だけの生活を行い、栄養失調により衰弱死したのである。法を守る立場の裁判官としてヤミ米を拒否していた。
 山口良忠判事はヤミ売買を中心とする経済統制違反を担当していた。ヤミ米を買った人たちに刑を言い渡す立場上、「法の番人としてヤミ米を買わない」と山口判事は決意していた。ヤミ米を裁く裁判官がヤミ米を食べては、それを裁く資格がないとした。
 山口判事は妻と幼児2人を抱え、しかも安い給与では食べていけなかった。妻は衣服などを売って食いつなごうとしたが、山口判事はこれを叱りつけ、妻にヤミ買いを固く禁じていた。このため夫婦の毎日は汁をすするだけの生活で、わずかに配給される食糧の大部分は2人の子供にあてがっていた。
 見かねた知人や同僚たちが食料を送ったが、判事はそれをも拒み続けた。栄養失調による体調の不良を感じながら出勤し、100件以上の事件を片付けていた。8月27日、山口判事は東京地裁で仕事中に極度の栄養失調から倒れてしまった。
 山口判事が病床でつづった日記には次のように書かれている。
 「食糧統制法は悪法だ。しかし法律としてある以上、国民はこれに服従しなければいけない。自分はどれほど苦しくてもヤミ買いはやらない。自分は平素から、『ソクラテスが悪法だと知りつつも、その法律のために潔く刑に服した精神』に敬服している。今日、法治国家の国民は特にこの精神が必要だ。自分はソクラテスではないが、食糧統制法の下、敢然ヤミと闘って餓死するつもりである。自分の毎日は全く死への行進である」。このように悲壮なまでの決意が書かれていた。
 山口判事は餓死を覚悟し、自分の意志で死を選んだ。判事は九州に帰郷し、結核の療養をしていたが病床でも態度を変えず、「判事という職業が恨めしい」と涙する妻と2児を残して亡くなった。病名は肺結核であったが、朝日新聞が「食料統制に死の抗議、われ判事の職にあり、ヤミ買い出来ず」の見出しで山口判事の死を報じた。
 当時、配給される米は1日2合5勺であったが、実際に配給されるのは麦やカボチャばかりで、しかも配給の遅れは日常的で、配給のない欠配も続いていた。
 配給が遅れる毎日では死を待つしかない。誰もが生きるために違法と知りながらヤミに手を出すことが常識になっていた。その意味では国民全員が犯罪者であった。山口判事のように勤勉でまじめであっても、法を尊守し正しい生活を貫こうとしても、それでは生きていけない時代であった。山口判事の行為を「法の威信を守るソクラテス」と評価すべきか、あるいは「融通の利かない時代遅れの判事」と評価すべきか、いずれにしても自分の信念を貫いたことは、すさんだ当時の人たちに感動を与えた。
 終戦によりすべての価値観が崩壊した中で、山口判事の死は「法の権威を守り、死をもって国家に抗議した」として当時の人たちに高く評価された。彼の精神の純粋性が国民の共感を呼び、忘れかけていた日本人の美学を思い起こさせた。