長崎の鐘、聖人永井の死

 昭和20年8月9日11時2分、長崎に投下された原爆は、すさまじい暴風と超高熱で一瞬にして長崎の街を破壊し、美しい街を廃墟にした。長崎医大の物理療法科(放射線科)永井隆助教授(41歳)は爆心地から700mの長崎医科大学の二階で被爆した。永井隆は自室でレントゲンフィルムを分けているときに、原爆による猛烈な爆風で飛ばされ、割れたカラスで右側頭動脈を切り、右半身は多数の硝子片で切創を負いっていた。
 永井隆は大けがを負いながらも、直ちに救護所を開設すると、被爆者の救護活動を始めた。長崎医大11医療隊の隊長となって、次々に運ばれる被爆者の救護に尽くし、医局の部下たちを励まし、側頭動脈から流れる血を包帯で巻き、血まみれとなって被災者の治療に当たった。自宅に帰らず身体を酷使し、自らの被爆を省みず出血多量で倒れるまで 200人以上の人たちの命を救ったとされている。
 家族の安否を心配しながらも、自らも危篤状態におちいり、無念にも救護活動を打ち切らざるを得なくなった。永井隆には妻の緑と幼い二人の子供がいた。子供は原爆の2日前に郊外の祖母の家に疎開していたが、妻の永井緑は爆心地から700メートルの自宅の台所で被爆死していた。永井隆が妻の遺骨を拾ったのは被爆から3日目のことである。妻はロザリオの鎖を残してこの世を去っていた。
 原爆は東洋一の天主堂を瞬時に全壊した。永井隆は天主堂の復興に務め、瓦礫(がれき)となった天主堂跡から聖鐘が奇跡的に掘り出された。昭和20年のクリスマスの夜、三本の丸太を組み合わせて作った土台の下で、聖鐘が浦上の町に鳴り響いた。戦時中は決して鳴ることがなかった、平和と復興を告げる希望の鐘の音であった。
 永井博士はレントゲンの被曝による白血病に罹患し、診療の無理がたたってしだいに悪化していった。そして昭和21年6月ついに長崎駅で倒れ、以後病床につくことになる。かつて永井博士の世話になったカトリック信者たちは、昭和23年春、博士のために爆心地から北約1キロの所に小さなバラック小屋を建ててくれた。それはわずか2畳1間だけのバラック小屋であった。永井博士はバラック小屋を如己堂(にょこどう)と名付け、そこで闘病生活を送ることになる。如己堂とは「おのれのごとく隣人を愛せよ」というキリストの言葉からとったものであった。「神の御栄のために私はうれしくこの家に入った。故里遠く、旅に病むものにとって、この浦上の里人が皆己のごとくに私を愛してくださるのがありがたく、この家を如己堂と名付け、絶えず感謝の祈りをささげている」と述べている。
 如己堂からは瓦礫と化した浦上天主堂を望むことができた。寝たきりとなった永井博士は、浦上天主堂を望みながら自分のなすべき事を考えていた。そして身動きもできない身体にむちを打ち、原稿を書き始めたのである。この長崎の惨禍を後人に伝えるため、原爆の恐ろしさ多くの人たちに知ってもらうため、筆を進めていった。原爆の悲劇を二度と繰り返してはいけないとの思いが込められていた。
 二畳一間の部屋で、誠一(まこと)と芽乃(かやの)の2人の子供をかかえながら執筆に励んだ。自分が横たわる隣の1畳で誠一と芽乃が生活していた。寝たきりの闘病生活の中でひたむきに物を書き、「長崎の鐘」「亡びぬものを」「ロザリオの鎖」「この子を残して」「生命の河」「花咲く丘」を矢継ぎ早に出版した。そして永井博士が書いた本はいずれも当時のベストセラーとなった。彼の清らかな文章は、原爆と敗戦に打ちひしがれた当時の人々の心を奮い立たせた。畳二畳の如己堂から発表される作品や言葉は、世界中の人々の胸を打ち、国内外に広く知られるようになった。
 昭和24年1月30日に日比谷出版社から出版された原爆体験の記録「長崎の鐘」は医師としての科学的な観察に加え、愛に満ちた詩的な文章が全体を包みこんでいた。永井博士の人間味に溢れた記載により、長崎の鐘は130円で10万部を売り、昭和24年のベストセラー第1位を占めた。当時の日本人は永井博士の本を競って買い求めた。
 「長崎の鐘」は次の文章から始まる。
「昭和20年8月9日の太陽が、いつもの通り平凡に金比羅山から顔を出し、美しい浦山は、その最後の朝を迎えていたのであった。東洋一の天主堂では、白いベールをかむった信者の群が、人の世の罪を懺悔していた」
 永井隆の作品全体に言えることは、彼は敬虔なカトリック信者の目をとおして原爆の惨状を捉えていたことである。戦争や原爆について誰も恨まず、神が与えた摂理、天主の恩恵としていた。この博士の考えは、戦争犯罪という後ろめたい気持ちを持っていた人々にとって、過去を清める上で都合のよいものであった。また原子爆弾を投下したアメリカにとっても、彼の作品は原爆の大義名分を与える上で都合がよかった。当時は進駐軍が出版物への検閲をおこない、都合の悪い書物は出版を止められていた。だが原爆の惨状を描いた彼の作品は、進駐軍にとがめられることなく出版することができた。もちろん永井隆の本がベストセラーとなったのは、政治とは関係なく国民に感動をもたらし、その時代を生きた人々の心に響いたからである。
 昭和25年、「長崎の鐘」は新藤兼人らの脚本によって映画化され、主題歌はサトウハチローが作詞、古関裕而が作曲し、藤山一郎が歌い大ヒットとなった。
作詞・サトウハチロー
作曲・古関裕而(こせき・ゆうじ)
 こよなく晴れた青空を
 悲しと思うせつなさよ
 うねりの波の人の世に
 はかなく生きる野の花よ
 なぐさめ はげまし 長崎の
 ああ 長崎の鐘が鳴る
 
 召されて妻は天国へ
 別れて一人旅立ちぬ
 かたみに残るロザリオの
 鎖に白きわが涙
 なぐさめ はげまし 長崎の
 ああ 長崎の鐘が鳴る
 
 永井隆の作品のうちで最も売れたのは、「この子を残して」であった。自分が死んだ後に残されてしまう、二人の子供の行く末を案じて書いた本である。この死を待つだけの父親が、孤児として残されてゆく子供のために書いた本は30万部をこえるベストセラーになった。
 父性愛の切なさと暖かさに溢れている、「この子を残して」は次の書き出しで始まっている。
 「うとうととしていたら、いつの間にか遊びから帰ってきたのか、茅乃(かやの)が冷たいほおを私におしつけ、しばらくしてから。「ああ、・・・・お父さんのにおい・・・」と言った。この子を残して・・・この世をやがて私は去らねばならないのか。」「私が眠ったふりしていると、カヤノは落ち着いて、ほほをくっつけている。ほほは段々あたたかくなった。何か人に知られたくない小さな宝物をこっそり楽しむようにカヤノは小声で、『お父さん』といった。それは私を呼んでいるのではなく、この子の小さな胸の奥におしこめられていた思いがかすかに漏れたのであった。」「一日でも一時間でも長く生きてこの子の孤児となる時をさきに延ばさねばならぬ。一分でも一秒でも死期を遅らしていただいて、この子のさみしがる時間を縮めてやらねばならない。」
「この子を残して」は講談社から出版され読者の涙をさそったが、昭和23年に出版されたこの本が永井博士の遺作となった。「この子を残して」は映画化されている。
 彼の著書はいずれも大いに売れ、一流作家が束になっても及ばないほどの人気であった。二畳一間の如己堂には読者からの手紙の束が山のように積まれていた。永井は著書の印税のほとんどを天主堂の修復や奨学金のために使い、収入のほとんどはまずしい子供たちや原爆症に苦しむ人々のために消えた。原爆の混乱と貧困の中、浦上には孤児になった子や、家がまずしく学校に行くことができない子が多かった。
  鉄筋コンクリート三階建の山里国民学校は、校舎の三階の部分が崩壊し、北側の一、二階を残して全焼した。校長以下職員26人、用務員2人が死亡、生者はわずか4人であった。児童は登校していなかったが、学区が爆心だったので、自宅で被爆死あるいは火傷死し、在校児童数1581人のち、およそ1300人が死亡した。建物も全焼または倒壊をまぬがれた家屋は一戸もなかった。

 学区内に立て札や張り紙を出して児童を呼び集めたが、9月20日に登校したのは、100余人だった。児童が着ている衣服は汚れてみすぼらしく、栄養失調気味で顔色は青白く、裸足の者もいた。その日は、「教科書も鉛筆も帳面も、みんな焼けてしもうた」と泣きながら訴える児童とともに、先生たちも泣くしかなかった。施設も教材も消失し、授業を再開することはできず、師範学校の3室を借りて授業らしいものを始めたのは11月9日であった。
 病床にあった永井博士の発案で、被爆から4年目の春、生き残った本校の児童たちが体験し、目で見た原爆の悲惨さを広く社会に知ってもらうため、その体験を作文にまとめた。この体験記が講談社から「原子雲の下に生きて」として出版された。この本には、表紙扉、カットは永井博士の自画で、児童37名と教師の2名の体験が載せられていた。この本の印税によって「あの子らの碑」が作られ、昭和24年11月3日に除幕式が行われた。以来、本校では毎年この時期に、全校をあげて碑の前で「平和祈念式」を行い、平和の誓いを新たにしている。校門下の坂道には、永井博士から寄贈された50本の桜が植えられており、「永井桜」として児童や地域の人々に親しまれ、毎年春にはきれいな花を咲かせている。
 永井隆は明治41年2月3日に鳥取県松江市で生を受け、医師である父親・永井寛の影響を受け、恵まれた家庭で幼少年期を過ごした。昭和3年に松江高校を卒業し、医学をこころざし旧制長崎医科大学(現長崎大学医学部)に入学、卒業後は24歳で放射線医学を専攻した。1年間、軍医として満州事変で出征、このとき慰問袋の中にあったカトリックの宗教書を読み、感銘を受け彼の生き方に大きな影響を受ける。帰還後、引き続き医大の助手として研究に専念した。博士は敬虔なカトリック信者で、浦上天主堂で洗礼を受け、パウロという洗礼名を得ている。昭和9年に最愛の妻、森山緑と結婚し、昭和15年に物理療法科助教授となったが、終戦の前年の昭和19年、長年の放射線の研究により白血病に罹患した。浴び続けた放射線に永井博士の身体は白血病に犯され、原爆は彼の病気に追い打ちをかけた。
 昭和23年10月、永井隆助教授が闘病生活を送る如己堂にヘレンケラー女史がお見舞いに伺っている。翌年5月には、天皇陛下自らが入院先の長崎医大付属病院に見舞っている。天皇陛下は永井隆博士の病床で、「どうか早く回復することを祈っています。筆書は読みました」とねぎらいのお言葉をかけた。また敬虔なカトリック信者である永井博士に対しローマ法王の特使派遣も激励に訪れている。永井隆は昭和24年12月長崎名誉市民第一号に選ばれ、昭和25年6月、国会はこの生きる聖者を湯川秀樹博士と一緒に表彰した。
 昭和26年5月1日9時50分、永井隆は手にロザリオと十字架を持ち、二人の子供たちが看取る中、長崎大学附属病院でこの世を去った。43歳であった、5月14日に長崎市公葬が行われ、永井博士との別れをおしむ2万人もの市民が集まった。長崎市全部の寺院や船、工場の鐘、汽笛、サイレンが鳴らされ、長崎市民は1分間の黙祷をささげ永井博士の死を悲しんだ。長崎の人々は永井隆を「浦上の聖人」と今も呼び続けている。