財田川事件

【財田川事件】

 昭和25年2月28日午後2時すぎ、香川県三豊郡財田川村(現・三豊市)で闇米ブローカーの香川重雄さん(63)が殺害される強盗殺人事件が起きた。刺身包丁でめった突きに刺され現場は血の海であった。警察は闇米の関係者など100人以上を重点的に調べたが、犯人は捕まらなかった。焦りを覚えた警察は、事件から1カ月後に別件の強盗事件で谷口繁義さん(19)ともう1人を逮捕。もう1人にはアリバイがあったが、弟と寝ていた谷口さんのアリバイは親族ゆえに成立せず、4カ月にわたる過酷な取り調べによって谷口さんは殺害を自白。強盗殺人罪で起訴されたが、公判開始から自白は拷問によるものと無罪を訴えた。しかしながら谷口繁義さんは自白と血液鑑定が有力な証拠となり死刑の判決を受けた。

 この「財田川事件」で血痕鑑定を行ったのは古畑教授で、谷口繁義さんのズボンに付いた血液を被害者の血液型と一致すると鑑定した。だがこの古畑鑑定そのものに疑惑があった。血痕そのものが当初の捜査では記載されておらず、血痕があったとしても微量な血液から血液型の判定は不可能とする疑惑であった。古畑鑑定そのものが鑑定されることになり、北里大学法医学教授・船尾忠孝は古畑鑑定を否定する鑑定書を提出している。

 また逮捕されたときに書いたとされる谷口繁義さんの手記が証拠とされていたが、小学校しか出ていない谷口さんは漢字が書けなかった。そのため漢字混じりの手帳が捏造された可能性があった。

 昭和32年、最高裁は谷口繁義さんの上告を棄却し死刑が確定した。しかしその後も、谷口さんは高松地裁に「ズボンに付着した血液の再鑑定をおこなってほしい」と手紙を出した。その手紙を読んだ矢野伊吉裁判長は再審の手続きをしようとしたが、反対運動が起こり、そのため矢野伊吉は裁判長を辞め、谷口さんの弁護士となった。矢野弁護士は自白の内容と殺人現場の矛盾を指摘、そのため谷口さんは逮捕から34年後、死刑確定から27年後に無罪となった。なお裁判長を辞めて谷口さんの弁護人となった矢野伊吉は、谷口繁義さんの無罪判決を聞くことなく昭和58年に死亡している。