血痕鑑定事件

血痕鑑定事件 昭和24年(1949年)

 事件のあるところに法医学がある。これまで法医学者は数え切れないほどの鑑定書を作成し、鑑定書が判決を左右させてきたが、もし法医学者による鑑定書が間違いだったら、被告にとってこれほど恐ろしい証人はいない。しかもその法医学者が権威者であれば、それだけ被告人にとって不利になった。

 東大医学部法医学教室の古畑種基教授は、日本の法医学の権威で、法医学の中興の祖と呼ばれ、昭和31年に文化勲章を受賞したほどの人物である。しかし弘前大教授夫人事件、財田川事件、松山事件、島田事件では、古畑教授の鑑定が冤罪という悲劇をつくることになった。

【弘前大教授夫人殺害事件】

 昭和24年8月6日の深夜、弘前大学医学部・松永藤雄教授の夫人すずさん(30)が、縁側から忍び込んだ何者かによってノドを刺されて死亡した。一緒の部屋で寝していた義母と長女は無事であった。夫の松永藤雄教授は主張中で、かねてからうわさのあった医大生が容疑者として逮捕された。

 この事件は医大生の痴情による犯罪として容易に解決するかにみえた。だが医大生にはアリバイがあり、警察は世間に恥をさらすことになった。焦りを覚えた弘前署は事件発生から2週間後、近くに住む那須隆さんを別件で逮捕。那須さんは殺害を否認したが、長い拘留のすえ殺人容疑で起訴となった。一審の青森地裁では証拠不十分で無罪になったが、二審の仙台高裁では有罪になり、那須さんは懲役15年の判決が言い渡された。

 二審で逆転有罪になったのは、那須さんが着ていた開襟シャツ(海軍シャツ)に付着していた血痕が被害者のものと鑑定されたからである。那須さんの自宅から押収された開襟シャツに付着した血液が、事件現場に残された被害者の血痕と同一人物のものと古畑種基教授が鑑定したのである。古畑教授が、シャツに付着した血痕を「被害者と同じ血液型と言わず、98.5%の確率で被害者と同一人物の血液」としたことが有罪の決め手となった。

 また那須隆さんの白ズックに残された血痕も被害者の血液であると鑑定し、この古畑鑑定により、那須さんは冤罪を訴えながら、殺人の罪で懲役刑に伏することになる。古畑教授はこの事件の鑑定結果を雑誌や単行本で発表し、血液型鑑定の有用性を強調した。

 昭和38年、11年間の服役を終えて仮出所した那須隆さんは、周囲の冷たい目に耐えながら、自分が那須与一の子孫であることを心の支えに、真犯人を探し続けることになる。それから8年後、殺人の時効が成立した後に、事件当時、容疑者の1人だったTが、自分が真犯人と名乗り出たのである。

 Tは那須隆さんの友達で容疑者の1人だったが、うそのアリバイを証言してくれた者がいて、罪を免れていた。Tが真犯人と名乗り出たのは、三島由紀夫の割腹にショックを受け、良心の呵責から男らしい行動をとろうとしてのことだった。

 このため事件の再審請求が出されたが裁判所はそれを棄却。昭和52年に再度請求がなされ、仙台高裁は那須隆さんに無罪の判決を下し、那須隆さんは27年ぶりに無罪となった。判決では「開襟シャツに付いていた血痕は捏造」としたが、真犯人が名乗り出たのだから、那須隆さんは完全な冤罪であった。那須隆さんは国家賠償を求めて訴訟するが、最高裁は上告を棄却して訴えを認めなかった。那須隆さんは真犯人を恨まず、名乗り出た勇気に感謝しながら、平成20年1 月24日、84歳で死去している。

 この冤罪事件は、古畑教授は数学者とともに作った「98.5%の確率で被害者と同一人物の血液」と鑑定したことが間違いであった。この確率論では「100%正しくなければゼロではないか」との批判があって、法医学の信用を失墜させることとなった。なお那須隆さんの2度目の国家賠償請求が認められたのは古畑教授が死亡した翌年のことであった。

【財田川事件】

 昭和25年2月28日午後2時すぎ、香川県三豊郡財田川村(現・三豊市)で闇米ブローカーの香川重雄さん(63)が殺害される強盗殺人事件が起きた。刺身包丁でめった突きに刺され現場は血の海であった。警察は闇米の関係者など100人以上を重点的に調べたが、犯人は捕まらなかった。焦りを覚えた警察は、事件から1カ月後に別件の強盗事件で谷口繁義さん(19)ともう1人を逮捕。もう1人にはアリバイがあったが、弟と寝ていた谷口さんのアリバイは親族ゆえに成立せず、4カ月にわたる過酷な取り調べによって谷口さんは殺害を自白。強盗殺人罪で起訴されたが、公判開始から自白は拷問によるものと無罪を訴えた。しかしながら谷口繁義さんは自白と血液鑑定が有力な証拠となり死刑の判決を受けた。

 この「財田川事件」で血痕鑑定を行ったのは古畑教授で、谷口繁義さんのズボンに付いた血液を被害者の血液型と一致すると鑑定した。だがこの古畑鑑定そのものに疑惑があった。血痕そのものが当初の捜査では記載されておらず、血痕があったとしても微量な血液から血液型の判定は不可能とする疑惑であった。古畑鑑定そのものが鑑定されることになり、北里大学法医学教授・船尾忠孝は古畑鑑定を否定する鑑定書を提出している。

 また逮捕されたときに書いたとされる谷口繁義さんの手記が証拠とされていたが、小学校しか出ていない谷口さんは漢字が書けなかった。そのため漢字混じりの手帳が捏造された可能性があった。

 昭和32年、最高裁は谷口繁義さんの上告を棄却し死刑が確定した。しかしその後も、谷口さんは高松地裁に「ズボンに付着した血液の再鑑定をおこなってほしい」と手紙を出した。その手紙を読んだ矢野伊吉裁判長は再審の手続きをしようとしたが、反対運動が起こり、そのため矢野伊吉は裁判長を辞め、谷口さんの弁護士となった。矢野弁護士は自白の内容と殺人現場の矛盾を指摘、そのため谷口さんは逮捕から34年後、死刑確定から27年後に無罪となった。なお裁判長を辞めて谷口さんの弁護人となった矢野伊吉は、谷口繁義さんの無罪判決を聞くことなく昭和58年に死亡している。

【松山事件】

 昭和30年10月18日未明、宮城県志田郡松山町の小原忠兵衛(54)さん宅で火災が発生し、全焼した焼け跡から一家4人の焼死体が発見された。司法解剖の結果、4人の遺体には刀器による傷が認められ殺人放火事件へと発展した。

 宮城県警と古川警察署の捜査本部は怨恨、痴情、無理心中、強盗の線から捜査を進めたが、捜査は難航し11月には捜査本部を解散した。ところが同年12月2日、牛豚内蔵卸業・斉藤幸夫さん(24)が別件で逮捕された。

 斉藤幸夫さんが裁判で有罪になったのは、斉藤さんの枕カバーや寝具に付着していた多数の血痕であった。この血痕の血液型が被害者の血液型と一致し、検察は斉藤さんの頭髪に付いた被害者の返り血が枕カバーに付着したと主張した。

 斉藤幸夫さんは殺人放火をいったんは自白するが、起訴前に自白を否認。裁判でも無罪を主張したが、一審、二審ともに有罪となり死刑が確定した。

 斉藤幸夫さんは獄中から無罪を訴え続け、やっと再審請求が認められて、昭和59年に無罪の判決がなされた。投獄されて29年後、釈放された斉藤さんは、雨にぬれながら息子のアリバイを主張し続けた母親と抱き合った。

 無罪となったのは、寝具についていた血痕が押収後に捏造されていた可能性があったからである。斉藤幸夫さんが逮捕され、押収された時に撮影された枕カバーには、血痕らしいものが1カ所だけだったが、公判時に提出された枕カバーには無数の血痕が付着していた。

 さらに齋藤幸夫さんは留置場で前科5犯の男から「やってなくても警察で犯行を認め、裁判で本当のことを言えばいい」とだまされ、斉藤さんはうその自白をした。この男は警察のスパイだったことが後に判明している。この事件も古畑種基教授の血液鑑定が直接関与していた。

 

【下山事件】

 前述した3つの冤罪事件とは内容を異にするが、国鉄総裁が東京の常磐線の線路上で死体となって発見された「下山事件」の鑑定において、古畑教授は死後轢断の他殺説をとり、慶応大学医学部・中館久平教授は生体轢断の自殺説を主張し、その科学的論争が法医学の非科学性を暴露することになった。

 下山事件とは昭和24年7月5日、下山定則・初代国鉄総裁(49)が登庁途中に立ち寄った東京・日本橋三越本店から消息を断ち、翌6日午前零時25分頃、足立区五反野の常磐線の線路上で貨物列車にひかれ、バラバラの礫死体で発見された事件である。

 当時はGHQ経済顧問のジョセフ・ドッジが提案したドッジ・ラインの強行によって、国鉄当局は第1次人員整理として3万700人の首切りを前日に発表していた。下山総裁の死が、他殺なのか自殺なのかが注目の的になった。

 検察と警視庁捜査2課(知能犯を扱うが、当時は公安事件も担当)は他殺説、捜査1課(強盗、殺人を扱う)は自殺説をとり、新聞も他殺(朝日)、自殺(毎日)と分かれて注目を集めた。自殺ならばその動機は何なのか、他殺ならば犯人は誰なのか。他殺か自殺かは大きな政治的問題を含んでいた。東大の「死後轢断の解剖所見」を根拠とする他殺説は、犯人の濡れ衣をかけられた共産党や労働組合に大きな打撃を与えることになった。

 下山総裁が死体で発見された9日後に無人電車が暴走する「三鷹事件」、さらに1カ月後には旅客列車が脱線転覆する「松川事件」と怪事件が相次いだ。この3つの事件が当時の労働運動に与えた影響は大きかった。吉田内閣の増田甲子七(かねしち)官房長官は「三鷹事件、松川事件は共産党の陰謀である」と談話を発表。この事件により国鉄労働組合の大量解雇に反対する運動は力をそがれることになった。

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 古畑鑑定は、昭和29年に静岡県島田市で起きた「島田事件」でも、再審裁判で死刑判決が覆される際の、判定根拠のひとつになっている。

 古畑教授は日本法医学会の第一人者で、血液型の研究では世界的な権威者として知られている。ヒトの血液型はランドシュタイナーによって発見されたが、3つの対立遺伝子による血液型の遺伝形式を確立したのは古畑教授であった。またQ式血液型などの新血液形質を発見し、指紋学や親子鑑別などの分野においても業績を残している。そのため、昭和19年に帝国学士院恩賜賞を受賞、22年に日本学士院会員になり、31年には文化勲章を受賞している。

 このようにあまりに偉くなりすぎたため、古畑教授の血液鑑定に異を唱える者はいなかった。法医学の関係者の多くが古畑教授の教え子で、たとえ妥当性を欠いた鑑定であっても逆らうことはできなかった。多くの法医学者や司法関係者は、文化勲章を授与された古畑教授の権威の前に沈黙したのであった。

 日本の司法において、血液鑑定に疑問をもたれて無罪になったのは、古畑教授が関与した4つの事件(島田事件を含む)だけである。これらの事件が冤罪と確定したのは、古畑教授が昭和50年に死去してからのことである。犯人とされた人たちにとって、古畑教授の文化勲章はどのように映ったのであろうか。法医学の汚点、医学界の権威主義を示す例として医学史に残すべき事件である。

 医学が学問の純粋性から逸脱し、権威主義を作ったことが冤罪事件を引き起こした。これらの冤罪事件により古畑神話は崩壊し、岩波書店は古畑教授の著書「法医学の話」を絶版にした。