胃カメラの開発

胃カメラの開発 昭和25年(1950年)

 胃カメラは胃潰瘍や胃がんなどの診断に欠くことのできない医療機器であるが、胃カメラを発明したのが日本人であることは意外に知られていない。

 胃カメラの実用化は、東大医学部外科医の宇治達郎(30)、オリンパス光学工業の杉浦睦夫(32)、深海正治(29)によってなされた。彼らによる胃カメラの発明は、胃がんの早期発見に大きな貢献をもたらし、日本が内視鏡先進国となったのも、彼らの先進的な発想と努力による。

 宇治達郎は軍医として戦場で多くの人を救うことができなかったことを悔やんでいた。生き残って帰ってきた自分に対し、ひとりでも多くの命を救うことが使命としていた。病院では数多くの胃がん患者が命を落としており、宇治達郎は何とか胃がんを早期発見できないかと考えていた。このことが胃カメラ開発への情熱と執念となった。

 日本人は欧米人に比べ、胃がんの頻度が高いことが知られており、胃がんは日本人の人種的特徴とされていた。昭和25年頃まで、がん死の約半数が胃がんによるもので、胃がんの死亡率は90%以上であった。この胃がんの死亡率が、昭和25年以降ゆるやかに減少し、平成10年にはがん死の第1位を肺がんに譲るまでになった。

 誤解のないように説明を補足するが、胃がんによる死亡が減少したのは、胃がんの発生頻度が減少したからではない。胃がんの早期発見が可能になり、早期治療が行われるようになったからである。胃カメラの発明以来、胃がんの死亡率は低下するが、これは胃カメラによる早期発見、早期治療の功績といえる。

 かつて胃を直接のぞく「胃鏡」という胃カメラの原型があった。胃鏡は長さ70センチの金属製の固い管を口から胃に入れ、直接肉眼で胃をのぞく方法である。この胃鏡は大道芸人が長い刀を飲み込むのをヒントに作られたもので、患者に与える苦痛が大きく、食道や胃を破る危険があった。また胃管を扱う技術習得が困難で、視野が狭いため盲点が多いことから普及しなかった。

 当時から、バリウムを飲んで胃を撮影する方法はあったが、レントゲン写真では胃潰瘍と胃がんの鑑別には精度が不十分だった。ときには切らなくても済む胃潰瘍まで手術をすることがあった。胃の内部を超小型カメラで撮影しようとする発想は以前からあったが、真っ暗な胃の中をどのように撮影するのか、また径14ミリの食道の中をどのようにカメラを通すのか、胃カメラの開発には多くの難問があった。

 宇治達郎は胃カメラ開発の話を高千穂光学工業(現、オリンパス光学工業)に持ち込んだ。東京にあった高千穂光学工業は東京大空襲で焼け、拠点を長野県岡谷市に移していた。当時の高千穂光学工業は、戦後復興の社運を位相差顕微鏡の製品化にかけ開発を急いでいた。

 昭和24年8月31日、宇治達郎は高千穂光学工業の常務から主任技師長の杉浦睦夫を紹介され諏訪の工場を訪ねた。杉浦睦夫は宇治達郎の話を聞き、「人間の体内をのぞくことで、胃がんの早期発見をしたい」という宇治の話しに熱意を感じた。

 杉浦睦夫は研究所長に胃カメラ開発の話を持ち込んだが、厳しい口調で反対された。所長は光のない胃の中を写すことは不可能と判断、「胃カメラを考える時間があるなら、社運をかけた位相差顕微鏡を早く完成させろ」と命じた。

 宇治達郎が諏訪から東京へ帰る日、偶然にも、杉浦睦夫も東京に行く日であった。杉浦と宇治は、下諏訪発の準急列車に乗って一緒に東京へ行くことになった。ちょうどその日、死者132人を出したキティー台風が関東地方を直撃。そのため2人が乗った東京行きの列車は暴風雨の中で停止してしまった。胃カメラの開発は不可能と告げられていた2人は気まずい思いをしていた。ところが列車が動かないことを知ると、どちらからともなく胃カメラの話になり、2人の議論は次第に熱を帯びていった。キティー台風が車内での徹夜の議論を生み、杉浦は超小型カメラの開発を決意した。

 高千穂光学工業は宇治達郎が持ちかけた胃カメラの開発は不可能と判断し、杉浦睦夫に研究の時間を与えなかった。だが胃カメラ開発の魅力に取りつかれた杉浦は会社に内緒で胃カメラの研究に乗り出した。昼の勤務時間は位相差顕微鏡の研究を行い、会社に誰もいなくなる夜を待ち胃カメラの研究に没頭した。

 宇治達郎に会った日から2カ月が過ぎた10月12日、その日は会社創立30周年の記念日で、社名が高千穂光学工業からオリンパス光学工業に変わった日であった。杉浦睦夫が開発した位相差顕微鏡が、オリンパス製品第1号として華々しく発表された。杉浦睦夫の人生において最も輝かしい日になるはずだった。

 ところが発表会の会場で、「位相差顕微鏡も所詮はアメリカの模倣」という社員のヒソヒソ声が杉浦の耳に入った。杉浦はこの言葉にがくぜんとした。オリンパス幹部は杉浦に「より高性能で使い勝手のよい位相差顕微鏡の改良」を命じたが、「アメリカの模倣」という言葉に、杉浦の頭の中は世界初の胃カメラの開発だけになった。

 欧米の物真似でない独創的な研究、多くの人たちに貢献できる研究、杉浦睦夫は寝食を惜しんで開発に専念した。会社は胃カメラの開発には反対であったが、会社の反対が皮肉にも杉浦の研究者魂に火をともした。杉浦睦夫は会社の承諾のないまま公然と胃カメラの研究を行うようになった。取りつかれたように、不可能を可能にしようと研究を進めた。終戦間もないころである。不可能であっても挑戦する技術者魂があった。

 胃カメラ開発で最も困難だったのは、胃の中にどのように光を持ち込むかであった。光源の小型化には限度があった。たとえ小型化に成功しても照度が不足した。杉浦は部下の深海正治に「フラッシュの研究」を名目に胃カメラの研究に専念させた。杉浦はフラッシュの光で胃壁を写せると信じていた。

 胃カメラは先端部分(カメラ、ランプ、フィルム)、連結部分(操作のひもや導線)、操作部分(シャッター、フィルムの巻き上げ)、電源と送気部分(胃に空気を送る)から成り立っている。このうち先端のカメラ部分と連結部分が口から体内に入ることになる。

 宇治達郎は東大病院の診療を終えると、毎日のように杉浦の研究室を訪ね、論議を交わした。議論の結果、人間の食道の口径が14ミリなので、胃カメラの管の直径は12ミリ、内径は8ミリに決まった。管の先端に小型レンズ、ランプ、フィルムを内蔵させ、それを手元で遠隔操作をすることにした。

 接写レンズは顕微鏡磨きの名人に依頼し1カ月後に完成した。直径5ミリのランプは職人が改良を繰り返し完成させた。フィルムはASA20の市販の35ミリのフィルムを6ミリ幅に切って利用した。フィルムのコマ送りはフィルムの先端に三味線の弦をつけ、手元で引っ張る方法を生み出した。手元のボタンを押すとランプが点灯し、胃の中を撮影できる仕組みだった。

 最も苦労したのは、胃の中を照らす直径5ミリの豆電球の開発であった。豆電球は電球職人の丸山政人(23)が担当し、丸山はフィラメントを2重にした電球を作った。だが電球は4回の発光で切れてしまった。胃カメラの電球は20回以上発光しないと使い物にならない。丸山はさらに改良を重ね、20回以上発光する電球を完成させた。水を入れたフラスコに方眼紙を張り、それを胃袋に見立てて暗室で写真を撮る実験が進められた。

 昭和24年12月、東大病院で犬を用いて胃カメラの実験が宇治達郎と新人医師・今井光之助(23)によって始められた。胃の写真を撮るには胃を膨らませる必要があった。そのため胃の中に水を入れての実験が繰り返された。実験には10匹以上の犬を用いたが、水中写真は失敗の連続であった。注入した水と胃の分泌物が混濁し、視野を遮ったのである。次に胃に空気を送り、胃を膨らませる実験が行われた。この空気の送入によって、犬の胃の内部写真の撮影に成功した。

 胃の内部を撮る実験は、病院勤務を終えた夕方以降に行われていた。ある日、実験に没頭して部屋の電気を付け忘れていた。その時、薄暗い研究室の中で胃カメラのシャッターを切るたびに犬の腹が電球の光で内部から透けて見えるのに気がついた。その当時の胃カメラは直接肉眼で胃をのぞけないので、胃のどの部分を撮影しているのか分からなかった。ところが腹壁の光の位置で、胃のどこを撮影しているのか分かったのである。

 腹壁を通して見えるフラッシュの光の位置を参考に、胃の中を想定しながら手元でシャッターを切った。また胃壁にレンズが近づき過ぎると像の焦点がぼやけてしまったが、管の先に透明なコンドームをつけて膨らませ、胃壁とレンズの間に5センチの距離を取る工夫がなされた。

 腹壁から見えるランプの光を参考にフラッシュの方向、操作部の目盛りを見ながらの撮影で、フィルムを現像して初めて胃の内部を読影できるものであった。昭和25年9月、人を使っての実験が行われた。薄暗い手術室で患者の腹が21回光った。祈る気持ちで写真を現像すると胃潰瘍が写っていた。世界で初めて人間の胃の内部写真が撮影されたのである。手術が行われ取り出された病変は、写真に写っていたのと同じだった。

 試行錯誤を繰り返した末、宇治達郎と杉浦睦夫は、出会いからわずか1年で胃カメラを世界で初めて完成させた。英語で胃のことをガストロ(Gastro)と呼ぶため、語呂もよくわかりやすいことから「ガストロ・カメラ(Gastro-camera)」、通称「胃カメラ」と命名した。この胃カメラの完成は若い医師の熱意と、若い職人たちの努力の結晶であった。

 昭和25年11月3日の日本臨床外科学会で、宇治達郎は胃カメラを用いた臨床例を世界で初めて発表した。胃の内部を撮影した30枚の写真が提示された。この胃カメラは全国発明協会から発明賞を受け、その後、オリンパスは宇治達郎、杉浦睦夫、深海正治の連名で胃カメラの特許を申請し、日本、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツで特許を得た。オリンパスはこの特許により、内視鏡の世界シェア8割を占めるまでに成長することになった。

 現在、胃内視鏡検査には胃カメラは用いられていないが、胃カメラは光ファイバーを利用した胃ファイバースコープ、モニターテレビとして映し出す電子内視鏡に受け継がれ、今日の内視鏡診断に大きな役割を果たした。胃カメラという言葉は親しみやすいため、現在でも胃内視鏡検査の通称として用いられている。このことからも胃カメラの存在がいかに偉大であったかが分かる。

 日本の医学はあらゆる分野において欧米追従で、独創的な研究はほとんどなされていない。しかし胃や食道などの消化管疾患については、現在でも日本は世界最先端の研究がなされている。日本で作られた早期胃がんの分類は世界の標準として用いられているが、これも彼らが発明した胃カメラの功績といえる。

 宇治達郎は学位論文「腹腔内臓撮影用写真機を用いた診断法」により博士号を得ている。宇治達郎は胃カメラを開発した後、東大医学部の肩書きを捨て開業医になった。自分が胃カメラを開発したことを患者に話さず、町医者として地域医療に貢献していたが、昭和55年11月27日に死去。大宮市より市民栄誉賞が贈られ、現在さいたま市大宮区大成町の普門院にある宇治家の墓所に顕彰碑が建っている。

 杉浦睦夫は胃カメラを発明して間もなくオリンパスを退社。昭和33年に杉浦研究所を設立し、医療機器の発明に挑戦し続けたが、昭和61年8月、心筋梗塞で死去。

 深海正治は世界初の心臓ファイバースコープや大腸ファイバースコープを開発。現役時代は「仕事の鬼」と呼ばれ、取締役時代に内視鏡医学振興財団を設立した。退職時「技術は日進月歩。進歩についていけない技術屋は一切口を出すべきでない」と膨大な資料や蔵書をすべて破棄して引退した。

 平成2年、「胃がん・胃潰瘍の早期発見に著しい成果を上げ、世界の医学発展に大きく貢献した功績」により故宇治達郎、故杉浦睦夫、深海正治の3人は吉川英治文化賞を受賞している。

この胃カメラ開発の経過は、吉村昭の小説「光る壁画」として新潮文庫に納められている。