終戦の詔書

終戦の詔書 昭和20年(1945年)
 昭和20年8月15日の正午、昭和天皇による「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び…」の玉音放送が伝えられた。この玉音放送によって、3年8カ月にわたり300万人以上の戦死者を出した太平洋戦争に終止符が打たれた。それは昭和6年の満州事変から15年にわたる長い戦争であった。
 昭和天皇が読み上げる「終戦の詔書」は、時折入る真空管ラジオの雑音に加え、漢文混じりの難解なお言葉だったため、終戦を伝える内容としては不明瞭であった。初めて聞く天皇陛下の肉声を、激励の言葉と勘違いして万歳をする者もいた。しかし放送同日に「終戦の詔書」の全文が新聞に掲載され、国民は終戦を知ることになる。
 玉音放送の前日、宮中の防空壕で御前会議が開かれ、昭和天皇はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を受け入れる聖断を下した。「終戦の詔書」は、内閣書記官長の迫水久常が昭和天皇の言葉を再現して草案を作り、その後、漢学者、閣僚などが推敲を重ねて作られた。この「終戦の詔書」は、天皇が国民に終戦の事実を伝えただけでなく、日本が太平洋戦争に至った事情、終戦に至るまでの経過を、国民に理解してもらうための謝罪文であった。さらに今後予想される終戦後の混乱を防ぎ、日本民族の再起に向けての悲願を含めての文章であった。そこには不戦の誓いもなければ、対戦国への謝罪や自虐的史観もない。終戦に臨んだ天皇の本心が素直に述べられている。
 「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び…」。この一節はこれまで何度か耳にし、また日本人の胸に何度もよみがえった言葉であるが、「終戦の詔書」の全文を読んだ人は極めて少ないであろう。多くの国民は玉音放送を知っていても、詔書の全文を読んでいないと思う。それは詔書が難解な文章で、また天皇の言葉に注釈を加えることへの抵抗感があったからである。しかし戦後の日本を再考するには、日本の原点である「終戦の詔書」を読むことが出発点になる。
 難解な文章を分かりやすくするために訳文を試みた。この詔書の意味を知り、次ぎに記載した原文をかみしめて読んでほしい。「終戦の詔書」は今日読み返しても感慨深く、また名文中の名文である。昭和天皇の苦悩に満ちたご聖断のお言葉、日本の原点がここに書かれている。

≪終戦の詔書≫(私的訳文)
 世界の体制と日本の現状を深く考えると、私は非常の措置をもってこの時局を収集しなければいけない。そこで忠良なる国民に報告したい。私は日本国政府に、米国、英国、中国、ソ連からのポツダム宣言を受諾し、終戦とすることを通告させた。
 そもそも日本国民の平和と平穏を願い、また世界の万国と共に栄え、万国と楽しみを共にすることが、これまでの歴代天皇が残した教えであった。私も常に心にとどめてきたことである。
 米国、英国の2国に宣戦したのは、日本の存続と東アジアの安定を願ったからで、ポツダム宣言に書かれてあるような他国の主権を排し、領土を侵すようなことは、もとより私の考えていたことではない。しかしながら戦争はすでに4年を経過し、わが国の陸海軍の将兵の勇戦、多数の官吏の努力、一億国民の奉公、国民各層の人々が最善をつくしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していない。
 また世界の大勢も日本に有利とはいえない。さらに敵国は新たに残虐な原子爆弾を使用し、何の罪のない国民を殺傷し、その惨害は測り知れない。もしこれ以上戦争を継続すれば、わが日本民族の滅亡を招くばかりでなく、ひいては人類の文明をも破壊されてしまう。そうなれば天皇として億兆の国民を預かっている私は、どのように歴代天皇の神霊に謝罪すればよいのだろうか。このことが、私が日本国政府にポツダム宣言を受諾するように命じた経緯である。
 日本国とともに東アジアの植民地解放に協力した同盟国に、遺憾の意を表明せざるを得ない。戦場で死んだ軍人、職場で殉職した官吏、戦火に倒れた国民やその遺族を思えば、わが身を引き裂かれるほどの痛切な思いである。
 また、戦傷を負い、災禍を被り、職を失った人々の再起については、深く心にかけるところである。今後、日本国が受ける苦難はもちろんのこと、国民の非常な無念と悲しみを私はよく理解している。しかし時運の赴くところ、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、日本の将来のために戦争の終結を決断した。
 ここに国体を護持し、忠良なあなたがた国民の心を信じていたい。私は常にあなたがた国民と共にいたい。激情の赴くまま無用の混乱を起こし、あるいは同胞が互いに分裂して時局を混乱させれば、国家はさらなる危機に陥り、世界からの信義を失うことになる。これは最も戒むべきことである。
 国民皆が一致団結し、子孫に至るまで、固く神州日本の不滅を信じ、個々に課された責務の重さと今後の道程の厳しさを自覚し、総力を将来の建設に傾けてほしい。信義をあつくし、志操を固くして、国体の精華を発揮し、日本が世界の趨勢に後れることのないことを願っている。あなたがた国民はこの私の考えをよく理解して従ってほしい。


 ≪終戦の詔書≫(原文)
 朕深ク世界ノ体勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収集セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
 抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ階ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ挙々惜カサル所サキニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
 然ルニ交戦巳ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無ヲ殺傷シ惨害ノ及ブ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我ガ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スへシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝センヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
 朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セザルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及ビ其ノ遺族ニ想ヲ致セバ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ赴ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ビ難キヲ忍ビ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カント欲ス
 朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リモシ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失ウカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スへシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ

 国民はこの玉音放送で日本の終戦を知ることになる。それは長い歴史の中で初めて経験する国家的敗北の瞬間であった。日本の戦傷病死者260万人、戦争未亡人28万人、民間戦災傷死行方不明者80万人弱。このように戦争は多くの犠牲者を出した。また終戦時に勤労動員に従事していた者は学徒動員192万7379人(農林業出動含む)、女子挺身隊47万2573人であった。
 玉音放送の天皇陛下のお言葉は、終戦の宣言と同時に、大元帥陛下としての武器解除の命令でもあった。昨日まで「鬼畜米英、一億玉砕」と叫んでいたのに、反乱らしい反乱はなく、225万人の陸軍、125万人の海軍が武器を解除したのは玉音放送があったからである。
 日本に無条件降伏を勧告したポツダム宣言が7月26日に発表されたが、政府は議論の末これを黙殺。8月14日にポツダム宣言の受諾を決めたが、残念なことは受け入れる時期が遅すぎたことである。ポツダム宣言を即座に受け入れていれば、8月6日の広島の原爆、8月9日の長崎の原爆、8月8日のソ連の宣戦布告はなかったはずである。戦争遂行はすでに困難だったのに、受諾が遅れたのは「軍部の本土徹底抗戦」を抑えきれず、「国体の護持の保証」を前に決断までの時間がかかったからである。欧米によるアジアの植民地政策をみれば、日本が植民地になることを政府が案じていたことは当然のことであるが、敗戦への責任追及もあったことと思われる。いずれにしてもポツダム宣言受諾の遅れが、国民のさらなる犠牲者を出したことは残念なことである。
 あの終戦の日からすでに65年が過ぎ、悲惨な戦争を知る者は80歳以上の老人ばかりとなった。現在の政治家も官僚もあの戦争を知らず、学校の教師や評論家もあの当時を知る者は少ない。戦争の悲惨さを知る老人は、心の奥に秘めた貴重な体験を押し殺し、彼らの体験が次世代に語り継がれることは少ない。老人たちは社会の隅に追いやられ、同朋を亡くした精神的トラウマの中で生きてきた。
 太平洋戦争を語る者、戦争の悲惨を口にする者は、その多くが戦争を体験していない。あの戦争が生んだ多くの教訓が歴史の中で忘れ去られ、あるいは歪曲されて後世に伝わるならば、わたしたちは最大の教訓を失うことになる。