第五福竜丸事件

 静岡県焼津港を母港とするマグロ延縄漁船「第五福竜丸」(156トン)が、マーシャル諸島のビキニ環礁北西168キロの海上でアメリカの水爆実験に遭遇し、筒井久吉船長以下23人の船員が放射能を含む「死の灰」を浴びた。
 昭和29年3月1日、午前4時12分のことである。夜明け前の南太平洋の星空の下で延縄作業をしていた第五福竜丸の船員たちは不思議な光景を目にした。突然、南西の水平線から巨大な閃光が上空に向けて一斉に昇ったのだった。火の玉は暗闇の海を真昼のように明るく照らし出し、「太陽が西から上がった」と第五福竜丸の船員はあっけにとられた。
 閃光から6〜7分後、ドーンという爆発音が周囲にとどろき、爆風によって船体は激しく揺れた。やがて暗黒のキノコ雲が空全体を暗く覆い、閃光から約3時間後には白い灰が第五福竜丸の甲板に降り注いだ。
 白い灰は、水爆実験で破壊されたビキニ環礁の珊瑚(さんご)が上空に舞い上がったもので、粉々になった珊瑚には大量の放射性物質が含まれていた。第五福竜丸はビキニ環礁から168キロ離れていたが、甲板には足跡が残るほど灰が降り積もった。
 船員たちはこれが水爆による「死の灰」とは知らなかった。頭上から灰を浴び、船員の中には灰をなめてみる者もいた。得体の知れない白い灰に不安を抱き、この海域から逃げ出そうと延縄を引き上げようとしたが、数キロにも及ぶ延縄を引き上げ終えたのは、午前10時半をすぎていた。
 引き上げ作業の間、船員たちはこの奇妙な現象が原爆実験によるとの疑念を抱き始めていた。アメリカが設定した「立ち入り禁止区域で原爆実験が行われている」とうわさがあったからである。第五福竜丸はその危険区域のはるか遠くで操業していたが、核実験の可能性は否定できなかった。
 無線長の久保山愛吉はこの奇怪な事件を沼津母港に報告せず、帰港の無線も入れなかった。もし無線がアメリカに傍受されたら、第五福竜丸が米軍によって沈められることを危惧したからである。放射線の恐ろしさよりも、アメリカの軍事秘密を知ってしまったことへの恐怖感が大きかった。第五福竜丸はひたすら焼津を目指し、全速力で帰路を急いだ。
 被爆から数時間が経つと、頭痛、嘔吐、めまい、食欲不振を訴える船員が出始めた。翌日には激しい下痢と倦怠感が全員を襲った。3日目になると、灰に触れた皮膚が赤くただれ、10日目ぐらいから水疱を形成し、頭髪に触れると髪がごっそりと抜けた。これは急性放射線障害の症状であった。
 第五福竜丸はアメリカが設定していた立ち入り禁止区域のはるか遠くで操業していた。しかし水爆の威力が、アメリカ軍の予想をはるかに上回っていた。ビキニ環礁の地上46メートルで炸裂した水素爆弾「ブラボー」は、広島型原爆の750から1150倍の威力を持っていた。
 第五福竜丸は、被爆から2週間後の3月14日の早朝、焼津に帰港した。彼らを出迎えた家族たちが見たのは、異様に日焼けした船員の顔であった。船員たちは黒く汚れた顔を隠すようにマグロの水揚げをすませると、焼津協立病院(現焼津市立総合病院)で診察を受けることになった。
 その日はちょうど日曜であったが、診察にあたった大井俊亮外科部長は、船員たちの鼻や耳、手などの露出部の水疱を見て、また脱毛、結膜炎などから原爆症を疑った。もちろん大井外科部長にとって原爆症は専門外なので、体調の悪い2人を翌日東大病院へ移すことにした。さらに保健所に連絡し、放射線測定器で第五福竜丸を調べてほしいと願い出た。
 静岡県から依頼された塩川孝信・静岡大学教授は調査のために焼津に向かった。塩川教授が福竜丸に近づくにつれ、手にしたガイガー・カウンター(放射線測定器)が次第にカン高く鳴り出し、その音に塩川教授は緊張の度を深めていった。
 船内に入ると、カウンターの針は毎時110ミリレントゲンの数値を示した。人体への放射線の許容量は24時間で2ミリレントゲンだったので、船内の放射能は殺人的な数値だった。船員にガイガー・カウンターを当てると、カウンターは激しく反応し船員たちは「急性放射能症」と診断された。
 第五福竜丸が焼津に帰港した翌日の3月15日、読売新聞静岡支局の安部光恭(みつやす)記者は殺人事件の取材で島田警察署に詰めていた。安部記者は下宿からの電話で、第五福竜丸の事件を知った。
「第五福竜丸がピカドンにやられたらしい。みんなヤケドを負っている」。下宿からの知らせに安部は驚き、他の記者たちに気づかれないように警察署を飛び出し、急きょ船員の自宅へ向かった。しかし船員の家族はスパイと誤解されることを恐れ、安部記者の取材に口を閉ざした。安部記者は被爆の事実を確かめるため、焼津協立病院を取材し被爆を確信した。翌3月16日、読売新聞全国版の社会面トップ記事として、第五福竜丸事件がスクープ報道されることになった。
 「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇、23人が原子病、1人は東大で重症と診断」。昭和29年3月16日、読売新聞のこの大スクープに国民は目を奪われ、日本中に衝撃が走った。記事に書かれた原爆の文字に日本中がパニックに陥った。国内だけでなく、第五福竜丸事件は国際問題へと発展していった。
 翌17日、第五福竜丸の被爆はアメリカの水爆実験による可能性が高いことが報じられた。アメリカはビキニ環礁で原爆実験を繰り返していたが、今回の実験は原爆ではなくその数百倍の威力をもつ水爆であったことが次第に明らかになった。
 日本は広島・長崎の被爆から9年後に、再び核兵器による被爆を受けた。原爆の洗礼を受けた日本が、また水爆によって世界で初めての犠牲者を出したのである。水爆の爆発力は科学者の予想をはるかに超え、放射雲は32キロの高さまで噴き上げ、粉々となった珊瑚は空気の希薄な成層圏まで広がり、立ち入り禁止区域のはるか外にまで死の灰を降らせた。
 アメリカの対応は威圧的であった。アメリカは「第五福竜丸がスパイ行為を働いていた」と主張し、「日本側の被害は誇張によるもの」と繰り返した。さらに第五福竜丸がアメリカの設定した危険水域で操業していたと責任を転嫁した。
 アメリカにとって自国の間違いを認めるわけにはいかない。アイゼンハワー大統領は「侵犯されれば、即時大規模な報復措置をとる」と威圧的な会見を行い、3月26日には再度水爆実験を行い、日本政府の補償請求を相手にしなかった。
 中泉正徳・東大医学部教授は、第五福竜丸の乗員の治療方針を立てるため、核分裂の種類と半減期を公表するように米軍関係者に迫った。米軍はいったんは公表を約束したが、結局その約束は守られなかった。元気だった乗員は次第に肝障害を起こし、3月28日、第五福竜丸の重症者7人が東大病院へ、残り16人が東京第1病院に入院することになった。
 東大病院医師・三好和夫が乗員23人の治療方針を決めることになり、被爆による骨髄抑制には抗生剤と輸血で対応することになった。船員のほとんどが白血球の低下と骨髄障害を起こしていた。
 アメリカの医療調査団が来日したが、日本医療団はアメリカの協力を拒否することにした。アメリカの医療調査団は患者のデータに興味を持つだけで、治療に非協力的であったからである。また放射能医学については、日本の方がアメリカよりも上との自信があった。さらに被曝患者をスパイ扱いにしたアメリカへの日本の悪感情があった。外務省はアメリカの医療調査団に協力を要請したが、日本の医師団はかたくなに拒否した。
 昭和29年9月23日、午後6時56分、重症だった無線長・久保山愛吉さんが肝不全から意識混濁をきたし、東京第1病院で亡くなった。久保山さんは「おれのような苦しみは、おれひとりでたくさんだ」の言葉を残し、40歳の若さで他界した。
 世界的な注目の中で遺体解剖が行われた。7時間に及ぶ解剖の結果、皮下には無数の火傷跡が認められ、肝障害を裏付けるように肝臓から放射能が検出された。病名は栗山副院長により「放射能症」と発表された。
 国民的な悲しみの中で、久保山さんの死は遺族のみならず全国民に大きな衝撃と怒りをもたらした。湯川秀樹博士は、「ひとりの犠牲が、原爆・水爆を製造している大きな国々の人たちに、人間らしい気持ちを蘇(よみがえ)らせるだろう」と語った。それまで静観していた米大使館も「遺族に深い同情を寄せている」と声明を出し、久保山さんの未亡人に香典として100万円を送った。
 翌30年5月20日、第五福竜丸船員22人が1年2カ月ぶりに退院、帰郷することになった。このような恐ろしい事態になるとは、船員の誰も想像しなかったことであった。
 第五福竜丸が積んでいたマグロはすでに東京・築地に出荷されていたが、焼津港からの連絡でマグロは隔離された。東京都衛生局の職員がマグロにガイガー・カウンターを近づけると激しい反応を示した。マグロから強い放射能が検出され、原爆マグロはすべて市場の隅に深さ3メートルの穴を掘り、地中深く埋められることになった。
 この死の灰による被害は、第五福竜丸ばかりではなかった。三崎港のマグロ船「第13栄光丸」、石巻港の「第五明神丸」も同様に被爆して、放射線に汚染された大量のマグロは赤ペンキを塗られ房総半島沖に破棄された。その後の調査で、原爆マグロを持ち込んだ漁船は855隻に達し、破棄されたマグロは500トンに及んだ。そのため全国各地でマグロの値段が暴落し、マグロの値段は半値以下になった。マグロは売れ残り、魚全体の売り上げも極度に低下し、漁業関係者は大きな打撃を受けた。
 マグロ漁業協同組合は国会議員にマグロを試食させ、マグロの安全性を宣伝したが効果はまるでなかった。国民が受けた不安は大きく、魚を食べて具合が悪くなったと病院を受診する者が相次いだ。
 第五福竜丸の被爆をきっかけに、雨、水道水、農作物などが調べられ、それらが放射能に汚染されていることが報道された。米ソの核実験によって大気汚染、海洋汚染は地球全体に広がっていた。
 伊豆大島の天然飲料水から95カント、静岡の緑茶から75カント、東京都のキュウリから84カントの放射能が検出され、農作物の放射能汚染が深刻となった。厚生省は「野菜はよく洗って食べるように」と指示を出した。
 このため国民の「死の灰」への恐怖は増大し、目に見えない放射能におびえ、それでいてなすすべがなかった。外出は控えられ、放射能不安が日本を覆った。子供たちは、放射能の雨に当たるとハゲるとうわさしたが、放射能不安はハゲるどころではなかった。
 ビキニの水爆実験に続いて、昭和30年1月にはソ連の水爆実験も始まり、放射能に汚染された放射能雪が裏日本一帯に降り注いだ。雪片は水滴より大きいため放射能が付着しやすく、雨に比べ汚染度が数倍高かった。
 久保山愛吉さんの死、被爆マグロ、放射能雨、放射能雪などにより国民の核実験への恐怖は増大していった。このような流れの中で、全国的な核実験禁止運動が高まることになる。さまざまな団体が超党派的に結集し、全国規模で原水爆禁止運動が始まった。この原水爆禁止運動で注目されたのが原水爆禁止の署名運動であった。

【原水爆禁止運動】
 水爆実験で第五福竜丸乗組員が被爆したことは、原爆の唯一の被爆国である日本国民に大きなショックを与えた。国民はマグロ、飲料水、野菜などの放射能汚染におびえ、雨季に入ると学齢児童をもつ母親を不安にさせた。
 これを機に原水爆禁止要求は激しく盛り上がり、全国民的運動となった。特に婦人の活動は目覚ましいものがあった。
 昭和29年4月、東京・梅ガ丘主婦会は署名運動を行い、埼玉婦人大会では原水爆禁止決議がなされた。杉並区の主婦らは、読書サークル「杉の子会」などによる杉並区婦人団体協議会を結成。公民館長の安井郁を中心に原水爆禁止署名運動を行った。主婦たちが呼びかけた「杉並アピール」が全国に広がり、原水爆禁止の署名運動が全国規模で行われた。
 「杉並アピール」は、<1>原水爆禁止のために全国民が署名しましょう<2>世界各国の政府と国民に訴えましょう<3>人類の生命と幸福を守りましょう。この3つのスローガンを掲げ、「全日本国民の署名運動で、原水爆禁止を真剣に訴えれば、私たちの声は全世界の人々の良心をゆりうごかし、人類の生命と幸福を守る方向へ一歩を進めることができると信じます」との言葉で結ばれていた。
 この杉並アピールは人々の心を深くとらえ、署名者数は50日間で27万人に達し、12月には2000万人、最終的には3300万人に及んだ。署名運動は日本から世界へと広がり、世界各国での署名は1億6000万人を超えた。
 世界的に水爆反対の声が高まり、赤十字社連盟理事会、ユネスコ執行委員会など数々の団体が核実験反対の決議を行った。原爆が投下されてから10年後の昭和30年8月に平和記念式典とともに第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催された。「原爆を許すまじ」の歌は、このころから広まっていった。
 原水爆禁世界大会は、それ以降、被爆地の広島と長崎、東京で毎年開催された。しかし第9回大会からは運営の基本方針をめぐり社会党・総評系と共産党が対立し大会は分裂した。社会党・総評系が昭和40年に結成した「原水爆禁止日本国民会議」(原水禁)と共産党系の「原水爆禁止日本協議会」(日本原水協)、これに民社党・同盟系がつくった「核兵器禁止平和国民会議」(核禁会議)が加わり、原水爆禁運動はこの3団体によって統一と分離を繰り返えし、原水爆禁止運動は政治の垢(あか)に染まっていくことになる。

【その後の第五福竜丸】
 被爆から2年後の昭和31年、「第五福竜丸」は東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」として生まれ変わり、昭和40年まで学生の練習船として大海を走っていた。
 しかし第五福竜丸は老朽化により故障が頻繁になり、利用できる部品はすべて抜き取られ、ディーゼルエンジンは木造貨物船「第三千代川丸」に搭載された。第五福竜丸は東京・夢の島に廃船として遺棄され、ゴミにまみれながら朽ち果てるところであった。この第五福竜丸を救ったのは、1人の青年が朝日新聞「声」欄へ投書したことがきっかけであった。「沈めてよいか、第五福竜丸」、「原爆ドームを守った私たちの力でこの船を守ろう」。この言葉が新聞の投書欄に載ると大きな反響を呼び、保存運動が始まった。
 一方、第五福竜丸のエンジンを積んだ「第三千代川丸」は、昭和43年7月21日に横浜港から潤滑油のドラム缶717本を満載して神戸へ向かう途中、濃霧のため三重県御浜町沖で坐礁沈没した。「第五福竜丸と離れてしまったエンジンを引き上げたい」、この市民の熱意が盛り上がり、御浜町沖に沈んだままのエンジンは引き上げられ、第五福竜丸はエンジンと再会することになった。
 昭和51年、市民の粘り強い保存運動によってビキニ水爆実験被害の「証人」として、第五福竜丸は東京・夢の島で余生を過ごすことになった。第五福竜丸は現在、夢の島公園の「都立・第五福竜丸展示館」に展示され、ビキニ環礁の悲劇を無言のまま語り続けている。

被爆周辺事件 昭和29年(1954年)
【ゴジラ】
 水爆実験への国民的な怒りと恐怖が日本を覆う中、東宝映画「ゴジラ」(本多猪四郎監督)が昭和29年11月3日の「文化の日」に封切られた。この異色の映画は、水爆実験とは直接関係はないが、第五福竜丸事件にヒントを得て製作された。ゴジラは単なる怪獣映画ではなく、水爆実験に反対する強いメッセージが含まれていた。ゴジラの名前は、ゴリラとクジラを組み合わせたものである。
 映画は、アメリカの水爆実験によって原始恐竜が太古以来の眠りから目を覚まし、東京を襲う設定であった。ゴジラは口から放射能を噴出し、国会議事堂を踏みつぶし、放射能を含んだ火炎で東京を破壊した。ケロイド状のゴジラの皮膚は水爆実験への恐怖と抗議の気持ちが含まれていた。
 ゴジラが去った東京の風景は、まさに原爆で破壊された広島、長崎のようであった。この映画のラストシーンで、「もし水爆実験が続いて行われたら、ゴジラの同類が世界のどこかに現れるかもしれません」と述べられている。このことから反原水爆映画であることが分かる。
 当時は日本の映画界が最も繁栄していた時期である。巨匠といわれる監督の作品が次々に発表され、黒沢明監督の「七人の侍」、木下恵介監督の「二十四の瞳」が、同じ昭和29年に封切られている。その前年には、衣笠貞之助監督の「地獄門」がカンヌ国際映画祭でグランプリ、ベネチア国際映画祭では溝口健二監督の「山椒大夫」が銀賞を受賞している。その中で「ゴジラ」は観客動員数961万人で、動員数では邦画での最高記録を達成している。
 ゴジラは特殊プラスチックの縫いぐるみで、縫いぐるみの中に人が入って操作していた。この特撮撮影を担当していた円谷英二はゴジラによって名声を高め、ゴジラはシリーズものとなった。モスラやラドンなどの対戦相手が次々と現れ、観客を楽しませた。最終的に20作以上の「ゴジラもの」がつくられ、多くの怪獣映画ファンを生んだ。円谷は独立し、ウルトラマンなどのヒット作品を生みだした。

【ロンゲラップ島の悲劇】
 原水爆禁止運動のきっかけとなった「第五福竜丸」は世界的によく知られているが、水爆はミクロネシアの住民にも甚大な被害をもたらしていた。このことは長い間秘密にされていたが、忘れてはいけない事実である。
 昭和29年3月1日、ビキニ環礁で水爆実験が行われ、広島型原爆の750〜1150倍もの水爆の威力がミクロネシアの住民を襲った。ビキニ環礁から190キロ離れたロンゲラップ島とウトリック島に、6時間にわたり死の灰が降り注いだ。子供たちは初めてみる雪のような白い粉をかけあって遊んでいたが、やがて激しい嘔吐、皮膚の炎症、脱毛などの急性放射能障害が島民を襲った。そのため島の住民243人、米兵観測隊員28人が甲状腺疾患などの放射能障害で苦しむことになる。島民18人が甲状腺がんで死亡したことが後に公表されている。
 ロンゲラップ島の住民たちは被爆の事実を一切知らされず、アメリカは40年間にわたり住民の健康を追跡調査するだけで、住民の健康被害を研究対象にしていたのである。このアメリカの行為は人体実験に等しいことで、少数民族への人権抑圧として厳しく批判されることになった。
 昭和60年になって、ロンゲラップの島の住民は汚染された故郷を捨て、200キロ離れたクエゼリン環礁メジャト島に移住することになった。しかし、新しい島に移住しても、奇形児の誕生など島民の不安は尽きることはなかった。島の住民全員が、原水爆実験のモルモットにされたのである。
 
【C型肝炎】
 第五福竜丸の無線長、久保山愛吉さんが被爆から半年後に死亡。残りの乗組員は放射能障害から回復して1年2か月後に退院した。だが大量の輸血を受けた乗務員は放射能障害に加え、輸血による肝障害に苦しめられることになる。輸血の際に混入したC型肝炎ウイルスが乗組員の肝臓に潜伏し、30年を経過したころから肝硬変、肝がんという致命的なダメージを与えたのである。
 その後、死亡した乗組員は、久保山さんを除いた10人で、肝硬変、肝がんを発症しての死亡だった。残る12人のうち半数以上が肝機能障害を抱え、肝がんの恐怖と対峙(たいじ)している。乗組員のなかで肝機能が正常だったのは1人だけであった。

 【ビキニの水着】
 ビキニ環礁の水爆実験の衝撃が世界中を駆けめぐるなか、フランス人のルイ・レアールが「ビキニの水爆のように衝撃的な水着」を考案した。ビキニはパンツやブラジャーに似た水着で、肌の露出があまりに派手だったので当初はほとんど着用されていなかった。昭和35年に「ビキニスタイルのお嬢さん」の曲がビルボードで1位になり、ビキニはしだいに普及、昭和42年になって日本でも流行し、多くの女性がビキニに飛びつき、男性の目を楽しませてくれた。日本の一般の女性が着用するようになったのは、ミニスカートの流行と重なったころで、アグネス・ラムのポスターが決定打となった。昭和55年頃になると体型を気にせずに着られるワンピース型が再び主流になったが、最近では若い女性を中心に復活をみせている。ところでビキニに限らず、ファッションはメーカーが作り上げ、それを時代が受け入れるかどうかによる。