生活保護法公布


【生活保護法公布】昭和21年(1946年)

 昭和21年9月9日、生活困窮者の救済を目的とした生活保護法が公布された。この法律は憲法第25条に規定された理念に基づき、生活に困窮するすべての国民に対して国家が最低の生活を保障するもので、当時としては画期的な法律であった。

 生活保護法は、すべての国民が人種、信条、身分、性別、門地によって差別されないこと、健康で文化的な生活を維持することを目的にしていた。保護する金額は「自己の能力で充たすことのできない範囲」が原則で、扶養義務者による救済を優先させ、困窮者の資産や能力などを活用しても足りないときに適応された。

 生活保護法が公布されるまでは、生活困窮者への法律は、救護法、母子保護法、軍事扶助法、戦災保護法、医療保護法といった個々の法律によって構成されていた。これらが生活保護法に一本化され、国家が国民に対し生活の責任を持ち、差別のない平等な最低生活を保障することになっている。

 財源は国と地方自治体が負担し、補助金額は5人家族で250円とされた。飢えに苦しんでいた家族にとって生活保護法は大きな福音となった。昭和21年から57年まで、最低生活費は毎年、賃金や物価の上昇率を上回る率で改訂された。しかし昭和58年の中央社会福祉審議会で、「妥当な水準に達した」として、以後、一般消費の伸びを基に算定されるようになった。

 生活保護には、生活扶助、教育扶助、住宅扶助、医療扶助、出産扶助、生業扶助、および葬祭扶助の7つがあって、医療扶助は現物支給であるが、その他は現金支給である。また生活保護の担当は福祉事務所となった。

 この生活保護法をめぐって、裁判で争われた「朝日訴訟」について説明を加える。朝日訴訟とは昭和32年8月、「現在の生活保護法は、健康で文化的な最低限度の生活を定めた憲法25条に違反する」と朝日茂さんが国を相手に東京地裁に提訴した事件である。

 朝日茂さんは結核のため、岡山の結核療養所に十数年間入居し、無収入のため生活保護を受けていた。ところが昭和31年に、35年間音信のなかった実兄の所在がわかり、実兄から送金を受けることになり、そのため朝日さんの生活保護費が減額されることになった。

 朝日茂さんは「月600円では生活ができない」と訴え、裁判では生活保護法による支給金額が妥当かどうかが争点になり全国の注目を集めた。一審の東京地裁では朝日さんの訴えが認められたが、二審の東京高裁は「保護基準は低額であるが、憲法違反ではない」との判決を下した。裁判所は「最低限度の生活の判断は厚生大臣の裁量権」としたのだった。

 この裁判は「人間裁判」と呼ばれ、多くの支援者が朝日さんを支え上告したが、昭和39年2月14日、朝日茂さんが50歳で死亡。死亡直前に小林健二、君子夫妻が養子縁組を成立させ裁判を継続しようとしたが、裁判所は原告死亡のため審議終了として、10年にわたる裁判は結論を出さないまま幕を閉じることになった。