松山事件

【松山事件】

 昭和30年10月18日未明、宮城県志田郡松山町の小原忠兵衛(54)さん宅で火災が発生し、全焼した焼け跡から一家4人の焼死体が発見された。司法解剖の結果、4人の遺体には刀器による傷が認められ殺人放火事件へと発展した。

 宮城県警と古川警察署の捜査本部は怨恨、痴情、無理心中、強盗の線から捜査を進めたが、捜査は難航し11月には捜査本部を解散した。ところが同年12月2日、牛豚内蔵卸業・斉藤幸夫さん(24)が別件で逮捕された。

 斉藤幸夫さんが裁判で有罪になったのは、斉藤さんの枕カバーや寝具に付着していた多数の血痕であった。この血痕の血液型が被害者の血液型と一致し、検察は斉藤さんの頭髪に付いた被害者の返り血が枕カバーに付着したと主張した。

 斉藤幸夫さんは殺人放火をいったんは自白するが、起訴前に自白を否認。裁判でも無罪を主張したが、一審、二審ともに有罪となり死刑が確定した。

 斉藤幸夫さんは獄中から無罪を訴え続け、やっと再審請求が認められて、昭和59年に無罪の判決がなされた。投獄されて29年後、釈放された斉藤さんは、雨にぬれながら息子のアリバイを主張し続けた母親と抱き合った。

 無罪となったのは、寝具についていた血痕が押収後に捏造されていた可能性があったからである。斉藤幸夫さんが逮捕され、押収された時に撮影された枕カバーには、血痕らしいものが1カ所だけだったが、公判時に提出された枕カバーには無数の血痕が付着していた。

 さらに齋藤幸夫さんは留置場で前科5犯の男から「やってなくても警察で犯行を認め、裁判で本当のことを言えばいい」とだまされ、斉藤さんはうその自白をした。この男は警察のスパイだったことが後に判明している。この事件も古畑種基教授の血液鑑定が直接関与していた。