東大助教授毒殺事件

東大助教授毒殺事件  昭和25年(1950年)

 昭和25年1月8日、正月を郷里の福井で過ごした東大医学部の渡辺巌・助教授(39)が、上京ため北陸線の上野行き急行列車に乗り込んだ。しばらくして渡辺助教授は車内でポケット型の角瓶ウイスキーを取り出して一口飲むと、急に苦しみだした。同行していた医局員・西輝夫がすぐに救命処置をとったが、急遽下車した小松駅(石川県小松市)の駅長室で絶命した。このとき、西輝夫には犯人の心当たりがあった。

 金沢医大で司法解剖が行われ遺体から青酸カリが検出され、石川県警鑑識課の検査でもウイスキーから青酸カリが検出された。警察は他殺事件として捜査を開始、ウイスキーのノシ紙に八洲化学工業の名前が書いてあったことから、八洲化学会社を調べたが、会社にはウイスキーを贈った記録はなかった。

 警察は周囲の人物から事情聴取を行い、かねてから噂さがあった東大・小石川分院歯科医員の蓮見敏(25)を怪しいとにらみ連行した。取り調べで蓮見敏の供述があいまいだったため、さらに追求すると犯行を自供した。犯行の動機は「渡辺助教授に看護婦との恋仲を裂かれたことへの恨み」によるもので、蓮見敏は1月15日に逮捕となった。渡辺助教授に同行していた医局員・西輝夫の想像していた通りになった。

 蓮見敏は東大付属病院に勤めていた昭和21年5月頃、看護婦M子(19)と深い関係になり、病院にいづらくなり、21年9月から小石川分院に勤務を変えていた。しかしそこでも素行が悪く、複数の看護婦とたびたび問題を起こしていた。

 蓮見の父親は、当時、福井赤十字病院に勤務していた渡辺巌医師に相談、渡辺医師のもとに蓮見を預ける形をとった。ところが渡辺医師が東大助教授に迎えられることになり、渡辺医師とともに蓮見も小石川分院に勤務することになった。

 蓮見の品行を心配した渡辺助教授は、蓮見とM子の関係を遠ざけるため、M子を助教授つきの看護婦として身近に置いた。このことが皮肉にも、この痴情事件を引き起こすことになった。昭和24年8月22日、渡辺助教授が胃潰瘍で入院すると、M子が徹夜で看護にあたり、それ以来、蓮見との仲を監視するはずだった渡辺助教授とM子が恋仲になり、2人の醜聞が病院で噂された。このため渡辺助教授、M子、蓮見の3人は醜い三角関係に発展していった。

 蓮見は他の女性と24年に結婚していたが、M子との関係も続けていた。さらにはS看護婦ともアパートで同棲を始め、男女をめぐる関係は泥沼化していった。複雑に絡み合う痴情関係の中で、渡辺助教授は蓮見の論文を指導することを拒否、M子への慰謝料として20万円を出すように執拗に求めるようになった。給料5000円で妻と愛人を養っている蓮見に、慰謝料を払う余裕はなかった。

 決定的だったのは、医局の忘年会で、蓮見は大勢の前で渡辺助教授からひどく罵倒されたことだった。「おまえのような人間は学位を受ける資格がない」「素行の悪いことを父に告げる」と言われ、蓮見は積もる恨みが爆発し、殺害を決意した。

 蓮見はポッケトウイスキーを買い上手に栓を外した。復員の時に持ち帰った自決用青酸カリをウイスキーに入れ、同棲していたS看護婦のアパートで業者のニセのノシ紙を付け、S看護婦の手を経て東大・小石川分院に届けさせた。何も知らない渡辺助教授は、ウイスキーを福井に持参し、東京に帰る汽車で封を切り、蓮見の思惑通りにウイスキーを飲み絶命したのだった。

 蓮見敏は浦和中学から日本歯科医専を経て、東大病院に勤務していた。女性関係は常にだらしなく、同時に多数の女性と付き合っていた。この事件は戦後の道徳を失った廃退的な事件だった。

 蓮見敏は第1審では無期懲役となったが、控訴審で懲役15年の刑が確定し、7年半の刑期で出所すると名前を変え歯科医として再出発している。当時は殺人事件を犯しても歯科医師免許は剥奪されなかった。

 いつの世にも、痴情による殺人事件はあるが、痴情により男性医師が男性医師を毒殺したのはこの事件が唯一のものである。次ぎに女医による殺人事件についても追加する。