日本医師会の発足

日本医師会の発足 昭和22年(1947年)

 慶応3年(1867年)10月に大政奉還がなられ、明治政府が誕生。明治7年、明治政府はそれまでの漢方医学から西洋医学へと変換する方針を決めた。明治政府が西洋医学を導入してからも、医学会社などの医師の親睦団体はあったものの、大規模な組織はつくられていない。

 明治23年4月に第1回日本医学会が開催されるころになると、医師の数も増え、自分たちの資質の向上と医業権益ため、医師会設立の気運が高まった。医師会発足は、明治26年に全国の薬剤師が医薬分業を求め、日本薬剤師会をつくったことが大きな起爆剤となった。同年、全国の医師有志が集まり、大日本医会が小さいながらも創設されることになった。

 日本医師会の歴史の中で興味深いのは、日本医師会の設立は医薬分業を主張する日本薬剤師会に対抗することが目的だったことである。設立後の日本医師会の活動も、常に医薬分業を阻止することであった。このように医薬分業は医師会の団結を維持するための刺激剤になっていた。

 明治39年、日本薬剤師会が医薬分業を定める法案を再度政府に提出、これに対抗するため県単位の医師会が相次いで誕生。同43年に関東、東北、関西、九州などのブロック別に医師大会が開かれるようになった。

 大正3年、日本薬剤師会が再び医薬分業を政府に要求したことから、日本医師会設立の機運が高まり日本連合医師会が設立された。しかし参加した都道府県は少なく、本格的な活動には至っていない。この流れの中で、「薬律改正案」が再三議会に提出された。この動きに医師たちの危機感が高まり、大正5年11月10日、ついに大日本医師会が誕生した。

 大日本医師会に参加した医師数は4万3000人で、設立の理念は日本の医療を良くするための情報交換と医師の社会的地位の確保であった。大日本医師会の会長には、破傷風とジフテリアの血清療法を発見した伝染病研究所所長・北里柴三郎が選任された。北里は慶應大学医学部の初代部長で医学界の重鎮であったため、その名声によって全国規模の大日本医師会が結成されることになった。

 大日本医師会の開会のあいさつに立った北里柴三郎は、「3万有余のわが会員は、国民に直接接する開業医のみでございます」と述べている。この言葉から大日本医師会は開業医の組織として設立されたことが分かる。会員の大部分が開業医で占められ、大日本医師会は反帝国大学、反官僚的な雰囲気に満ちていた。北里の在野精神が多くの医師の賛同を得ていた。

 大日本医師会は薬剤師会の政治力に対抗するため、衆議院に議員を送ることを決議。総選挙で14人の医師出身議員を当選させる実力を示した。大日本医師会の入会は任意であったが、大正8年に医師法が改正され郡市区医師会、道府県医師会が強制的に設立され、医師会の加入が任意から強制になり、公立病院の勤務医も加入が義務付けられた。

 また医師会の法人化が図られ、大正12年11月に大日本医師会は日本医師会と名称を変え、任意法人の認可を受けることになった。その定款第3条には「本会は医道の昂揚(こうよう)、医学、医術の発展普及および公衆衛生の向上を図り、社会福祉を増進することを目的とする」と記載されている。このように日本医師会は医道の昂揚という精神面と、医学や医術という学問技術の向上を基本とした学術団体であることが分かる。

 北里柴三郎は昭和6年6月13日に脳溢血で死去(享年78)するまで日本医師会長を務め、2代目の会長は北里の弟子である北島多一が昭和18年1月まで務めた。満州事変から太平洋戦争へと続く戦時体制のなかで、日本医師会は国家総動員体制に組み込まれ、戦争遂行のために国に協力することが義務付けられた。日本医師会は管制医師会になり、医師会の役員は国の任命する官選となった。

 昭和18年2月、小泉親彦厚相は3代目の日本医師会長に稲田龍吉、副会長に中山寿彦を任命。日本医師会と並列した組織として日本医療団が設立された。日本医療団は国家総動員体制における病院や診療所の運営、医療関係者の指導錬成にあたることを務めとし、医療団総裁には医師会会長・稲田龍吉が兼任することになった。医師会は戦争遂行のための国家組織のひとつとして終戦を迎えることになる。

 第二次世界大戦が終了すると、連合国総司令部(GHQ)は日本のあらゆる分野の民主化を指示。アメリカ自由主義の理念を基本に、日本医師会も国家統制の医療を改めるように命じられた。

 昭和20年11月、GHQは医師会の役員を選挙で選ぶように指示、翌21年2月の役員選挙で中山寿彦が会長に選ばれることになった。さらに同年9月30日、GHQは日本医師会を強制加入から任意加入とすることを指示。22年8月13日に日本医師会設立委員会が発足し、委員長には榊原亨、副委員長には黒沢潤三が選ばれた。しかしそのとき、GHQは管制医師会に協力した者の排除を通告、そのため設立委員会のメンバーは医師会執行部に入れないことになった。

 昭和22年10月31日「医師会、歯科医師会及び日本医療団の解散等に関する法律」が公布され、11月1日に「日本医師会」が認可され新たな出発となった。新生「日本医師会」の会長には東大教授・高橋明が選任された。

 新生日本医師会は新憲法の精神にのっとり、会員はそれまでの強制から任意加入となり、日本医師会は自主運営を行う法人となった。また都道府県医師会、郡市区医師会への加入が日本医師会加入の前提となった。

 日本医師会の目的は、「医道の高揚、医学の発展、医療の普及と公衆衛生の向上、医師の補習教育、会員間の相互扶助を図ること」とされている。だが実際には、開業医の利益擁護が活動の中心で、特に昭和32年から25年続いた武見体制下の日本医師会は、強力な圧力団体として政治力を発揮することになる。

 この武見太郎の政治力は日本医師会の政治力ではなく、武見個人の政治力であった。武見太郎は昭和21年から首相を務めた吉田茂の甥にあたり、厚生省ではなく政治家を相手に医療制度を変えていった。それまでの日本医師会長は役員が変わるたびに厚生省にあいさつに出かけたが、武見は厚生省にあいさつに行かず、厚生省が武見にあいさつにくるようになった。

 日本医師会は、同会員で組織された「日本医師政治連盟」によって、豊富な資金力でロビー活動を行った。支持政党である自民党に多額な献金を行い、関連官庁へも絶大な力をふるった。とくに社会保険診療報酬をめぐっては、厚生省や健康保険組合連合会と常に対立し、強力な圧力団体となって開業医の利益を守った。

 医師を代表する有力団体が他にないため、日本医師会の賛成がなければ日常の医療行為、医療政策が遂行できなかった。また日本医師会は開業医をほぼ組織化し、いざという時にはスト(保険診療の拒否)を武器に、あるいは政府の各種委員会からの総引き上げという手段によって、日本の医療と保険行政に大きな影響力を持った。

 だがこの日本医師会の強さは、昭和50年頃までであった。武見太郎が引退すると、その政治力は急速に低下し、現在ではかつての政治力はみられない。日本医師会は厚生労働省(平成13年1月の省庁再編で厚生省と労働省が合併)関係の審議会や協議会に多くの代表を送り込んでいるが、医療保健行政への影響力はかつてほどではない。それとは逆に、日本医師会との長い対立の結果、厚労省の団結が強くなり、医療行政の主導権は日本医師会から厚労省に代わってきている。

 厚労省の医療は「医療を国民に平等に安く提供すること」で、日本医師会の医療は「医師が持つ技術を、自由で平等に提供すること」である。統制医療と自由主義医療の違いが常に対立することになった。つまり医療報酬を下げようとする厚労省、医療報酬を上げようとする日本医師会の対立であって、いずれにせよ医療費を誰がどのように負担するかで常に対立している。

 日本医師会長は武見太郎(13期25年)のあと、花岡堅而(1期2年)、羽田春兔(4期8年)、村瀬敏郎(2期4年)、坪井栄孝(4期8年)、植松治雄(1期2年)、唐澤祥人(2期4年)、そして平成22年より原中勝征となっている。日本医師会の政治組織である日本医師政治連盟は、政治家に寄付をしており寄付金は年間約15億円に達している。

 一般には知られていないが、日本医師会は日本医学会を傘下に持ち、日本医師会の主催で4年ごとに日本医学会を開催している。大学病院の医師や勤務医は日本医師会と各学会は無関係と思っているが、医学関係の各学会は日本医師会の下部組織になっていて、日本医師会は日本の医学会をも牛耳っている。

 そのため各学会は政府に直接働きかけることはできず、国への要望は常に日本医師会を介することになっている。このように日本医師会は医学研究の総括も行い、対外的にも、対内的にも、構造的に強固な組織をつくっている。

 日本医師会は医師の集団であるが、同じエリート集団である日本弁護士会(日弁連)ほどの拘束力はない。日弁連は強制加入で、日弁連から除名された弁護士は失業同様になるが、日本医師会会員は医師会を除名されても医業を行うことができる。そのため職業集団としてのインパクトは、日弁連の方が日本医師会より強い。そのため勤務医の半数は日本医師会に入会せず、加入しないで開業医となるケースも増えている。

 日本医師会は、47都道府県医師会の会員により構成され、都道府県医師会はそれぞれが独立した法人になっている。日本医師会は各都道府県単位に会員500人に1人の割合で代議員を出すシステムになっている。現在の会員数は開業医8万2000人、勤務医7万4000人の計15万6000人で、その組織率は全医師の約6割である。勤務医の比率は以前に比べ高くなっているが、勤務医は準会員で、まだ開業医が主体の組織といえる。