教授餓死事件

【教授餓死事件】

 配給だけでは栄養失調となってしまう時代、国民のほとんどは闇市や買い出しで飢えをしのいでいた。配給以外のヤミ買いで食糧を得ることは食糧統制法に違反する犯罪行為であったが、この食糧不足を前に、政府が命じる配給のみの生活を行い、餓死する事件が起きている。国家を信じ、正しく生きようとする精神が食糧難の現実の前に挫折したのである。

 昭和20年10月11日、東京高等学校ドイツ語教授・亀尾英四郎が栄養失調で死亡した。亀尾教授はまじめすぎるほどの学究肌で、同僚や学生からの評判はよかった。教授はかねてより国の食糧政策を信じ、また教育者として裏表があってはいけないとの信念を持ち、配給のみの生活を送っていた。どんなに苦しくても、国策を守っていく固い信念があった。しかし育ち盛りの6人の子供を抱えた生活は日々困窮するばかりだった。庭に造った2坪あまりの農園は焼け石に水で、子供たちに少しでも多く食べさせたいとする親心から、自分の食事をさらに切り詰めていた。

 亀尾教授の残された日記には、「国家のやり方がわからなくなってきた。限られた収入とこの食糧配給では、今日の生活はやっていけそうにもない」と書かれてあった。亀尾教授はまさしく国策に殉じた犠牲者であった。

 昭和25年9月1日には東大法学部の原田慶吉教授(47)が生活苦から首吊り自殺をしている。原田教授はローマ法制史の権威で、給料のほとんどが書籍代に消えていた。原田教授は闇米を買わず、6畳1間に家族5人の間借り生活をしていた。清く貧しい生活を清貧と言うが、清貧では物理的にも精神的にも生きてゆけなかったのである。