山口良忠判事「餓死」事件

【山口良忠判事「餓死」事件】

 昭和22年10月11日、国民のほとんどがヤミ米でやっと生き延びていたとき、東京地裁の山口良忠判事(33)の餓死事件は大きな衝撃となった。山口判事はヤミ米を口にすることを拒否、配給だけの生活を行い、栄養失調により衰弱死したのである。法を守る立場の裁判官としてヤミ米を拒否していた。

 山口良忠判事はヤミ売買を中心とする経済統制違反を担当していた。ヤミ米を買った人たちに刑を言い渡す立場上、「法の番人としてヤミ米を買わない」と山口判事は決意していた。ヤミ米を裁く裁判官がヤミ米を食べては、それを裁く資格がないとした。

 山口判事は妻と幼児2人を抱え、しかも安い給与では食べていけなかった。妻は衣服などを売って食いつなごうとしたが、山口判事はこれを叱りつけ、妻にヤミ買いを固く禁じていた。このため夫婦の毎日は汁をすするだけの生活で、わずかに配給される食糧の大部分は2人の子供にあてがっていた。

 見かねた知人や同僚たちが食料を送ったが、判事はそれをも拒み続けた。栄養失調による体調の不良を感じながら出勤し、100件以上の事件を片付けていた。8月27日、山口判事は東京地裁で仕事中に極度の栄養失調から倒れてしまった。

 山口判事が病床でつづった日記には次のように書かれている。

 「食糧統制法は悪法だ。しかし法律としてある以上、国民はこれに服従しなければいけない。自分はどれほど苦しくてもヤミ買いはやらない。自分は平素から、『ソクラテスが悪法だと知りつつも、その法律のために潔く刑に服した精神』に敬服している。今日、法治国家の国民は特にこの精神が必要だ。自分はソクラテスではないが、食糧統制法の下、敢然ヤミと闘って餓死するつもりである。自分の毎日は全く死への行進である」。このように悲壮なまでの決意が書かれていた。

 山口判事は餓死を覚悟し、自分の意志で死を選んだ。判事は九州に帰郷し、結核の療養をしていたが病床でも態度を変えず、「判事という職業が恨めしい」と涙する妻と2児を残して亡くなった。病名は肺結核であったが、朝日新聞が「食料統制に死の抗議、われ判事の職にあり、ヤミ買い出来ず」の見出しで山口判事の死を報じた。

 当時、配給される米は1日2合5勺であったが、実際に配給されるのは麦やカボチャばかりで、しかも配給の遅れは日常的で、配給のない欠配も続いていた。

 配給が遅れる毎日では死を待つしかない。誰もが生きるために違法と知りながらヤミに手を出すことが常識になっていた。その意味では国民全員が犯罪者であった。山口判事のように勤勉でまじめであっても、法を尊守し正しい生活を貫こうとしても、それでは生きていけない時代であった。山口判事の行為を「法の威信を守るソクラテス」と評価すべきか、あるいは「融通の利かない時代遅れの判事」と評価すべきか、いずれにしても自分の信念を貫いたことは、すさんだ当時の人たちに感動を与えた。

 終戦によりすべての価値観が崩壊した中で、山口判事の死は「法の権威を守り、死をもって国家に抗議した」として当時の人たちに高く評価された。彼の精神の純粋性が国民の共感を呼び、忘れかけていた日本人の美学を思い起こさせた。