小平事件

【小平事件】

 終戦から1年後の昭和21年8月17日の朝、東京・芝公園の道上寺の裏山で、死後10日ほどたった若い女性の腐乱した死体が発見された。全裸の遺体は首に手ぬぐいが巻かれたままであった。当時、この一帯は「闇の銀座」と呼ばれるほどのデートコースだったので、最初は単なる痴情による殺害と思われた。ところが遺体から少し離れた草むらからも、白骨化した女性の死体が発見され、連続殺人の可能性が出てきた。

 最初に発見された被害者の身元は意外に早く判明した。遺体発見から3日後の8月20日、被害者は捜索願が出されていた大相撲の行司・式守伊三郎の娘(17)であることがわかった。母親の話では、娘は8月4日に「就職口を探しに行く」と言って家を出たまま行方不明になっていた。

 娘の日記には、その日に小平義男(42)という人物と会うことになっていて、小平の住所も書かれていた。小平の容疑が濃厚になり、8月20日、小平は渋谷区の自宅で逮捕された。取り調べが始まると、小平は道上寺の2件の殺人をあっさりと自供、さらに驚くことに過去の暴行殺人事件を次々に得意げに自白した。小平は40人の女性を暴行し、抵抗した10人の女性を暴行後に殺害していたのだった。

 小平義男はリュックを背負った買い出しの若い女性に目をつけると、「闇米を安く売ってくれる農家を世話してあげる」と親切に声をかけ、言葉巧みに山林に誘い込んで暴行を加えていた。いきなり女性の首を絞め、無抵抗となったところを強姦。自分の欲望を満足させると、証拠隠滅のため絞め殺すという残忍な手口であった。小平は食糧難に便乗し、食べ物を餌に1年4カ月の間に10人の女性の生命を奪っていた。

 殺人鬼小平義男は、明治38年に栃木県日光で生まれている。店員や工員などをしていたが長続きせず、19歳の時に志願兵として横須賀海兵隊に入隊。中国大陸へ出兵したことが犯行への道を決定させた。中国の先々で売春婦と接し、上海事変では6人の中国兵を刺殺、さらに民家に入って強盗と強姦を繰り返していた。日本軍隊の風紀は乱れていて、小平は戦争によって殺人と強姦に快楽を覚えていた。

 小平義男は除隊後に結婚したが、小平に私生児がいることが発覚して離婚話となり、離婚させようとした義父を殺害して15年の懲役刑を受けた。しかし2度の恩赦により6年半で出所し、その後、第一海軍衣糧廠でボイラーマンとして働き、同じ職場の女性に食べ物を与え、20年5月25日に強姦、その後発覚を恐れて女性を殺害している。このとき味わった快楽がその後の殺人を生んでいくことになる。

 昭和21年より進駐軍の洗濯夫として働いていたが、若い買い出しの女性を見ると、「安い米がある、一緒に行こう」と甘い言葉をかけ、若い女性たちを簡単にだましては毒牙にかけていた。犯罪史上最も凶悪なこの事件は、当時の食糧難を象徴する犯罪であった。

 殺人鬼・小平義男は精神鑑定を受けたが、「性格異常者であるが、責任能力はある」とされ、裁判では10件の殺害のうち3件は証拠不十分で無罪となったが、7件について死刑判決がでた。昭和23年11月、小平義男は最高裁で死刑が確定し、翌年10月5日、宮城刑務所で刑が執行された。小平義男はまんじゅうを3つ食べ、たばこを一服し、「この期におよんで何も言い残すことはありません」と念仏を唱えながら絞首台に立った。享年44。