安楽死事件

安楽死事件 昭和25年(1950年)

 安楽死は森鴎外の「高瀬舟」をはじめとして、多くの小説で扱われている。安楽死は死の生理的苦痛を解決するための方法であるが、非常にデリケートな問題を含んでいる。

 昭和24年5月31日、脳梗塞で寝たきりの母親から「楽にしてくれ」と懇願され、病床で苦しむ母親に青酸カリを飲ませた成吉某(33)が逮捕された。子供が親を殺害した場合、通常の殺人より罪の重い尊属殺人になるが、成吉はこの尊属殺人の罪で起訴されることになった。当時は、欧米においても安楽死の判例はなく、この裁判が日本のテストケースとして各方面から注目を集めた。

 昭和25年4月14日、裁判官は成吉に懲役1年、執行猶予2年の温情判決を言い渡たした。成吉が母親を殺害したのは母親を楽にすることが目的で、尊属殺人ではなく嘱託殺人との判決であった。この裁判は注目を集めたが、安楽死の明確な定義は示されなかった。

 安楽死を扱った裁判はそれほど多いものではない。安楽死はそれぞれの事例が複雑な事情を含んでいて、法律上、宗教上、倫理上、人道上、さらに医療上の問題を含み、単純に割り切れないものがあった。

 まず相手を楽にさせようとする行為を殺人として法律で罰することの是非である。悪意なき安楽死、命じた被害者と命じられた加害者、この構図が法律になじまないとする見方がある。

 昭和31年10月頃、愛知県中島郡祖父江町で農業を営む青年山内某(24)の父親(52)が脳溢血で倒れ、一時は小康状態を保っていたが、昭和34年に再び脳溢血で倒れて半身不随になった。父親の上下肢は屈曲位のまま動かず、動かそうとすると激痛が走るようになった。父親は食欲がなく衰弱していった。息も絶えそうで、しゃっくりの発作も起こり、父親は「苦しい。早く死にたい。殺してほしい」と訴えるようになった。息子の山内某は父親の苦悶の叫び声に耐えられずにいた。

 昭和36年8月20日、家族は診察を受けた主治医から「おそらくあと7日か、よくもって10日くらいの命だろう」と告げられた。父親の苦しむ様子を見て、息子はこの苦痛から解放することが最後の親孝行になると決意。8月25日、息子は自宅に配達された牛乳ビンに有機リン殺虫剤を混入し、栓を元通りにしてそのままにしていた。事情を知らない母親がその牛乳を父親に飲ませ、父親は有機リン中毒で死亡した。

 息子の山内某は起訴され、一審判決では尊属殺人の罪に問われたが控訴。弁護士は「本件は父親に頼まれて病苦を救うために行ったのであるから、嘱託殺人であって尊属殺人は成立しない」と主張した。

 昭和37年2月、名古屋高裁は判決で、「間もなく死ぬ病人が、死にたいと希望した場合、一定の要件に従って死なせる安楽死は法的に認められる」とした。安楽死を認めるかどうかは、人為的に人命を断つのであるから厳しい条件が必要として、安楽死が違法とならないための6条件を示した。

 (1)病者が不治の病に冒され、しかも死が目前に迫っていること。

 (2)病者の苦痛が甚だしく、何人もこれを見るに忍びない程度のものであること。

 (3)病者の死苦の緩和が目的であること。

 (4)病者が意思を表明できる場合には、本人の真摯(しんし)な嘱託、または承諾があること。

 (5)医師の手によることを本則とし、これができない場合には、それに足る特別な事情があること。

 (6)その方法が倫理的にも妥当なものとして認容し得るものであること。

 この安楽死の条件を、本件でみてみると、(1)、(3)、(4)の用件は満たしているが、(5)は満たさず、(6)の有機リン殺虫剤を飲ませたことは倫理的に容認できないとされ、結局、懲役1年(執行猶予3年)の刑が言い渡された。

 この事件で裁判所は安楽死の定義を述べたが、その定義に照らし合わせて安楽死を行う医師などいるはずがない。このように現実的に安楽死は厄介な問題を含んでいる。

 平成3年4月4日、東海大付属病院で塩化カリウムによる安楽死事件が起きている。「苦しまずに死を選択できる権利としての安楽死」は、法律と医療の間に大きな課題を残している。