奇跡のクスリ、ペニシリン

奇跡のクスリ、ペニシリン 昭和22年(1947年)

 抗生物質ペニシリンの発見は、感染症への人々の脅威を激減させた。ペニシリンが発見されるまでは、肺炎、中耳炎、破傷風などの感染症の治療法はなく、感染を受けた多くの人たちの生命が奪われていた。昭和3年にペニシリンを発見し、人類に大きな貢献をもたらしたのが、イギリスの細菌学者アレキサンダー・フレミング(1881〜1955)である。この20世紀最大の発見は「偶然と同時に、フレミングの鋭い観察力」が導き出したものである。

 セント・メアリー病院に勤めていたフレミングは、第一次世界大戦時に、フランス戦線に派遣され、次々に運ばれてくる戦傷者の傷の洗浄を繰り返す毎日であった。大戦が終わりセント・メアリー病院に戻ってきたフレミングは、細菌と生体防御機構の研究に没頭する。

 フレミングはペニシリンを発見する前に、唾液中の殺菌物質リゾチームを大正10年に発見している。このリゾチームの発見は、フレミングの鼻水が培養皿上の細菌に変化をもたらしたことがきっかけであった。後の研究で、リゾチームは鼻汁だけでなく、唾液、涙、痰、粘液などに含まれる殺菌物質であることがわかった。リゾチームの殺菌作用は弱く、病原性のある細菌には効果は弱かったが、当時としては医学上の大発見であった。リゾチームは現在でも風邪薬の成分として含まれている。

 昭和3年、ブドウ球菌の培養実験を行っていた当時47歳のフレミングは、ガラス皿の中に混入した青カビが周囲のブドウ球菌を溶かしているのに目を奪われた。フレミングが普通の研究者であったならば、単に実験の失敗で終わっていたであろう。だがフレミングの鋭い観察力は、この奇妙な現象を「細菌を殺す何らかの代謝産物を青カビが出している」と推測したのだった。青カビを培養して調べてみると、青カビの培養液が細菌の発育を阻止し、溶菌する作用を持っていることがわかった。カビの培養液を1000倍に希釈しても殺菌効果を持っていたのだった。

 微生物間の拮抗(きっこう)作用はペニシリンの発見以前から知られていたが、当時の細菌学者は、「細菌に毒性のあるものは、人体にも毒性がある」との先入観にとらわれていた。フレミングは青カビの培養を繰り返し、人間の細胞に無害であることを証明し、この青カビ(ペニシリウム)が産生する殺菌物質をペニシリンと命名した。翌4年、「ペニシリウム培養液の抗菌作用、とくにインフルエンザ菌への応用について」という論文を発表している。

 フレミングの鋭い観察力がペニシリンの発見を生むことになったが、ペニシリンを精製することができなかった。ペニシリンは化学的に不安定で精製するのが困難だった。そのため動物実験には至らず、研究は約10年もの間放置されていた。彼の研究は英国実験病理学雑誌に掲載されたままとなった。

 昭和15年になって、英オクスフォード大学の病理学者フローリーと生化学者チェーンがこのペニシリンの作用に着目した。彼らはフレミングが発見したリゾチームの研究をしていたが、フレミングの論文を読み、ペニシリンの実用へと研究を変えたのであった。

 2人はペニシリンの酸性溶液が低温エーテルで抽出できること、濃縮乾燥させても安定していることを見いだした。このような特性を利用してペニシリンを分離精製し、化学的に安定した粉末にすることに成功した。

 さらに連鎖球菌、ブドウ球菌、ガス壊疽菌などをマウスに感染させ、ペニシリンの投与によって、マウスが死なずに生存することがわかった。このようにペニシリンの感染症への効果が証明され、この成果は「化学療法剤としてのペニシリン」の論文名で、雑誌「ランセット」昭和15年(1940年)8月24日号に掲載された。彼らは分離精製の技術に引き続き、クスリとして大量に生産する方法も開発した。

 翌年2月にオクスフォードのラドクリフ病院でペニシリンが人類に初めて使用された。投与されたのは黄色ブドウ球菌に感染した重症患者で、ペニシリンの劇的な効果が確かめられた。ペニシリンは猛威を振るっていた肺炎、淋菌、敗血症など、多くの化膿菌感染症に劇的な効果を示した。このフローリー、チェーンによる臨床への応用は「ペニシリンの再発見」とよばれ、フレミング同様の高い評価がなされている。

 抗生物質は自然界に存在する微生物の拮抗作用を利用したもので、人間には害を及ぼさず、病原菌のみに毒性を示す物質である。このペニシリンの成功をきっかけに、世界中の科学者たちは、無数に近いカビの中から、人体に投与可能な物質を手当たり次第に探し求めることになる。

 彼らが最初に取り組んだのは、科学者としての研究ではなくカビの収集であった。ペニシリンの成功により、抗生物質の黄金時代が始まることになる。なおフレミングが発見したペニシリンを産生する青カビは非常に珍しいカビで、この珍しい青カビが、フレミングが実験していたガラス皿の上に偶然にも迷い込んできたのだった。

 イギリスはペニシリンの生産を目指していたが、イギリスはドイツから連日のように空襲をうけていた。フローリーはペニシリンの大量生産のためアメリカに渡り、農務省の協力を得て生産を始めることになった。ビンによる培養がタンク培養に代わり大量生産が可能になった。

 このペニシリンが世界で使用されたのは、アメリカで大量生産が可能になった太平洋戦争末期の昭和18年頃である。ペニシリンは感染症に罹患した多くの連合軍兵士に投与され、若い兵士たちの命を救った。戦病者の95%がペニシリンによって命を救われたとされている。

 昭和18年暮れ、ペニシリンの劇的効果がドイツの医学雑誌によって日本にも伝わり、翌年1月27日、「肺炎にかかったチャーチルの命をペニシリンが2日で治した」、このブエノスアイレスの外電をきっかけに、ペニシリンが注目されることになった。

 朝日新聞がこの記事を伝えると、これに刺激を受けた軍部はその日のうちにペニシリンの研究を命令、陸軍軍医学校の稲垣少佐が中心になって研究が進められた。このようにペニシリンはチャーチルの命を救ったことが大きな宣伝になり世界中に報道されたが、チャーチルに用いられた薬剤は実はサルフア剤だったとされている。いずれにしても、この報道が日本の軍部を動かすことになった。

 昭和19年2月1日、医学、薬学、農学などの科学者が動員され、陸軍医学校に第1回ペニシリン委員会(碧素研究会)が発足した。陸軍省医務局は15万円(現在の金額で30億円)の予算を組み、国家プロジェクトとしてペニシリンの研究が開始された。

 日本全国から、食品、土壌、植物などに生えている2000株以上のカビが集められ、その中から殺菌力のある3種類のカビを見つけることに成功。次いで患者への臨床試験が行われ、抗生剤としての殺菌効果が確かめられた。日本は、ペニシリンの研究からわずか9カ月で自前の国産ペニシリンを完成させた。ペニシリンの和名は碧素(ヘキソ)であった。

 国産ペニシリンは森永の三島工場、萬有製薬の岡崎工場で生産され、一部は軍に納入されたが、終戦間際の混乱のため一般には普及しなかった。このように「夢のくすり」、「魔法の弾丸」と呼ばれたペニシリンは日本でもつくられていた。

 太平洋戦争が終わり、GHQとともにアメリカからペニシリンが輸入され、その劇的効果によって数多くの日本人が救われた。しかしアメリカからのペニシリンだけでは国内の需要は満たせず、国産ペニシリンの生産が国家的急務となった。

 厚生省は昭和21年1月にペニシリン生産対策協議会を開催し、7月にはメーカー39社が集まって日本ペニシリン協会が設立された。アメリカからテキサス大学教授フォスターが招かれ、彼の指導により各製薬会社はタンク培養によるペニシリンの大量生産を開始した。

 昭和22年2月、国産ペニシリンが病院へ配布され、翌年には日本各地に行き渡るようになった。ペニシリンは単一物質とされていたが、天然ペニシリンにはP、G、X、Kの4種類あることがわかり、医薬品として実用化されたのはペニシリンGであった。

 ペニシリンは配給統制品から解除され、高価だったペニシリンは2年間で2割まで値段が下がり、魔法の弾丸は庶民の手に届くまでになった。その結果、22年に国民の死亡率第2位で10万人以上が命を落とした肺炎は、翌年には第6位とわずか1年で死者を半減させた。

 日本において短期間にペニシリンが普及したのは、ペニシリンを「人類共通の財産」として欧米が特許の対象にしなかったからである。さらに日本政府はペニシリンを生産する製薬会社に融資などの優遇措置を与え、またカビでひと儲けを狙う人たちが多かったことも普及の要因となった。そのため医薬品メーカーだけでなく、製菓業、乳業、酒造業、ビール業、化学工業までがペニシリン製造に乗り出した。

 ペニシリンは感染症の治療だけでなく、戦後の産業復興の牽引の役割を果たした。廃墟の中にあった日本経済をペニシリンが再生させたのだった。またアメリカ軍が「性病から兵士を守るためペニシリンの製造を奨励したこと」もペニシリン特需に拍車をかけた。

 昭和25年に朝鮮戦争が勃発すると、アメリカ軍は日本のペニシリンを大量に買い取ることになった。そのため抗生剤の生産は飛躍的に伸び、昭和30年には51の製薬会社がペニシリンを生産し、日本はアメリカ、イギリスに次ぐ世界第3位のペニシリン生産国になった。日本はペニシリンの輸入国から一転して輸出国へ、抗生物質大国、医薬品大国の道を歩むことになった。

 ペニシリンを発見したフレミングは、フローリー、チェインとともに、昭和20年にノーベル生理学医学賞を受賞した。昭和30年5月11日、フレミングはロンドンの自宅で心臓発作のため他界。彼が発見したペニシリンの原料となった青カビは現在ロンドンの大英博物館に展示されている。