国営売春施設

 終戦からわずか3日後の昭和20年8月18日、日本政府は占領軍を受け入れるに際し、「性の防波堤」として国営売春施設(特殊慰安施設協会)を設置することを決めた。国営売春施設は予想される占領軍兵士の性欲を満たすことが目的であった。
 米軍が日本に上陸する前日の8月27日、東京・大森の料亭「小町園」に日本初の国営売春施設が開場、小町園の英語名は「sex house」であった。この占領軍用の性的慰安施設についての政府決定は、内務省警保局長の橋本政美から全国の各警察署に秘密裏に無電で指令が出された。売春を取り締まるはずの警察が、売春施設に奔走したのである。その内容については「外国駐屯軍慰安施設等整備要領」として記録されている。
 国営売春施設は警視総監・坂信弥が中心になり、東京都内の芸子置屋同盟、貸座敷組合、慰安所連合会などの売春関連業者の協力で進められた。この設立を認めたのは後の総理大臣で、当時の大蔵省主税局長だった池田勇人である。
 池田は1億円の政府出資金を用意し、「特殊慰安婦協会、RAA:Recreation and Amusement Association」を設立。「1億円で日本の良家の子女の純潔が守れるならば安いもの」との認識であった。いずれにしても、戦後すぐに売春施設をつくったのは、日本国政府だった。
 政府の肝いりでつくられた国営売春施設の慰安婦募集が始まった。8月31日の朝日新聞に、慰安婦募集の広告が掲載され、その日以降、各新聞に同様の募集広告が次々に出されていった。「新日本女性に告ぐ! 進駐軍慰安婦の大事業に参加する新日本女性の協力を求む。年齢18歳以上25歳まで。宿舎、被服、食糧など完全支給」。このパンフレットは街頭でもまかれ、募集内容は若い女性に国土防衛を意識させるまじめな文章であった。
 慰安婦は押し寄せる進駐軍の毒牙から良家の女性を守るための防波堤とされた。終戦により、占領軍兵が日本の婦女子を強姦するという流言飛語が飛び交い、慰安婦を志望した女性たちは、「昭和の唐人お吉、日本民族の血統を守る人柱」と訓辞された。このように国営売春施設は政策として極めてまじめなものであった。
 特殊慰安婦協会には、モンペ姿からセーラー服の少女まで、東京だけで1000人の募集に4000人の女性が応募してきた。そのなかには食糧支給の言葉につられて集まってきた女性が多く、1360人の女性が慰安婦として働くことになった。
 女性のなかには、戦争によって配偶者を失った未亡人もいたが、応募者の半数近くは処女だったとされている。焼け野原の東京で餓死しないため、生きるためには恥も外聞もなかった。「国営売春施設に応募すれば衣食住が満たされる」、この条件に彼女たちは誘われた。応募した女性の多くが素足のままで、それは生きるための手段であった。
 内務省は、この国営売春施設の設置を決定すると同時に、進駐軍を迎えるための国民の心得についての通達を出し、その内容は新聞に掲載された。「日本女性の心構えとして、日本の女子は日本婦人の自覚をもち外国軍に隙(すき)を見せてはいけない、ふしだらな服装は禁物である」、「駐屯地付近の婦女子は、夜はもちろんのこと、昼間でも人通りの少ない場所の一人歩きをしないように」と書かれていた。
 政府は国営売春施設をつくる一方、一般女性には進駐軍についてこのような警告を発していた。この国営売春施設、国民の心構えは、いずれも日本の婦女子を守るためであったが、どれだけの効果があったのかは分からない。それは進駐軍の報道規制によって、進駐軍の犯罪が報道されなかったからである。
 米兵による婦女暴行、強奪事件などは進駐軍の報道規制によって揉み消されていたが、米兵による婦女暴行の噂は少なかった。米兵が礼儀正しかったのか、国営売春施設が米兵に効果的だったのか、いずれにせよ占領された日本の女性は守られることになった。
 日本政府が「性の防波堤、純潔の防波堤」として国営売春施設を作り上げた発想、衣食住を満たすため慰安婦に応募してきた女性たち。終戦という当時の状況を考慮すれば、国の政策も彼女らの心情も理解できないことはない。そうは言うものの、3日前まで連合軍を鬼畜米英と呼んでいた政府が、民間人に「辱めを受けるよりは自決」を強要していた政府が、米兵に国営売春施設を設けるという、手のひらを返した政策が何の抵抗もなく進められたことに戸惑いを覚える。それは民族としての潔癖性を、これほど無節操に変え得たことへの疑問である。この終戦前後の豹変は何だったのだろうか。
 終戦からわずか1カ月後の9月15日、ポケットサイズの「日米会話手帳」が誠文堂新光社から出版され、3カ月で400万部を売り上げる大ベストセラーとなった。日本人の16人に1人がこの本を買ったことになる。なお戦後において400万部以上を売り上げた本は、昭和56年の窓ぎわのトットちゃん(黒柳徹子 570万部)、昭和63年のノルウェイの森上・下(村上春樹 計449万部)だけである。このことからも「日米会話手帳」がいかにすざましい売り上げだったのかが分かる。それだけ日本人は英語を必要とし、英語に飢えていたのである。
 一億玉砕、本土決戦を唱えながら戦う者はなく、敵性語とされていた英語がギブミー・チョコレート変わり、天皇陛下万歳がマッカーサー万歳となり、貞操観念の強いはずの日本女性が、「日米会話手帳」を頼りに米兵の腕にぶら下がった。大和撫子が何の抵抗もなく豹変したように映るが、この変わり身の早さが日本人の順応性の高さと分析するのは単純すぎる。「日本人は信念を堅持しながらも、古い信念を躊躇なく捨て去る民族」と解釈しがちであるが、実際には、「鬼畜米英」は昭和16年からの戦争遂行のためのスローガンであって、それまでの日本人は欧米の文化や外国人へあこがれていて、人々は昭和15年の庶民感覚に戻っただけである。昭和15年まではアメリカの野球は新聞で報じられ、映画館ではハリウッド映画が次々に上演され、ラジオではジャズが流れていた。「鬼畜米英」は昭和16年12月8日から、昭和20年8月15日までの4年弱のことで、変わり身が早いのではなく、自然に昭和15年以前に戻ったと考えるべきである。
 しかしながら、数カ月前の沖縄のひめゆり部隊の最後、満州での民間人の自決、サイパンでの女性の投身自決などの悲劇と対比させると、慰安婦に応募した彼女らの心情に戸惑いを覚えることも確かである。
 ところで、日本女性の貞操観念について説明を加えると、日本女性の貞操観念は強いと想像しがちであるが、日本女性は性について本来は大らかだった。その証拠に、戦国時代のヨーロッパの宣教師は、日本女性の貞操観念があまりに欠如していることを本国への手紙に書いている。日本女性の貞操観念が堅固となったのは、儒教が導入された江戸時代以降のことで、封建時代あるいは銃後を守る軍国時代の産物といえる。いずれにしても、終戦から数日後に国営売春施設が設立された歴史的事実を直視しなければいけない。
 国営売春施設は、日本政府の予想通り米兵が列をつくるほどの大繁盛となった。最盛期には都内だけで20カ所以上、全国では7万人の慰安婦が働いていた。この女性たちは消耗品とみなされ、90%の女性が次々に性病に冒されていった。
 米兵の衛生を管理するGHQにとって、施設内での性病の蔓延は頭痛の種であった。国営売春施設の一角には「かまぼこ型の消毒所」が設けられ、事前の予防と事後の消毒が奨励された。さらに性病予防のためコンドームが108万個放出され、大量のペニシリンが日本に提供された。売春婦ばかりでなくセックスを商売としないダンサーたちも強制検診が義務づけられたが、性病予防の効果は低かった。
 米国に帰国した兵隊たちの妻や母親から「性病に冒されている」との抗議がGHQに殺到し、さらに売春行為そのものを反民主主義、反人道主義とする米国の世論が高まり、設立からわずか半年後の昭和21年3月27日、GHQは「公娼(こうしょう)廃止に関する覚書」を出し、すべての国営売春施設を廃止することになった。
 国営売春施設の廃止により、建前上日本の社会から売春は消失した。ところが売春は消失するどころか、潜伏した形で勢いを増すことになる。国家管理の売春が自由意思の売春に変わっただけであった。街頭に放り出された慰安婦たちは、手に職もなくもぐりの売春婦となった。国営売春施設の廃止により職を失った女性たちが街に立ち、街娼の全盛期がやってきた。雇い主から自由になった娼婦が街に溢れた。
 日本の性の防波堤とされていた慰安婦たちは、「パンパン」「パン助」「オンリー」「夜の女」「闇の女」など、軽蔑と羨望の混じった俗称で呼ばれた。女性たちは東京では有楽町、上野、池袋を主な仕事場として、売春相手は米兵から日本人へと移行していった。
 国営売春施設の廃止により、性風俗の悪化を恐れた政府は、21年11月4日、「接待所慰安所等の転換措置に関する通達」を出した。特殊飲食店などを、風紀上支障のない地域に設け、やむを得ない社会悪として売春を黙認する政策をとったのである。
 娼家は特殊飲食店(カフェー)と名前を変え、娼婦は女給と形式上名前が変わり、売春が公然と行われるようになった。この売春地域が警察の地図上に赤い線で囲まれていたことより「赤線」と呼ばれるようになった。「赤線」は黙認された売春地区であった。
 昭和22年9月の時点で、東京では吉原、州崎、新宿、立川、小岩、向島など16カ所が赤線になり、全国では662カ所が赤線に指定され、娼婦は4万9000人とされている。この黙認の「赤線」に対して、非公式に売春行為を行う場所がいわゆる「青線」と呼ばれた。
 昭和30年の「売春白書」にその当時の売春の実態が報告されている。それによると、全国の売春地区は1921カ所で、売春婦は約50万人に達していた。このように売春婦の数が急増し、1人の売春婦が1晩にとる客は平均3人、5人に1人が性病にかかっていたとされている。
 この売春白書の数字は組織売春に限られた統計なので、フリーの売春を含めれば、売春婦の数は相当数に達していた。女性たちが売春を始めた動機は生活苦であるが、組織売春で働く女性たちは、収入の7割を搾取され、手元には3割しか残らなかった。
 終戦直後の風俗を象徴するかのように、菊池章子が歌う「星の流れに」が大ヒットした。赤い口紅でたばこをふかし、ガード下に立つスカーフ姿の女性たち。「星の流れに身を占って、何処をねぐらの 今日の宿、……こんな女に誰がした」、この歌詞は、当時の彼女たちの退廃的雰囲気を表現している。「生きるために体を売る女性の悲しみ」と表現すればもっともらしいが、むしろ貞操観念を非現実的とする女性の力強さを感じてしまう。この赤線による売春は、売春防止法が施行される昭和33年4月1日まで続いた。