医薬分業

医薬分業 昭和25年(1950年)

 GHQは戦後の医療政策として、「日本医師会の改革」「インターン制度の導入」を行い、次の改革として「医薬分業」を目指した。GHQのサムス准将は薬剤師会や製薬会社からの働きを受け、日本政府に医薬分業を強く迫った。医薬分業とは、病院が病院内の薬局から患者に薬を出さず、医師が書いた処方箋を患者が院外薬局へ持って行って薬を出してもらうことである。

 医薬分業の歴史をたどると、ヨーロッパでは13世紀のローマ時代から行われていた。神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ2世が、「医師が調剤室を持つことを禁じる法律」を1240年に公布し、これによって医薬分業が確立した。フリードリヒ2世が医薬分業を設定したのは毒殺防止が目的であった。つまり「病気を診断し、処方箋を書く医師」と「処方箋を見て、薬を調剤する薬剤師」を分離させ、皇位継承者の毒殺防止を図ったのである。この伝統から、欧米では医薬分業が行われている。

 一方、漢方の歴史が長い日本では、医師は古くから薬師(くすし)と呼ばれ、医師と薬は切っても切れない関係にあった。日本には「医師が患者を診察して、医師が患者に薬を直接手渡す文化」があり、医学に薬学が従属していた。戦前の日本では治療費と言う代わりに、「薬代」という言葉を用いていた。このように日本と欧米との医療文化は根本から違っていた。

 サムス准将は「医薬分業が、日本の医療を近代化させる」と信じ、医師の仕事は病気を診断して処方箋を書くことで、薬剤を出すのは薬剤師の仕事としたのだった。日本の医師たちはアメリカ占領下で、アメリカ並みの医薬分業を押しつけられることになった。

 もし医薬分業が実施されれば、医師は患者に薬を直接手渡すことが禁じられ、日本の医療システムは根本から変わることになる。このGHQの医薬分業政策に対し、日本医師会は「投薬は医療行為で、治療は医師の全責任である」との声明を出し、医薬分業に反対の決意を示した。当時の医師の収入の多くは薬によるもので、「医師の技術料は薬の値段に含まれる」とする伝統があった。

 この医薬分業を実施しようとするサムス准将と直接交渉に当たったのが、第6代目の日本医師会会長・田宮猛雄の下で副会長に就任したばかりの武見太郎であった。サムス准将は、「敗戦国である日本は、勝者であるGHQの医療政策を受け入れるべき」と強硬な姿勢をみせた。ところが武見太郎は、「日本が負けたのは軍人が負けたからで、医者が負けたからではない」と言って激しく抵抗した。しかし当時、サムス准将はサムス天皇と呼ばれていた時代である。GHQの権力は絶大で、GHQは意に添わない医師会執行部を変えるように厚生大臣に要求。GHQの圧力によって、武見太郎をはじめとした日本医師会執行部は辞任することになった。

 昭和26年の国会で医薬分業法案が可決され、昭和30年1月1日から実施することが決定した。だがここで歴史の流れが大きく変わることになる。国会で医薬分業が可決された翌年、マッカーサー元帥が「朝鮮戦争で原爆を使用すべき」と主張し、トルーマン大統領に解任され、サムス准将も辞任して帰国することになった。

 GHQの圧力が消失した情勢の中で、日本医師会はさまざまな戦略を用い、国会で実施が決定している医薬分業の阻止を図った。日本医師会は保険医辞退の決意を示し、厚生省に揺さぶりをかけた。昭和29年11月25日、日本医師会全国大会で医薬分業に反対する決議がなされ、東京都・神田で7200人の医師が厚生省へデモ行進を行った。このように日本医師会を中心に医薬分業反対の運動は日本各地に広がっていった。

 この状況の中、実施直前の医薬分業法案は土壇場で大どんでん返しとなった。GHQが日本を去った最初の国会で、医薬分業法案に8項目の付帯条件が付けられた。「患者が医者から薬をもらいたい場合、医師が診療上、薬を出す必要がある場合には薬局で薬を買わなくてもよい」。この付帯条件によって、GHQと薬剤師会が意図した医薬分業は廃案同然となった。

 日本医師会は設立時から医薬分業に反対し、デモ行進まで行って医薬分業を阻止してきた。医師の技術料は低く抑えられ、医師の技術料を補うのが薬の薬価差益だったからである。例えば定価100円の薬を40円で仕入れ、患者に薬を処方すれば60円が病院の収入になった。薬価差益は病院に大きな利益をもたらし、病院の薬の購入価格が公定価格の10%で、病院の利益が90%の意味で「薬九層倍」(くすりくそうばい)と揶揄されるほど、医療機関は薬で利益を得ていた。

 このような事情から日本医師会は医薬分業に反対であったが、医薬分業の流れは昭和50年頃から次第に変化し、あれほど反対していた日本医師会が医薬分業を容認するようになった。「薬価差益が薬漬け医療の根源」と非難され、薬価差益が2年ごとに圧縮され利幅が小さくなったからである。10年間で薬価差益は3分の1以下になり、さらに薬価差益は減少し、薬剤の在庫や管理を考えると、薬価差益という言葉は死語になっている。厚生省は薬価差益を少なくする代わりに、医師の技術料を正当に評価すると日本医師会に約束したが、もちろんその約束は反故(ほご)にされている。病院の院内薬局は赤字部門になり、経営効率化のために薬剤部門を縮小し、院外薬局に処方箋を発行するようになった。このように薬で病院がもうかる時代は終わり、医薬分業が進むようになった。

 厚生省は「病院の薬局では利益が出ない仕組み」を作り、同時に「院外薬局へ処方箋を発行すれば利益が出る仕組み」を作って医薬分業を図った。診療所も同様で、薬を出していた診療所は減収となり、診療所も院外薬局への流れとなった。もちろん院外薬局の経営を支えるため、院外薬局を利用すれば医療費は高くなった。このように損得による診療報酬によって医薬分業を上手に誘導したのである。

 医薬分業では患者は直接病院から薬をもらえず、院外薬局に行くため二度手間になった。病院と同じ薬でも院外薬局の薬の値段は高く設定され、患者の負担金が増え、国民医療費も高くなった。利点としては処方内容が明らかになること、薬の待ち時間が短縮されること、専門家である薬剤師が薬を管理し、患者が安全に薬を飲めるように指導されることである。このような指摘は理解できるが、院外薬局の薬剤師は「病名を知らずに処方箋を受け取り、処方箋の内容を変更できない」のである。病名を知らない薬剤師がどれだけのことを患者に指導できるのか疑問が残る。

 医薬分業の利点や欠点は導入時に盛んに議論され、導入賛成派、反対派はそれぞれ自分たちが正しいと主張した。しかし実際には、患者の利便性よりも自分たちの損得計算による綱引きの議論であった。平成9年の厚生省のアンケート調査では、国民の52.6%が医薬分業に反対していた。国民医療費を増大させる医薬分業の導入は、患者のためではなく、医師の政治力を低下させるための厚生省の戦略だったと考えられる。

 国民の過半数が反対している医薬分業は、すでに50%を超えている。このように医薬分業が進んだのは日本医師会が医薬分業に傾いたからで、それは単に「病院が薬で儲からないシステム」を厚生省が作り上げたからである。

 日本と欧米の医薬分業の違いは、日本は医師に調薬権(薬剤を調合する権利)を残していることである。医師は処方箋を書くが、薬剤師は医師の書いた薬剤を勝手に変えることができない。つまり薬剤師は医師が書いた処方箋を別の薬剤に変更することができないのである。アメリカやフランスなど多くの国では、医師が指定した薬剤以外の代替調剤は認められているが日本では禁止されている。

 平成12年、この代替調剤を容認する医薬分業に反対し、韓国の90%の医療機関が一斉に1週間のストライキを行った。医師がデモ行進をして、激しい闘いが繰り広げられ、大韓医師会はストライキで医薬分業を認める代わりに9%の診療報酬の値上げを勝ち取った。

 平成8年に行われた厚生省の調査では、医薬分業は26.4%に過ぎなかったが、現在は5割以上の診療所が医薬分業を行っている。5割を超えた医薬分業を逆戻りさせることは不可能である。すべては欧米の医療体制を良しとする雰囲気の中で、厚生省の政策により医薬分業が誘導されたのである。もちろん患者の利益を念頭に置かない医薬分業に患者のメリットは少ないと思う。