乳児圧死事件

【乳児圧死事件】

 誰もが生きていくのに精いっぱいだった時代、昭和20年12月19日、東京・山手線の超満員の電車のなかで、母親に背負われた生後29日の乳児が圧死する事故が起きた。母親は長男の手を引き、赤ん坊を背負い、山手線で新橋から目黒までスシ詰めの電車に押し込まれ、帰宅した時には赤ん坊はすでに死んでいた。

 警察は「注意していれば死なせずにすんだはず」と、乳児の死を母親の過失として東京地検に送検した。このことが朝日新聞で報じられると、大きな社会問題として国民の関心を呼んだ。

 たとえ電車が満員であっても、託児所もない現実を問わずに母親の責任を問うことはできないとする意見。むしろ過失は鉄道当局にあるとする意見、母親の非常識を責める発言、このようにさまざまな意見が新聞社に寄せられた。

 この母親は、病人の世話をしながら2人の子供と借家住まいであった。借家からの立ち退きを迫られ、そのことを父親に相談するため、乳児を背負い山手線に乗ったのである。

 同様に、電車の混雑のなかで圧死する事件が日本各地で起きている。20年12月9日、高崎発上野行きの列車の中で駅員が人波に押され圧死。22年5月16日には、大阪の天王寺と東和歌山間の超満員の電車で10数人が負傷、1人が圧死している。

 終戦直後の交通事情は最悪の状態であった。空襲で車両は焼かれ、燃料となる石炭は不足し、レールは空爆による破壊と老朽化がひどかった。東海道本線ですら1日2往復しかなく、明治初期のダイヤに逆戻りしていた。このため列車が出発する数時間前から人々は改札口に並び、列車の網棚や屋根にまで人があふれ、殺人的な混雑であった。電車に乗る人たちの多くは買い出しが目的であった。

 誰のせいでもない、あの飢餓の時代が生んだ事件であった。結局、母親は情状酌量のうえ不起訴処分となった。