九大医学部アメリカ兵生体解剖事件

 日本が終戦を迎える数カ月前にこの怪事件が起きた。アメリカ軍の捕虜8人が九州帝国大学医学部解剖学教室で生きたまま解剖され、これが世にいう「九大生体解剖事件」である。
 戦争が激化し、日本全土が連日B29爆撃機による空襲を受けていた。この事件で犠牲になったB29爆撃機の飛行士は、昭和20年5月5日に大分県・竹田市上空に飛来、日本海軍の戦闘機・紫電改の体当たりを受け撃墜された8人の搭乗員であった。搭乗たちはパラシュートで着地し、捕らえられ捕虜となった。翌6日に、竹田市から汽車で福岡市の西部軍司令部に送られた。
 まだ童顔の若い兵士たちは、しばらくの間、捕虜収容所にいたが、5月17日から6月2日にかけて九大医学部解剖学教室に連行され、生きたまま解剖が行われた。実験材料として生体解剖が行われたこの事件は、中国大陸における731部隊(石井部隊)とともに日本医学史上最大の汚点である。
 終戦により、この事件の発覚を恐れた軍司令部と九大関係者は、8人の捕虜を広島の原爆で死亡したように隠蔽工作を行っていた。しかしながらGHQに1通の英文の匿名投書が届き、この生体解剖事件が暴かれることになる。昭和21年7月13日、突然GHQが九大医学部に車で乗りつけ、岩山福次郎第1外科教授を戦犯容疑で逮捕。さらに九大関係者5人が逮捕され、姑息な隠蔽(いんぺい)工作は通用しなかった。
 昭和21年5月に極東国際軍事裁判が始まったが、この事件は昭和23年3月から5カ月間にわたって横浜地裁で審議された。「生体解剖事件」にかかわった軍司令部16人、九大医学部関係者14人は軍事裁判にかけられ、罪状は生体解剖で搭乗員を死亡させたこと、死体を冒涜(ぼうとく)して丁寧に埋葬しなかったこと、虚偽の報告と情報妨害であった。
 昭和23年8月27日、横浜軍事裁判所第1号法廷において判決が下された。ジョイス裁判長は軍司令官・横山勇中将(59)、軍参謀・佐藤吉真大佐(49)、鳥巣太郎教授(39)、平尾健一助教授(39)、森良雄講師(年齢不明)の計5人に絞首刑を言い渡し、4人を終身刑、14人を3年から25年の重労働とした。6人は無罪になったが判決は厳しい内容だった。
 この「生体解剖事件」は、九大医学部第1外科の岩山福次郎教授が中心となって行われた。同第1外科出身の笹川拓・軍医見習い士官が生体解剖を発案、これを西部軍司令部が許可したとされている。しかしこの事件の真相は、笹川見習い士官が20年6月の空襲で死亡、首謀格の岩山福次郎教授が逮捕翌日に土手町刑務所で自殺したことから定かではない。
 岩山教授の遺書には「いっさいは軍の命令、責任は余にあり。鳥巣、森、森本、仙波、筒井、余の命令にて動く。願わくば速やかに釈放されたし、12時、平光君すまぬ」と書かれていた。生体解剖が軍部の命令だったのか、軍部からの依頼だったのか、岩山教授の意志がどの程度だったのかはわからないが、生体解剖は人道上決して許されるものではない。
 この事件が起きた終戦4カ月前の戦局は、米軍が沖縄を占領し、福岡はB29の空襲により連日甚大な被害を受けていた。食料は乏しく、大本営は「捕虜を適当に処理せよ」と指令していた。この「適当に処理せよ」の言葉が生体解剖の引き金になった。米軍捕虜の対処に困っていた西部軍は、九大医学部出身の笹川見習い士官が立案した生体解剖に同意した。破滅寸前の日本、焦土化した福岡、この末期的な戦局の中で、米軍爆撃機の飛行士を戦争捕虜としてではなく、無差別爆撃を行った戦争犯罪者として扱ったのである。
 岩山福次郎教授に「平光君すまぬ」といわれた解剖学の平光吾一教授はこの事件を振り返り、「日本国土を無差別爆撃し無辜(むこ)の市民を殺害したのだから、捕獲された敵国軍人が国土防衛を任ずる軍隊から殺されるのは当然と思った」と文藝春秋(昭和52年12月号)で当時の社会背景を述べている。
 しかし、たとえ生体解剖が軍部の命令であったとしても、「生きたまま解剖する」非人道的犯罪が、人間の生命を守るべき医学部構内で行われたことに戦慄を覚える。それは法律以前の罪、道徳、宗教、倫理上の罪であった。
 裁判で処罰された者が29人、生体解剖に動員された医師が延べ40人、この犯罪は医学部の中で組織的に行われた。人命を預かる医師集団による犯行がなぜ組織的に行われたのか、事件にかかわった人たちを非人道的と非難し、糾弾するだけではこの事件の本質には届かない。
 戦時体制下の大学は、軍部に協力することが国家総動員法で義務づけられ、軍部に協力しない教官は罰せられた。九大は西部軍司令部の指揮下に置かれ、九大総長は海軍大将・百武源吾で、医学部教授は陸軍の嘱託の立場にあった。もちろん研究のテーマは軍用医学で、大学職員は軍隊同様に3階級が定められ、各階級に応じて挙手礼が行われていた。
 大学医学部は教授を頂点とする封建組織で、上下関係は軍隊と同じであった。この事件を理解するには、軍司令部や教授の命令は絶対で、彼らに逆らえない状況下で否応なく組み込まれたものと考えたい。戦争という異常な渦の中で、医師たちは医学のため、日本のためと自分に言い聞かせて解剖に応じたのであろう。
 逮捕後に自殺した第1外科の岩山福次郎教授は、生体解剖についての記録を残していない。そのため解剖の目的、解剖の内容は関係者の口供書から推測するだけである。岩山教授の目的は何だったのか。生体実験によって、医学の可能性を探りたい気持ちが強かったのだろうか。
 戦時中の医学研究は軍用医学で、戦争に役立つ研究を行うのが医学部の任務であった。そのため「戦争に傷ついた日本国民、民間人を救うという大義名分」が動機だったのであろう。日本は連日空襲を受け、外傷治療に必要な輸血が極端に不足していた。輸血に代わる代用血液が、当時の軍用医学の重要な課題になっていた。岩山教授の専門は代用血液で、彼の関心も当然そこにあったと思われる。捕虜に行った生体実験も、血液の代用として海水を体内に注入する実験が主であった。
 人間の血液の代わりに食塩水が使用できるのか、肺はどの程度切除できるのか、てんかん療法として脳切開の効果はどうなのか。これらの実験が若いアメリカ兵捕虜を相手に解剖学教室で行われ、その有効性が調べられた。
 解剖は計4回行われ、1回目は全肺摘出と海水の代用血液、2回目は心臓摘出と肝左葉切除、3回目はてんかんの脳手術、4回目は代用血液と縦隔手術、肝臓摘出であった。アメリカ兵の生体解剖は麻酔下で行われたが、解剖は病院の手術室ではなく、解剖学教室の解剖台の上で行われた。アメリカ兵は手術中、もしくは手術直後に死亡した。
 この岩山教授が行った実験が、医学的にどの程度意義があったのかは不明であるが、捕虜を実験動物と同様に扱ったことは事実である。岩山教授は731部隊が中国で行った人体実験の資料を入手しており、731部隊と同じ考えが教授の根底にあったと思われる。
 当時、医学部第1外科の助教授だった鳥巣太郎(判決時は教授)は、第1回目の生体解剖の後、岩山教授に解剖の中止を進言している。この進退をかけた鳥巣助教授の進言は受け入れられず、鳥巣助教授は教授に逆らい3例目以降の解剖には参加していない。しかし皮肉なことに、岩山教授の自殺により、裁判では鳥巣太郎がこの事件の責任者として絞首刑の判決を受けることになった。
 この事件には多くの医師たちが関与していた。生きたまま解剖台に乗せられたアメリカ兵を前に、医師たちは何を思いメスを手にしたのだろうか。生々しく脈打つ心臓を見つめながら、血液を抜き、食塩水を注入し、肺を切除し、医師たちはどのような思いだったのだろうか。
 進駐軍は生体解剖事件に加え、解剖された捕虜の肝臓を宴会で試食した疑惑についても、激しい取り調べを行った。偕行社病院長ら5人が米軍検察官の拷問に近い取り調べを受け、自白の口供書にサインをしたが、この人肉試食疑惑は証拠不十分で5人とも無罪になっている。人肉試食事件は功を急いだ米軍調査官のでっちあげとされている。
 生体解剖事件は、日本の医学史上最大の猟奇事件である。医師の良心さえも軍国主義の渦に飲み込まれたのである。軍部、医学部教授といった権威主義のなかで、医師たちは最大の恥部をさらした。
 生体解剖事件の判決から2年後の昭和25年10月に朝鮮戦争が勃発。マッカーサーは政治的配慮からこの事件の関係者全員を減刑とした。その結果、絞首刑も減刑され、死刑囚はいなくなった。さらに講和恩赦により、なし崩し的に釈放となった。鳥巣教授も絞首刑を免れ、昭和29年1月に出所している。鳥巣教授は平成2年に85歳で他界したが、人間としての罪を負い、自責の念から逃れることはなかった。
 この事件は岩山教授を中心とした非人道的犯罪と言えるが、むしろ恐ろしいのは学問の場である大学が、「人間は状況によって、どのような行為をも行い得る存在であること」を証明していることである。普段は上品そうなことを口にしていても、その時代の状況、集団の雰囲気に容易に流されるのが人間の恐ろしさである。
 現在、現役で働いている医師たちはこの事件を知らないでいる。この事件について当時の関係者を責める気持ちにはなれない。むしろこの事件が、生命を扱う多くの医師たちの記憶から薄れ、この事件が残した教訓が忘れ去られることを恐れる。
 生体解剖事件と同様、日本の医学界が残した大汚点のひとつが旧関東軍の731部隊である。石井四郎軍医を中心とした731部隊は、戦後その存在は闇の中に隠されていたが、人体実験で3000人の生命を奪ったとされている。アメリカは731部隊の軍医たちを、実験データと引き換えに不問としたが、731部隊の犯罪は生体解剖事件同様に罪深いものである。
 生体解剖事件は遠藤周作が小説「海と毒薬」として昭和32年に「文学界」に発表。翌年4月に文芸春秋新社から刊行された。ちなみに「海と毒薬」のタイトルは、遠藤が見舞客を装って九大病院の屋上に行き、そこから海を眺めながら思いついたとされている。
 「海と毒薬」は熊井啓監督により映画化され、昭和62年にベルリン映画祭銀熊賞審査員特別賞を受賞している。この事件の詳細については、上坂冬子の著書「生体解剖」(中央公論社、昭和54年)が最も詳しく信頼性が高い。上坂冬子はアメリカ国立公文書館からこの事件の公判記録を入手して本を書いたとされている。