主婦連の結成

【主婦連の結成】昭和23年(1948年)

 昭和23年9月15日、東京・原宿の社会事業会館で、「不良マッチ退治主婦大会」が行われた。現在では信じられないことであるが、当時のマッチは1日1人何本と決められた配給品で、それでいて配給されるマッチは火のつかない粗悪品ばかりだった。業者が優良マッチをヤミに流して儲けていたからである。

 「不良マッチ退治主婦大会」は不良マッチに怒った主婦たちが開いた大会で、会場には主婦たちが集めた不良マッチの箱が山のように積まれていた。この大会は昭和22年の参議院選挙で当選した奥むめおが主催し、主婦たちに現状を訴えた。

 会場の壇上には役人やマッチ業者が並び、主婦たちは火のつかないマッチの配給を鋭く追及。その結果、不良マッチを配給しないこと、マッチの配給制を解除することを役人に約束させた。主婦たちの団結により大会は大成功に終わり、この大会をきっかけに奥むめおを会長とする主婦連合会(主婦連)が結成された。

 主婦連の活動は身近な生活上の問題をとらえ、主婦の声を政治に反映させることであった。設立当時の活動として、配給物質の遅れ、物価高、ヤミ物資への抗議がなされた。主婦連の結成により生活を守ろうとする主婦の発言が政治に反映されていった。その意味で、主婦連の結成は消費者運動のはしりだった。

 主婦連を有名にしたのが「おしゃもじデモ」であった。白いかっぽう着を着た主婦たちがプラカードの代わりに大きなしゃもじを先頭にデモ行進することから「おしゃもじデモ」と愛称された。おしゃもじは主婦連のシンボルとなり、主婦連を「おしゃもじ会」と呼ぶこともあった。

 おしゃもじを先頭に主婦たちは官公庁や企業に押しかけ、米価、電気料金、牛乳、銭湯などの値上げ反対、有害着色料の使用禁止、商品の品質向上など、生活改善のためのさまざまな運動を行った。それは台所と政治を直結させる運動であった。昭和30年に「暮らしを守る消費者大会」を開き、消費者という概念をつくった。

 生活を守る主婦パワーが炸裂して主婦連が創設されたが、主婦が立ち上がることは戦前には想像できないことであった。この主婦連に先立ち、大阪では昭和20年10月に比嘉正子ら主婦15人が「米よこせデモ」を契機に「主婦の会」を発足させている。また日本婦人有権者同盟、日本婦人団体連合会、婦人民主クラブ、新日本婦人の会などが日本各地で誕生した。このように婦人の自主的活動が高まったのは、婦人の参政権が実現し、昭和21年の総選挙で女性代議士39人が当選、女性の地位が向上したことによる。

 日本最大の婦人団体である主婦連は、無党派の主婦たちで構成され、現在でも、身近な生活上の問題から社会問題まで地道な活動を行っている。商品テストに基づき、不良商品追放運動も行っている。

 東京・四谷駅前に主婦会館が建ち、主婦連の活動の中心になっている。主婦会館には独自の日用品試験室が備わり、科学データを重視した消費者活動が行われている。さらに核兵器禁止や軍縮などの平和活動も行っている。