下山事件

【下山事件】

 前述した3つの冤罪事件とは内容を異にするが、国鉄総裁が東京の常磐線の線路上で死体となって発見された「下山事件」の鑑定において、古畑教授は死後轢断の他殺説をとり、慶応大学医学部・中館久平教授は生体轢断の自殺説を主張し、その科学的論争が法医学の非科学性を暴露することになった。

 下山事件とは昭和24年7月5日、下山定則・初代国鉄総裁(49)が登庁途中に立ち寄った東京・日本橋三越本店から消息を断ち、翌6日午前零時25分頃、足立区五反野の常磐線の線路上で貨物列車にひかれ、バラバラの礫死体で発見された事件である。

 当時はGHQ経済顧問のジョセフ・ドッジが提案したドッジ・ラインの強行によって、国鉄当局は第1次人員整理として3万700人の首切りを前日に発表していた。下山総裁の死が、他殺なのか自殺なのかが注目の的になった。

 検察と警視庁捜査2課(知能犯を扱うが、当時は公安事件も担当)は他殺説、捜査1課(強盗、殺人を扱う)は自殺説をとり、新聞も他殺(朝日)、自殺(毎日)と分かれて注目を集めた。自殺ならばその動機は何なのか、他殺ならば犯人は誰なのか。他殺か自殺かは大きな政治的問題を含んでいた。東大の「死後轢断の解剖所見」を根拠とする他殺説は、犯人の濡れ衣をかけられた共産党や労働組合に大きな打撃を与えることになった。

 下山総裁が死体で発見された9日後に無人電車が暴走する「三鷹事件」、さらに1カ月後には旅客列車が脱線転覆する「松川事件」と怪事件が相次いだ。この3つの事件が当時の労働運動に与えた影響は大きかった。吉田内閣の増田甲子七(かねしち)官房長官は「三鷹事件、松川事件は共産党の陰謀である」と談話を発表。この事件により国鉄労働組合の大量解雇に反対する運動は力をそがれることになった。