ハンセン病患者殺人事件

ハンセン病患者殺人事件 昭和25年(1950年)

 かつてハンセン病はらい病と呼ばれ、伝染性の不治の病とされていた。明治40年に「らい予防法」が設定され、平成8年に同法が廃止されるまで、患者たちは90年以上にわたり強制的に隔離されていた。

 このハンセン病患者の隔離政策は、ハンセン病の伝染予防を目的としたもので、ハンセン病と診断された患者は一生涯隔離されることになった。熊本県菊池郡水源村(現菊池市)で起きたハンセン病患者殺人事件は、ハンセン病患者への差別と偏見が生んだ悲劇であった。

 昭和25年の暮れ、農業を営む藤本松夫(29)あてに役所から1通の通知書が届いた。通知書には、「藤本松夫は、らい病患者として翌年2月7日より国立療養所菊池恵楓園に収容する」と書かれていて、それは通知書というよりは命令書だった。

 自覚症状のない松夫はその通知に驚き、福岡や熊本の大きな病院で診察を受けたが、ハンセン病の診断はつかなかった。このようにハンセン病の診断が不明確なまま松夫は療養所に収容されることになった。当時は、らい病の宣告を受けることは刑務所に入所するに等しいことであった。

 松夫がらい病の烙印を押されると、叔父、叔母は世間をはばかり藤本に自殺を迫った。妻は「山に行って来る」と言って家を出たまま二度と戻ってこなかった。家族でさえこうである。ハンセン病とされた松夫には周囲の差別と偏見が待っていた。松夫は世間から隔離されることになった。

 熊本県は、国策であるハンセン病患者の発見と隔離によるハンセン病根絶運動に力を入れていた。そのため県は菊池恵楓園のベッド数を1000床に増床したが、ベッドはなかなか埋まらなかった。せっかくのベッドを空のままにしておくわけにはいかない。そのため、国と県は国立療養所に収容する患者の掘り起こしを行った。そのため県は各村から1人ずつ患者を提供するように通達を出していた。

 水源村も患者掘り起こしの協力を求められ、そのため村役場衛生係の藤本算(はかる、49)は、最近体調が悪いといっていた藤本松夫をハンセン病とする虚偽の報告書を県衛生課に出したのである。

 水源村には、実は1人の重傷ハンセン病患者がいた。症状はハンセン病として確実であったが、患者は村の有力者の家族だったため、その患者の代わりに指名されたのが松夫であった。算は収容する患者として松夫を県衛生課に申告した。後にこの経過を知った松夫は、自分の人生と家族を破壊した算の悪意と密告を恨むことになる。

 昭和26年8月1日深夜2時頃、窓を開けて寝ていた算の家にダイナマイトが投げ込まれ、ダイナマイトは完全に爆発しなかったため、算と次男が1週間から10日のけがを負うにとどまった。このとき算は松夫の恨みを気にしていたので、警察の調べで松夫が犯人であると訴えた。

 ちょうどその日は、松夫は菊池恵楓園から外出の許可がでていた。松夫はアリバイを主張したが、それを立証するのは家族だけであった。近親者のアリバイは認められず、松夫は殺人未遂、火薬取締法違反の容疑で逮捕された。

 松夫はそれまでダイナマイトを扱ったことがなかった。またダイナマイトの入手経路も不明だった。しかも事件直後の家宅捜査では見つからなかった導火線や布きれが、経過不明のまま押収物として裁判所に提出された。この物的証拠が松夫の犯行の決め手となった。

 昭和27年6月9日、熊本地裁判事は菊池恵楓園に出張し、松夫に懲役10年の判決を言い渡した。判決では「算が松夫を患者として県衛生課に報告したことへの逆恨み」を犯行動機とした。これに対し、松夫は無実を主張し、福岡高等裁判所に控訴したが棄却された。物的証拠は家宅捜査で見つかった導火線と布きれのみであったが、偽装された疑いが強かった。ダイナマイトが完全に爆破しなかったことから、算による自作自演がうわさされた。

 松夫は刑務所ではなく、菊池恵楓園内に設けられた「熊本刑務所菊池特別拘置所」に身柄を拘束された。だが判決から1週間後、松夫は拘置所から脱走した。脱走の動機は、「ひとり娘に会ってから死のうと思った」ということで、もし自分が死ねば、娘も家族も、ハンセン病の家族とは言われないと思ったからである。懲役10年よりも、ハンセン病の偏見のほうが恐ろしかった。

 しかし地元ではハンセン病患者の脱走報道で、大騒ぎとなった。延べ300人の警察官が連日動員され、捜査網が敷かれた。松夫は家族と会って自殺しようとしたが、実家の周囲には捜査網が張られ近づけなかった。脱走から3週間が経過した7月7日、厳戒態勢のさなか、村の路上で藤本算の刺殺死体が発見された。算は鋭利な刃物で刺され、「藤本松夫が逆恨みから藤本算を殺した」という筋書きができ上がった。遺体発見直後から、松夫の犯人説に異を唱える者はいなかった。警察は松夫の恨みによる犯行と断定した。

 7月13日、警察は松夫を発見。逃げる松夫にピストルを発射、松夫は単純逃走と殺人の容疑で逮捕された。ハンセン病の感染を恐れた捜査員は、松夫のピストルによるけがを治療しないままでいた。松夫は釈明の機会を与えられず、捜査員は一方的に自白を迫った。逮捕から7時間後、松夫は苦痛のうちに殺人を自白した。医師もハンセン病の感染を恐れて傷の治療をしなかった。

 ところが取り調べが進むうちに、算を刺殺した凶器が鎌から刺身包丁、短刀へと二転、三転し、決め手となる凶器は発見されなかった。また松夫の着衣からも血液は検出されなかった。鑑定者は「水で洗い落とした場合、血痕は水に溶けて消えてしまうので、血痕が検出されなくても不思議ではない」と意見を述べた。また「着衣は不潔で、何らかの物理学的な、あるいは雑菌繁殖の影響によって血痕が付かなかった」との理由をつけた。

 もちろん鑑定は、松夫を犯人に仕立てるために無理にこじつけたものである。厳戒態勢の村の山道で、松夫が人を殺せるほど余裕があったかどうかは問題にされなかった。

 裁判は「国立療養所菊池恵楓園」の中の特別法廷で開かれたが、裁判が始まると松夫は一貫して無罪を主張した。十分な証拠がないことから冤罪の可能性があった。裁判官はハンセン病の感染を恐れ、ゴム手袋をして1mの長さのハシを使って証拠物件を調べた。法廷で松夫が検察側の提出した証拠物件を確認しようとしても、感染の恐怖から検事はその機会を与えなかった。昭和28年8月29日、傍聴人のいない特別法廷で松夫の死刑判決が言い渡された。昭和29年12月29日に福岡高裁で控訴が棄却され、昭和32年8月23日には最高裁への上告も棄却され死刑が確定した。

 この裁判の経過を知った菊池恵楓園の患者から不当判決の声が上がった。松夫が有罪か無罪かは別として、正当な裁判を受けられなかったことへの抗議であった。菊池恵楓園の患者にすれば、この差別捜査、差別裁判は他人事ではなかった。この事件を知った多くの人たちが再審を求めて活動を行い、支援の輪が全国に広がっていった。

 自民党から共産党まで、多くの文化人、宗教人、学者が集合し、「藤本松夫を死刑から救う会」が結成された。当時、松川事件や八海事件、菅生事件など冤罪や誤判が相次いでいたことから、この事件も「ハンセン病患者への差別と偏見が産んだでっち上げ事件」とみなされ、国民の関心を呼んだ。

 再審請求は第3次請求までなされたが、松夫の期待は裏切られ続けた。当時は死刑反対運動が盛り上がっていた時期で、法務省はこの動きを封じ込めるため、死刑執行の書類を次々に法務大臣に提出して執行命令のサインを迫った。特に再審活動の激しかった帝銀事件の平沢死刑囚と藤本死刑囚のどちらかを早く執行しようとした。

 松夫は恵楓園につくられた特設拘置所で日々を過ごしていた。ところが昭和37年9月14日、松夫は恵楓園から福岡刑務所に移されることになった。松夫は喜んだ。恵楓園から福岡刑務所に移されることは、ハンセン病の病原菌が無くなったことを意味していたからである。自分が長年夢みてきた一般処遇への昇格と捉えたのである。

 藤本松夫は同日午前7時10分、4人の看守とともに福岡刑務所に向かった。福岡拘置所に到着したのは午前11時ちょっと前だった。ホットしていた松夫を待っていたのは突然の死刑執行であった。

 松夫は処刑の直前まで、処刑されるとは思っていなかった。福岡拘置所で背広を着た教育部長が入ってきて、「お別れですね」と手を握られた。松夫は何のことか分からず、「先生は転勤されるのですか?」と言った。ようやく事態を知った松夫は、「先生、ひどい。これはだまし討ちだ」と言って死刑台に向かった。同日午後1時17分、遺書を書く時間も与えられずに死刑が執行された。

 この突然の死刑執行は、まさにだまし討ちといえた。後にわかることだが、松夫の死刑執行命令書に法務大臣が判を押したのは執行3日前のことで、第3次再審請求は執行前日にひそかに却下されていた。

 死刑から3時間後、熊本県に住む弟のもとに、「14日、松夫死す、15日12時までおいでこう。印鑑持参のこと、福岡刑務所」との電報が届いた。藤本松夫、享年40。ハンセン病への偏見と差別が生んだ悲劇であった。