ノーモア・ヒロシマ

ノーモア・ヒロシマ  昭和20年(1945年)

 昭和20年8月6日午前8時15分、アメリカのB29爆撃機「エノラ・ゲイ」に搭載された原子爆弾が広島市上空9600メートルから投下された。この1個の原子爆弾「リトルボーイ」が広島市600メートル上空で炸裂、一瞬の熱線、爆風、放射線により広島市民40万人のうち14万人(誤差1万人)が死亡し10万人が負傷した。

 3日後の8月9日午前11時2分、長崎市にも原爆が投下され、28万人が被爆し7万人(誤差1万人)の死者と多数の負傷者を出した。この広島と長崎を一瞬にして焦土と化した原爆により、真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争は終わりを迎えた。

 原子爆弾の投下は、ポツダム宣言の受諾を拒否した日本政府を無条件降伏に追い込むためとされている。原爆投下は戦争の早期終結に必要だったとアメリカは主張している。このアメリカの主張の正当性は別として、原子爆弾は20世紀最大の惨禍をもたらし、ノーモア・ヒロシマは核兵器廃絶のスローガンとして、人類の歴史に深く刻まれることになった。

 広島の原爆投下は、大本営発表として投下翌々日の新聞紙上で報道されている。新聞に掲載されたが、その記事はごく目立たない小さな扱いであった。広島がB29爆撃機の攻撃により相当の被害を受けたこと、アメリカが新型爆弾を使用したらしいことを簡単に述べたにすぎなかった。

 原子爆弾による被害状況は軍部の規制により報道されず、原子爆弾であることは秘密にされ、新聞では「新型爆弾」と表現されていた。日本人科学者が原爆投下直後に現地調査を行ったが、その資料は占領軍によって没収され広島の惨状は報道されなかった。

 この悲惨極まりない原子爆弾の悲劇を、いち早く世界に報道したのは、イギリスの新聞「デイリー・エキスプレス」紙の記者であったウィルフレッド・バーチェット(1911〜83)であった。バーチェットは9月2日に行われる「戦艦ミズーリ号での日本降伏の調印式」の取材に行く予定であったが、調印式当日、バーチェットは病気と偽り、ひそかに広島への列車に飛び乗った。焦土と化した東京から広島までおよそ20時間の道のりである。バーチェットが広島に到着したのは、終戦から1カ月後の9月3日早朝のことであった。

 列車から降りたバーチェットは、広島の惨状を目にした。原爆投下から1カ月が過ぎているのに、日々、多くの人たちが死んでいった。バーチェットはアメリカ軍が秘密にしていた放射能障害、ケロイド状の火傷、脱毛、発熱、内出血など痛々しい状況を目にした。

 9月5日のデイリー・エクスプレス紙の1面をバーチェットの記事が飾った。それは原爆の悲劇を世界に向けての初めての報道だった。バーチェットの文章は「私はこれを世界への警告として書く」に始まり、最後を「ノーモア・ヒロシマ」の言葉で締めくくった。

 「私はこれを世界への警告として書く。最初の原子爆弾が街を破壊し、また世界を震駭(しんがい)させ、投下30日後の広島では、人はなおも死んでゆく。それは神秘的な恐ろしい死である。あのときは無傷であったのに、原爆がもたらした何ものかによって人々はさらに死んでゆく。爆撃を受けた広島は都市の様相を呈していない。怪物大の蒸気ローラーが通り過ぎ、木端微塵に抹殺壊滅したようだ。……広島に着くと、ほとんど建物らしいものが見えない。これほどひどい人間の破壊を見ると、身体が空っぽになるような気分になる。……原爆が落ちたとき、幸いにも傷を負わなかった者が、今や気味悪い後遺症で死んでゆく。はっきりとした原因もなく衰弱し、食欲もなく、髪が抜け、青い皮疹が現れ、口から出血していった。注射を刺した針穴から皮膚が腐りはじめ、いずれの患者も死亡した……ノーモア・ヒロシマ」

 バーチェットは広島の惨状を世界に発信したが、占領軍は猛烈な口調でバーチェットのレポートを否定した。「広島の犠牲者は原爆直後に死んだだけで、広島の廃墟から放射能は検出されていない」との記事が、9月13日の「ニューヨーク・タイムズ」紙に掲載された。

 バーチェットは記者登録を抹消され、日本から退去処分となった。その後、バーチェットは中国革命、朝鮮戦争、ベトナム戦争などの取材を行い、さらにポルトガル、アンゴラ、アフガニスタンなどの革命や紛争を精力的に報道した。著書として「広島・板門店・ハノイ」(昭和47年・河出書房新社)がある。

 このバーチェットに数時間遅れて、ニューヨーク・タイムズなどの取材団20人が広島に入った。その一員だったUP通信の従軍カメラマン「スタンレー・トラウトマン」は広島の惨状を撮影している。トラウトマンが撮影したと確認されている原爆写真は広島が10枚、長崎が9枚の計19枚が残されている。原爆の惨状は日米両国ともに極秘事項で、取材団は米軍の厳しい監視下に置かれていた。ところがトラウトマンが撮影した広島の原爆写真が9月7日、長崎の原爆写真は9月17日にアメリカで公表された。

 アメリカ政府は、原爆投下を真珠湾攻撃への報復、若いアメリカ軍兵士の生命を救うため、ソ連の参戦を防ぎ、無条件降伏をさせるための手段とした。しかし、アメリカの人々はトラウトマンの写真に驚き、原爆反対の国際世論が沸き上がった

 日本人が原爆被害の写真を見られるようになったのは、日本から占領軍が引き揚げた昭和27年のことである。同年8月6日、雑誌「アサヒグラフ」は原爆被害の写真を初めて公開。写真で見る原爆の悲劇はまさに地獄絵だった。黒く焼けた遺体、被害者のケロイドの惨状、破壊された街並が掲載された。原爆特集への読者の反響はすさまじく、26ページのアサヒグラフは52万部を即日完売、増刷分も含め70万部を売り上げた。

 広島、長崎に投下された原子爆弾は20万人以上の死者だけでなく、残された生存者にも後遺症をもたらした。発がんや遺伝的影響の恐れ、精神的苦痛や不安など、その被害は生活全般に及んだ。ケロイドなどの後遺症のため婚期を逸した若い女性は、「原爆乙女」「原爆娘」と呼ばれ多くの同情を集めた。

 昭和50年の被爆者手帳所持者数は35万7000余人となっているが、他人に知られることを恐れ、被爆の申請をしない者が多くいた。広島市、長崎市は被害の調査や検診、専門病院の建設などに取り組んだが、「被爆者と一般戦災者とは区別できない」との理由から国からの保護はなかった。

 原爆が投下されてから12年後の昭和32年、やっと「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」が施行された。この法律は、原爆投下時に爆心から4キロ以内にいた者、投下から2週間以内に爆心近くにいた者が対象となり、年2回の健康診断と必要な治療の無料化がうたわれていた。昭和43年からは、被爆者の福祉を重要視した「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」が制定された。

 被爆10年目の昭和30年8月6日、広島市で平和記念式典が行われ、平和記念公園に広島平和記念資料館が完成した。資料館では被爆によって焼けただれた衣類や食器などが展示され、被爆の恐ろしさを後世に残すことになった。昭和30年8月8日には、長崎市の平和記念公園に平和記念像が完成し除幕式が行われている。また世界各地で平和にちなんだ行事が行われた。

 広島、長崎の原爆投下は人類の歴史上最大の惨事である。このことを裏付けるように、AP通信が西暦2000年を記念して行った「報道機関による20世紀10大ニュース」では、原爆投下はどの報道機関でも上位を占めた。

 AP通信の20世紀20大ニュースでは、第1位は米軍による広島、長崎への原爆投下(1945年)、第2位がロシア革命(1917年)、第3位がナチス・ドイツのポーランド侵攻による第二次大戦開戦(1939年)となっている。この20大ニュースは、世界の各報道機関が1位(10点)から10位(1点)まで順位をつけて投票した結果で、71社のうち15社が原爆投下を、10社がロシア革命を、12社が第二次世界大戦開戦を1位に選んでいる。

 参考までに、20世紀の20大ニュースの4位以下は次の通りである。4位=米国宇宙飛行士の月面歩行(1969年)▽5位=ベルリンの壁崩壊(89年)▽6位=ナチス・ドイツの敗北(45年)▽7位=オーストリア皇太子暗殺で第一次大戦開戦(14年)▽8位=ライト兄弟の飛行機発明(03年)▽9位=ペニシリンの発見(28年)▽10位=コンピューターの発明(46年)▽11位=アインシュタインの特殊相対性理論(05年)▽12位=ケネディ米大統領暗殺(63年)▽13位=エイズウイルス出現(81年)▽14位=ウォール街の株暴落(29年)▽15位=ソ連崩壊(91年)▽16位=国際連合の設立(45年)▽17位=ソ連の人工衛星打ち上げで米ソ宇宙開発競争(57年)▽18位=日本の真珠湾攻撃(41年)▽19位=共産党の中国支配(49年)▽20位=イスラエル建国(48年)。

 アメリカは広島、長崎に原子爆弾を投下したが、原子爆弾はドイツや日本でも研究されていた。ドイツでは物理学者ハイゼンベルグが中心となり、日本では理化学研究所の仁科研究室が軍の命令で研究を行っていた。日本では理論上の研究は進んでいたが、ウランがなかったために開発が遅れた。このことから広島、長崎に原爆が投下されたのは、「ドイツや日本よりもアメリカの核開発のほうが早かっただけ」と冷静に分析することもできる。

 アメリカが日本に原爆を投下したのは、日本人が黄色人種だったとする説があるが、日本人が黄色人種であろうがなかろうが、もしドイツや日本の核開発がアメリカより進んでいれば、当然アメリカが最初の被爆国になったはずである。このように原爆の開発は歴史の流れによるもので、「アメリカが原爆を投下し、日本が被害を受けた」とする一方的な加害者、被害者の立場ではなく、原爆を人類共通の過ちと認識すべきである。アメリカの原爆投下に刺激を受け、昭和24年にはソ連が、27年にはイギリスが、35年にはフランスが、39年には中国が核実験に成功している。

 「ノーモア・ヒロシマ」は日本人のみならず、世界の人々の関心事となり、核戦争の禁止は世界共通の願いとなった。「ノーモア・ヒロシマ」の言葉は平和と核兵器の廃止を願う人類の象徴となった。米ソの冷戦がソ連崩壊によって終結したあとも、インド、パキスタンなどで核実験が繰り返され、その度にノーモア・ヒロシマの平和を願うスローガンが世界に響きわたった。

 原子爆弾への国際情勢は変わったが、核兵器が存在する以上、核兵器の脅威はなくならない。平成7年8月、広島に原爆を投下したB29米軍爆撃機「エノラ・ゲイ」がスミソニアン航空宇宙博物館で一般公開されたが、この時、「ノーモア・ヒロシマ」と書いた垂れ幕を掲げ、抗議行動を行った反核活動家ら約20人が逮捕されている。

 ノーモア・ヒロシマは日本だけでなく、それ以上に重要な言葉として世界の人々に知られている。「ノーモア・ヒロシマ」は日本での言い方で、欧米では当然のこととして「ノーモア・ヒロシマズ」と長崎を含めた複数形で用いられている。