ストリップとトルコ風呂

ストリップとトルコ風呂  昭和22年(1947年)

 戦後の風俗の代表はストリップであった。昭和22年1月15日、新宿の帝都座での「額縁ショー」が第一号で、「額縁ショー」とは胸と腰を薄い布で隠した半裸の女性が、舞台の中央に置かれた額縁の中でポーズを取るものであった。額縁の中で名画そっくりのポーズを再現するだけのもので、しかも数秒間スポットライトが当たるだけの演出であったが、禁欲状態の庶民にとっては十分な刺激があった。「額縁ショー」はたちまち話題となり、帝都座5階入口から路上まで「押すな、押すな」の列が出来るほどであった。

 昭和25年ころから、ストリップ嬢が本格的に服を脱ぐようになり、浅草の公園劇場のジプシー・ローズが名を売るようになった。ジプシー・ローズは版画家・棟方志功が「神のような肉体」と絶賛したほどで、ストリップは黄金時代を迎えた。昭和39年には特出の関西流のストリップが大阪から東京へ進出。全裸ストリップは大変な話題を呼んだが、大阪では逮捕されなかったのに、東京では逮捕となった。かつてストリップといえば浅草であったが、浅草は関西流に押され下火になった。全裸ストリップは昭和41年7月の風営法の改正で禁止になったが、昭和45年に大阪万博が終わると取り締まりが緩和され、大阪では事実上解禁され、東京でもしだいに過激になった。

 昭和40年代を代表するストリップ嬢といえば一条さゆりである。過激な露出で映画化されるほどの爆発的な人気があった。昭和46年3月には大阪地裁で懲役4ヶ月、執行猶予2ヶ月となったが、権力に挑戦するかのように、その後も9回検挙されている。一条さゆりは逮捕の度にその名を上げていった。なお「さゆりスト」とは一条さゆりのシンパのことで、吉永小百合ファンの「サユリスト」と区別されていた。昭和50年代には客がダンサーと舞台上で本番を行う生板ショーなるストリップが流行した。戦後から今日まで、多くのストリップ嬢が生まれたが、ストリップ劇場の幕間で行われた漫才やショーからもスターとなったお笑い芸人が多い。その代表がビートたけしである。

 戦後の風俗としてトルコ風呂があるが、日本初のトルコ風呂「東京温泉」が、昭和26年4月1日に東京・銀座東1丁目松坂屋の裏で開業した。トルコ風呂の名前はトルコのターキッシュバスにヒントを得たもので、地上4階地下1階のビルには、食堂、バー、小劇場など高級ホテル並みの設備を備え、紳士にとっての社交の場、歓楽のデパートであった。

 「東京温泉」ではミストルコと呼ばれる女性がブラジャーとショートパンツ姿で客のマッサージを行ったが、サービスそのものは健全で、後に一般化する性的サービスは行われていない。入浴料は大衆浴場が100円、個室は600円だった。当時の銭湯が12円だったことから、決して安い値段ではなかったが超人気となった。「憲政の神様・尾崎行雄」がにこやかにサービスを受けている写真が毎日新聞に掲載されている。

 このようにトルコ風呂は健全なサービス業であったが、昭和33年に売春防止法が施行されると、トルコ風呂は赤線に代わって性的サービスを行うようになる。トルコ風呂は性風俗の主流となり、昭和58年の統計では日本全国で1695軒となった。トルコ風呂では堂々と売春を行っていたが、銭湯と同じ公衆浴場法よって風俗ではないとされ、警察はその実態を調べることも取り締まることしなかった。

 昭和59年、東京大学地震研究所にトルコ共和国から留学してきた青年(30)が、「トルコ人というと、日本人はスケベそうな顔をする」、「トルコ風呂はトルコ国家の名を汚す名前である」と渡部恒三厚生大臣に直訴し、名称の変更を求めた。トルコ風呂業界は公募した2200通のなかにはスペシャルバス、ボディーランドリー、湯郭(ゆーかく)、浮世風呂などの名前があったが、最終的にはソープランドと名称を変えた。もちろん名前が変わっても実態は変わっていない。