シラス食中毒事件

シラス食中毒事件 昭和25年(1950年)

 昭和25年10月21日、大阪市南部、堺市、岸和田市、泉佐野市を中心とした泉南地方で、大規模な食中毒事件が発生した。患者は激しい腹痛、下痢を繰り返し、症状のあった318人のうち2日間で20人が死亡する凄惨(せいさん)なものとなった。

 患者はいずれも行商人から買ったシラス干しを食べていたので、シラスが原因であることはすぐに想像できた。シラスとは「カタクチイワシの稚魚を塩ゆでにして日干しにしたもの」で、酒のさかなやご飯のおかずとして好まれていた。問題となったシラスは、10月20日に泉佐野市近海で獲れたカタクチイワシの稚魚45Kgを加工業者が塩ゆでにしたものであった。

 この事件の犠牲者があまりに多かったこと、その前年に三鷹事件、山下事件、松川事件などの社会不安をあおる怪事件が連続していたことから、当初は毒物混入事件としてシラス製造工場が調べられ、製造業者夫妻が逮捕され連行された。

 大阪大学法医学教室が捜査に協力して毒物を調べたが、シラスから毒物は検出されず、何らかの化学変化も推測されたが、集団食中毒の可能性が浮かび上がってきた。幸いにも発症した家の台所には、シラスが悪臭を放ちながら残っていた。そのため阪大微生物病研究所の藤野恒三郎教授が中心に、細菌検査の調査に当たることになった。

 藤野教授はシラスを食塩水につけ、モルモットの腹腔内に注射した。するとモルモットは翌日に死亡。患者の遺体からも同じ細菌が検出された。ところが奇妙なことに、検出された細菌はどの教科書にも記載されていない奇妙な細菌だった。この細菌は2つの特徴をもっていて、ひとつは丸い棒状の桿菌で長い鞭毛を持っていること、もうひとつは塩分がないと増殖できないことであった。

 事件発生から1カ月後、阪大微生物病研究所はペストに似た細菌の毒素がシラス食中毒事件の原因と発表した。この菌は後に「腸炎ビブリオ」(学名:ビブリオ・パラヘモリティカス)と名付けられ、現在では多くの人たちがその名前を知っているが、その当時は世界の誰も知らない未知の細菌だった。この腸炎ビブリオが新種の細菌として国際的に認知されるのは、藤野教授の発見から10年後のことである。腸炎ビブリオはこの事件で初めてその姿を現したのである。

 感染症を引き起こす病原菌のほとんどはパスツールやコッホの時代に発見されていたと誰もが思っていた。パスツールやコッホの時代から50年以上も経っているのに、腸炎ビブリオは細菌学の黄金時代をすり抜けていたのだった。

 この事件以前の食中毒事件を丹念に調べても、腸炎ビブリオを思わせる食中毒は報告されていない。腸炎ビブリオは突如として現れたのである。藤野教授が発見した腸炎ビブリオは、細菌学において日本が誇る大きな業績となった。

 腸炎ビブリオが一般に知られるようになったのはこの事件以降であるが、腸炎ビブリオによる食中毒は決してまれではない。むしろ現在では、わが国の食中毒の約半数を占めるほどになっている。昭和25年の事件から今日に至るまで年間1万人以上の人たちが腸炎ビブリオによる食中毒に罹患し、腸炎ビブリオは食中毒の第1位か2位を常に占めている。

 腸炎ビブリオはコレラ菌と同じ仲間であるビブリオ属に分類され、このことから想像できるように、その症状は激しい腹痛と下痢である。腸炎ビブリオはヒトに感染して症状を起こす病原株と非病原株に区別され、海水や魚介類から検出される腸炎ビブリオの99%は非病原株であるが、食中毒患者から検出される腸炎ビブリオのほとんどが病原株である。すなわち海産魚や貝類にはたくさんの腸炎ビブリオが付いているが、そのうち病原性のあるのはごくわずかで、このわずかな腸炎ビブリオが食品中で増殖して食中毒を発生させるのである。

 腸炎ビブリオには「赤血球の膜に穴を開けて溶血させる菌」と「溶血させない菌」の2種類があり、「溶血させる菌」が食中毒を起こす。この溶血させるビブリオ菌が、耐熱性溶血毒(TDH)と耐熱性溶血毒類似毒素(TRH)という2つの毒素を産生し、食中毒を引き起こすのだった。これらの毒素は下痢を引き起こすが、TDHは心筋細胞に直接作用して心拍動を停止させること(心臓毒)が証明されている。他の食中毒の場合と比較して腸炎ビブリオの死亡例が比較的多いのは、TDHの作用による。

 昭和25年の当時を想像すると、医療環境は遅れていて点滴すら一般的ではなかった。そのためシラス食中毒事件で多数の犠牲者を出したと想像されるが、なぜ20人もの死者が出たのか、その理由は長い間分からなかった。ところが最近になって、シラス食中毒事件で分離保存されていた腸炎ビブリオ菌(菌株番号EB101)を調べた結果、TDH陽性菌であることが明らかになった。つまり「シラス食中毒事件」にはTDHの心毒性が関与していたのだった。

 腸炎ビブリオに汚染された食物を食べると小腸で増殖する。食中毒としては感染型に分類されるが、腸炎ビブリオは毒素を分泌し、摂取後8時間から20時間の間に初発症状としての胃痙攣のような猛烈な腹痛が現れ、少し遅れて悪心、嘔吐、水様性あるいは粘血便を伴った下痢が出現する。症状のピークは当日で、翌日には改善傾向を示し、翌々日には大部分が回復をみせる。この症状は他の細菌性食中毒でもみられるため、症状から腸炎ビブリオと診断することは難しい。

 一般的な治療は抗生剤の投与、脱水が激しい時には点滴で脱水を改善させる程度である。重症例は脱水により血圧低下や意識混濁をきたすが、シラス食中毒事件で20人の死者を出したような重症例は最近では極めてまれである。

 腸炎ビブリオが検出されるのは、海水温度が15℃以上になる5月から10月にかけてで、冬季の海水から検出されることはない。腸炎ビブリオは海底で越冬し、海水温度の上昇に伴って海水に出て、プランクトン、貝などの体内で増殖して排泄される。そのため腸炎ビブリオによる食中毒は夏季に多発し冬にはみられない。また通常の細菌は塩水中ではほとんど繁殖しないが、腸炎ビブリオは例外で、塩分があると逆に繁殖しやすくなる。このため腸炎ビブリオは好塩菌と呼ばれ、塩水が消毒の役目を果たすという通常の考えは通用しない。

 腸炎ビブリオの食中毒は、カキなどの海産物や魚介類が原因となる。そのため魚介類を多く食べる日本人に多いことが特徴である。また卵焼きや漬け物といった海産物とは無縁の食品のこともあり、これはまな板や包丁などの調理器具を介しての二次汚染によるものである。

 腸炎ビブリオが海水中に常在する以上、魚介類における腸炎ビブリオの一次汚染を避けることはできない。従って腸炎ビブリオの食中毒にかからないためには、調理後に腸炎ビブリオを増殖さないことである。腸炎ビブリオは10℃以下の低温では増殖できないが、逆に適温(25〜37℃)での増殖スピ−ドは他の病原細菌と比べて極めて早い。つまり食品の温度管理が防止の鍵となる。腸炎ビブリオは塩分濃度、温度の条件がそろえば、他の細菌とは比較にならないほどの短時間で増殖する。35℃の温度と塩水があれば、1個のビブリオ菌が3時間後には100万から1000万個に増えるとされている。

 水揚げされた魚介類はすでに腸炎ビブリオに汚染されていると受け止めるべきで、食中毒の予防には魚介類をすぐに冷蔵庫に保存し、冷蔵庫から出したら2時間以内に食べることである。また塩水を好み、真水では生存できないので、魚の表面を真水でよく洗うことである。腸炎ビブリオによる集団食中毒が発生しているが、これはレストランや寿司屋などで宴会が開かれる際に、大量の料理が室温に長時間並べられるためである。

 特異な事例として、昭和30年に国立横浜病院で病院給食による腸炎ビブリオの集団食中毒が起きている。海外では、昭和41年にアメリカで報告されたのが最初で、海産物をあまり摂取しない海外での発生は少ないが、アメリカ・テキサス州では名物の生ガキを食べ400人が食中毒を起こし話題となった。