シュバイツァーのノーベル平和賞

シュバイツァーのノーベル平和賞 昭和27年(1962年)

 現在の医学生のなかでアルベルト・シュバイツァー(Albert Schweitzer)の名前を知る者は少ないだろうが、シュバイツァーはかつての小学生の教科書に「原始林の聖者」「アフリカの光明」として紹介され、当時の医学生や医師たちはシュバイツァーに強いあこがれを抱いていた。白いひげを蓄えた彼の写真を机上に置き勉学に励んだ者も多かった。

 生涯をかけて熱帯アフリカの原住民のために医療活動を行ったシュバイツァーは「医療の本質は人間愛に基づく奉仕である。医療は自己犠牲であって、身分や性別によって患者を差別してはいけない」との言葉を残し、医師としての理念を教えてくれた。

 シュバイツァーはルター派の牧師の子として、ドイツの支配下にあったアルザス地方(フランス)に生まれた。恵まれた少年時代を過ごし、5歳からピアノを習い、8歳からオルガンを弾き、9歳の時にオルガニストとしてデビューするほどであった。このようにシュバイツァーは多才で、優れたオルガンの演奏家として国際的に有名であった。

 音楽への造詣(ぞうけい)が深く、彼の著書「J・S・バッハ」(1905年)はバッハの古典的研究本となっている。さらにパリにバッハ協会を設立している。

 シュバイツァーが8歳の時、彼の人生を方向づける逸話が残されている。それはある日曜日、友人と小鳥を撃ちにブドウ畑へ行ったときのことである。友人がパチンコで鳥を撃ち落とそうとした時、小鳥のさえずり中で突然教会の鐘が鳴った。その鐘の音がシュバイツァーの心を動かし、声を張り上げ小鳥を追い払ったのである。この少年時代の話は、かつての小学校の教科書に掲載されていた。

 シュバイツァーは10歳から18歳まで親戚に身を寄せ、厳しい道徳教育を受けた。シュトラスブルグ大学に進学すると、神学、哲学を学び、カント哲学の研究で学位を取った。聖ニコライ教会の副牧師となり、日曜ごとに説教をしながら神学と哲学を学び、27歳でシュトラスブルグ大学の講師となった。神学部の教授候補になるほど優秀であったが、愛と同情を信条とするトルストイにひかれ、さらにイエスの生涯に強い影響を受けた。

 シュバイツァーはイエスの言葉、救世主としてのイエスの研究に没頭し、「イエス、その歴史的考察(1905年)」を書き高い評価を受けた。また哲学者、宗教家として、「メシアと受難の秘密(1901年)」「ライマールスよりウレーデまで、イエス伝研究史(1906年)」「パウロ研究史(1911年)」などを刊行し、世界的な神学者として名声を得ている。

 シュバイツァーはオルガン演奏家、神学者、哲学者として有名になるが、それらの肩書きを捨て、1905年10月、医学を学ぶことを決意する。周囲はこの決意に驚くが、シュバイツァー自身は30歳までは芸術と学問を身につけ、それ以後の人生は人類に直接奉仕する仕事に捧げようとしていた。

 彼の決意は、「私に従いなさい」とのイエスの言葉に霊的衝撃を感じたからで、信仰からくる真摯(しんし)なものであった。具体的には、自分の人生を医師として赤道アフリカの無医村地区に捧げることであった。30歳で医学部に入学。若者に混じりながら生物学、物理学、化学などの教養、さらには解剖学、生理学、生化学、病理学などの基礎医学を学んだ。また学費とアフリカへの医療活動の資金を得るためにオルガン演奏会を開き、毎日2時間の睡眠時間の日々を送った。

 多忙な彼を助けたのが後に妻となるヘレーヌ・ブレスラウであった。彼女はアフリカで医療を行うために医学部に入学したことをシュバイツァーから打ち明けられると、自分も看護学校に入って勉強を始めた。シュバイツァーは医師資格を得ると、看護婦になったブレスラウと結婚し、1913年3月、ふたりは赤道アフリカのフランス領コンゴ(現ガボン共和国)のランバレネに向かった。

 医薬品、医療器具、手術用具、運営資金として約1000万円の費用がかかったが、資産家でない彼が集めた資金は、オルガンの演奏資金、著書の印税によるものだった。このようにシュバイツァーの偉大さは、アフリカでの医療活動に私財を投げ打ったことである。

 ランバレネでは、カトリック教会の敷地にある鶏小屋を改造して診療所をつくり、医療活動を開始した。アフリカの地で医師として治療にあたるだけでなく、伝道師としてキリスト教の普及に尽くした。

 活動から1年後に第一次世界大戦が始まり、フランス領土ガボンで働いていたシュバイツァーはフランス軍の捕虜となり診療所も閉鎖となった。シュバイツァーはフランスのボルドーで1年間の収容所生活を送ることになった。彼には2万フランを超える借金が残こったまま、収容所でアメーバ赤痢に罹患し、アメーバ性肝膿瘍で2度の手術を受けている。

 まさに苦難の時期であったが、この窮地を救ったのがオルガニストとしての腕前だった。ヨーロッパで演奏ツアーを行い、演奏ツアーによって資金を得ると再びアフリカに向かった。1923年にランバレネに戻り、病院を再建して原住民のために献身的に働いた。アフリカでの医療活動は、いかなる境遇の人たちにも、人間らしさを培わせようとする彼の宗教的哲学によるものであった。医療活動をとおして、「生命への畏敬(いけい)」を見いだすことになる。それは人間だけでなく生きるものすべてへの限りない感動を意味していた。この「生命への畏敬」はシュバイツァーが見いだした哲学で、国境を越え全世界の人々の心に大きな希望を与えた。

 昭和27年、シュバイツァーはノーベル平和賞を受賞。シュバイツァーの偉大さは、人間としての生きる思想、哲学を具体的な生活を通して私たちに示したことである。世界の平和、人類愛は私たちにとって最大の課題であるが、彼が示した生命への畏敬こそが、それを成し得る最も大きな思想といえる。

 昭和40年9月4日、神学者、思想家、音楽家、医師として有名なシュバイツァーがアフリカのガボンで死去し、90年の人生を閉じた。彼の50年にわたるアフリカでの奉仕の精神と生命への畏敬の哲学は、ランバレネの病院とともに今も生き続けている。「生命への畏敬」という言葉は、人類を正しい方向へと導く灯火として灯(とも)り続けている。