ラファエロ

ラファエロ・サンティ( 1483年〜1520年、37歳死没)

 レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並ぶ盛期ルネサンスの三大巨匠の一人。聖母の画家としての異名を持つことからわかるように、聖母マリアと幼子イエスを描いた作品が有名である。

 ラファエロはレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロとはやや歳が離れており、この二人や師ペルジーノから多くを学び、その結果、盛期ルネサンスの集大成とも呼べる絵画作品の傑作を数多く描いている。またペルジーノ工房での修行時代から画家としての才能は飛び抜けており、若くして独立し芸術の都フィレンツェ で有意義な滞在を送った後、教皇ユリウス2世からローマに呼ばれ、25歳から死去する37歳までヴァチカンの宮廷画家として栄華を極めた。その調和に富んだ古典的様式から、古典主義絵画(西欧アカデミズム)の祖と見なされている。

 1483年、ラファエロはイタリアのウルビーノ公国に生まれた。ウルビーノ公国は中央イタリアの都市国家で、父親はウルビーノ公の宮廷画家ジョヴァンニ・サンティであった。父は画家であると同時に、フェデリーコ3世の生涯を物語る韻文詩を書き上げるほどの詩的才能を持っており、宮廷の出し物として上演される仮面劇の脚本や舞台装飾を手がけていた。父がフェデリーコ3世に捧げた詩から、美術の最先端だった北イタリアの画家たちや初期フランドル派の画家たちに強い興味を持っていたことがわかる。他国の宮廷と比べて小規模だったウルビーノ宮廷だったが、小規模だったことから父親は他国の宮廷画家たちよりも君主一家とより親密な関係を築いていた。

 フェデリーコ3世の後を継いでウルビーノ公爵となったのは息子のグイドバルドである。グイドバルドは、当時のイタリアでもっとも音楽と芸術が盛んだったマントヴァの君主の妹と結婚した。この君主夫妻のもとでウルビーノ宮廷は、フェデリーコ3世統治時と同じく芸術の中心地であった。

 ラファエロはウルビーノ宮廷にはよく顔を出しており、宮廷を訪れる多くの知識人たちと親しく交わっていた。とくに著名な文学者だったベルナルド・ドヴィツィとピエトロ・ベンボとは後年ローマに移住したラファエロと親交を持ち続けた。生涯を通じてラファエロは上流階級との交際が巧みで、このことからラファエロの画家としてのキャリアが順風満帆だったと思われる。高い文化的水準を有するウルビーノ公国宮廷での生活を通じて、ラファエロは洗練されたマナーと社交的性格を身につけていった。しかしラファエロは十分な人文主義的教育を受けておらず、ラファエロが上流階級の共通言語であるラテン語に不自由しなかった理由はよく分かっていない。

 若年期

 ラファエロは幼少のころから芸術の才能を発揮し、宮廷画家だった父の仕事の「大きな手助け」に なっていた。ラファエロの母マージアはラファエ ロが8歳の時に死去し、11歳の時には父ジョヴァンニも死去している。

 両親がなくなるのと前後して、ラファエロはペルジーノのもとで工房の助手になった。ペルジーノはレオナルドとともにヴィロッキオ工房で修行を積んだ画家で、鮮やかな色彩と優美さが特徴であり、ラファエロの優美さはペルジーノの影響が大きい。

 左スケッチは10代で描いたとされているラファエロの自画像で、芸術的才能の片鱗がうかがえる。父親の死後も父親の工房は続いており、おそらく幼少のラファエロが父親の工房の経営にも何らかの役割を果たしていたとされている。

 その後、若干17歳で「親方」の資格を得て工房を構えた。


聖母の結婚
1504年頃
170×117cm | 油彩・画布 |
ブレラ美術館(ミラノ)

 「聖母の結婚」はラファエロ21歳の時の作品である。権力者アルビッツィーニ家の依頼により、サン・フランチェスコ聖堂のサン・ジュゼッペ礼拝堂の祭壇画として制作された。本作テーマは、聖母マリアが14歳の時、神殿の大司祭のもとへ天使が現れ、天使は大司祭にこう伝えた「国中の独身者に一本の杖を持たせて集めよ。そして杖の先に花の咲いた者を聖母マリアの夫として選べ」。その聖告に従い国中の独身者を集めると、大工ヨセフの手にする杖の先に花が咲いた。そのためヨセフを聖母マリアの夫に選び、結婚の儀式をおこなう場面である。

 画面左側に聖母マリアと5人の処女たちが配され、右側には夫ヨセフと選定に漏れた独身者たちが描かれている。中央には大司祭が聖母マリアと夫ヨセフの手を取り婚姻の指輪を聖母マリアの手の先へ近づけている。画面右前には枝の先に花が咲かなかった(神に選ばれなかった)独身者が怒りのあまりに枝を折る仕草を見せている。本作に描かれている登場人物は、師ペルジーノの優美さと甘美性を引き継いでいで、背後に描かれるエルサレムの神殿の描写や背景全体の構成も同様で、本作の完璧な空間的把握と自然描写は若きラファエロが既に師ペルジーノを超える力量を有していたことを物語っている。

 静粛と荘厳を含んだ聖性の高い結婚場面となっている。この独特の雰囲気がラファエロの宗教画における真髄であり、今も観る者を魅了し続ける。


 ラファエロは「聖母の画家」ともよばれ、数10点の聖母子像を残している。聖母子を描くときはモデルを使わず、自分の理想とするイメージで描いた。

小椅子の聖母

1514年 直径71cm | 油彩・板 |

ピッティ美術館(フィレンツェ)

 ラファエロの作品で最も人気の高い傑作「小椅子の聖母」。メディチ家の旧蔵で、数多くの模写が確認されている。美しく豪華な額縁の中、こちらを見つめ微笑みを浮かべる聖母子像を描いたトンド(円形画)形式による作品である。本作の聖母マリアの母性に溢れた画面展開やモデルについては諸説唱えられている。

 伝説によれば、ラファエロがローマの街を歩いていると、母親が赤子を抱き、そばに子供が立つ仲睦ましい光景を見かけた。その光景を近くに落ちていた古いワイン樽の蓋に描いたとする説がある。またラファエロの愛人と二人の間に生まれた子供とする説がある。本作の聖母マリアと幼子イエス、洗礼者幼児聖ヨハネは、やや円形の画面内へ押し込まれるように配されるが、美しく高潔でありながら、幼児の愛らしさと聖母の若々しい女性美は圧巻であり、特に聖母マリアの観る者へと向けられる視線の魅力は当時から観る者の目を惹きつけた。

美しき女庭師(聖母子と幼児聖ヨハネ)
1507年 122×80cm | 油彩・板 |
ルーヴル美術館(パリ)

 パリのルーヴル美術館が所蔵しており、多くの人々に知られることになったラファエロ制作の聖母子像「聖母子と幼児聖ヨハネ」。通称の美しき女庭師という名称で今なお魅了し続ける。本作品は1507年、フィレンツェ滞在時に手がけられ、明るく澄み渡った牧歌的風景の中、地に腰を下ろし謙譲を示す聖母マリアと、躍動感に富んだ表現の幼児キリストから、ラファエロの聖母子の典型とされている。ラファエロは聖母マリアの母性を画面中に表現し、多くの人々から支持を得た。

 ヨルダン川でキリストへ洗礼をおこなった聖ヨハネは大人として描かれているが、本作のようにキリスト同様に幼子として描かれることも多い。

ベルヴェデーレの聖母(牧場の聖母)
 1506年 113×88cm | 油彩・板 |
ウィーン美術史美術館

 フィレンツェ時代で最も有名な作品。「牧場の聖母」とも題され、当時ウィーンを統治していたハプスブルク家が旧蔵していたが、現在はウィーン美術史美術館で公開されている。

 聖母マリアの赤と青の衣装は、聖母マリアの典型的な服装であるが、聖母らしい清潔な印象を与えている。聖母マリアに支えられながら地に足を着け、聖ヨハネの持つ十字架を握る幼子イエスの構図は、神の子イエス(キリスト)と聖ヨハネの師弟関係を表すとされている。聖ヨハネは質素な衣に身を包み、片膝を地につけ、幼子キリストが握る十字架を支えている。

 ルネサンス以降に描かれた聖母子の構図では典型的であるが、「幼児キリストと聖ヨハネの出会い」は聖書上ではありえない。

 牧場を背景に幼子たちを見つめる聖母マリア、レオナルド・ダ・ヴィンチが創始した三角の構成で聖母子が描かれている。

大公の聖母
1504年 84×55cm | 油彩・板 |
ピッティ美術館(フィレンツェ)

 トスカーナ大公であったハプスブルク家のフェルディナント3世が所蔵し、公務で出向する際は勿論のこと、私的な旅行のときでさえ、片時も手放すことはなかったというほど、この作品を賞賛していたことから、「大公の聖母」と呼ばれるようになった。聖母子はラファエロが最も数多く手がけた主題で、当時、まだ画家として成功への道を歩み始めたばかりのラファエロが、先人レオナルド・ダ・ヴィンチなどからスフマート(ぼかし技法)技巧や絵画展開に強い影響を受け、簡素な背景の中に浮かび上がる聖母子の姿を描いたとされている。暗い背景の中から浮かび上がる聖母子の姿の簡素でありながら慈愛に溢れた表現は、後にフィレンツェで描くことになる聖母子の原型とされている。また愛情に満ちた身振りをおこなう幼子キリストの視線は強い意思を示しながらも威圧感は感じられず、人々を導く先導者の一片を覗かせている。

アルドブランディーニの聖母

ロンドン ナショナル・ギャラリー

カーネーションの聖母

ロンドンのナショナル・ギャラリー

 1506年頃のこの作品で、ラファエロは赤い服を着ていないマリア像を描いている。またマリアは視線をこちらに向けていない。しかし微笑を浮かべた幸せそうな表情や、若々しさを感じさせる豊かな乳房の描き方から庶民的な雰囲気を感じさせる。

 イエスの小指とマリアの人差し指が触れ合うことによって、母子の感じが伝わってくる。成人後のイエスの悲劇を知っているラファエロが、この至福の瞬間を長く続いて欲しいと思いでこの構図を選んだのかもしれない。

 イエスとマリアが手にしているのはカーネーションで、カーネーションと言えば「母の日」を思い浮かべる人が多いだろうが、ラファエロの時代には「母の日」というものはなかった。したがって、ラファエロは「母の日」の象徴であるカーネーションを描いたわけではない。カーネーションは聖母マリアが十字架にかけられた息子イエスを見つめ、止めどなく涙がこぼれ落ち、涙が大地に接した瞬間にカーネーションという花が生じたと言われている。赤いカーネーションは拷問を受けたイエスの体から飛散した血の色、あるいは磔刑後に復活したイエスの象徴であるという見方もある。カーネーションは人が亡くなった後その魂が別の肉体に再び宿るという、生まれ変わりの語源になっているからである。

アレクサンドリアの聖カタリーナ

 4世紀のアレクサンドリアの貴族の娘で、ローマ皇帝マクセンティウスから求婚を受けるが、聖母子の幻影を見て幼児キリストから結婚の指輪を与えられたため断る。そのため皇帝の怒りにふれて処刑された。大釘を打ち付けた車輪で拷問を受けるが、その車輪は雷で粉々になり、最後に斬首されて殉教する。

システィーナの聖母
1513年 - 1514年頃 カンバスに油彩 265 cm × 196 cm
アルテ・マイスター絵画館(ドレスデン

 サン・シスト聖堂(システィーナの聖母)の祭壇画として、教皇ユリウス2世がラファエロに依頼して製作された作品。画面中央に幼子イエスを抱く 「聖母マリア」が、画面の左右に聖シクストゥスと聖バルバラ、画面中央下部に幼い2天使が配され、登場人物が菱形(又は十字)に形成されている。画面中で 最も偉大的に描かれる幼子イエスと聖母マリアは厳粛と威厳に満ち溢れている。

 幼子イエスには父なる神の神々しさが、聖母マリアには貞淑的 かつ慈愛的で、観る者へ向けられる視線には聖母としての厳しさが感じられる。画面左側には初期ローマ教会で最も崇拝されていた聖シクストゥス2世が幼子イ エスと聖母マリアの顕示に感動して信仰を示すような仕草を見せている。

 画面右に配される十四救難聖人のひとり、処女聖人バルバラが下方へ と視線を向けており、その表情はラファエロが手がけた女性像の典型的な美を見出すことができる。この2聖人はサン・シスト聖堂でも特に崇拝されていた聖人 である。そして画面下部には、退屈そうな表情を浮かべる無邪気な天使たちが上部を見上げるような仕草で配されており、本作の中に宗教的精神とは異なる面白 味に溢れた趣を与えている。また画面上部左右に描かれる半開の幕は当時の墓碑を真似たものであるされており、一部の研究者たちからは教皇ユリウス2世の墓 碑に掲げる為に制作されたとの説も唱えられている。

三美神
1504-05年頃 17×17cm | 油彩・板 |
コンデ美術館(シャンティイ

 1504年から1505年頃にかけて描かれたとされるラファエロの寓意画「三美神」。本作は同時期、同サイズで制作された「騎士の夢(知恵の寓意)」との対画であろうとされており、共にローマのヴォルケーゼ家が旧蔵し、現在「三美神」はシャンティイのコンデ美術館が、「騎士の夢」はロンドン・ナショナル・ギャラリーが所蔵している。対画「騎士の夢(知恵の寓意)」の眠れる騎士スキピオは、ヴィーナス(快楽)とミネルバ(徳)のどちらかを選択する試練を受け、本作「三美神」では(徳)を選択した騎士に、褒美として与えられるヘスペリデスの林檎(黄金の林檎)を手にしている。ギリシャ神話における美と優雅の女神たち「三美神」は、通常輝き、喜び、花の盛りの三女神を指し、美しい若い娘の姿で表される。本作の三美神の調和に溢れた均整的な古典的表現や図像展開は、フィレンツェ派の大画家ボッティチェリによる「春(ラ・プリマベーラ)」中に描かれる三美神と共に、ルネサンスを代表する三美神として広く知られている。

玉座の聖母子と洗礼者聖ヨハネ、バーリの聖ニコラウス
(アンシデイの祭壇画) 1504-1506年274×152cm | 油彩・板 |
ロンドン・ナショナル・ギャラリー

 ペルージアの修行時代からフィレンツェ滞在時代にかけて手がけたラファエロ初期の代表作的な祭壇画「玉座の聖母子と洗礼者聖ヨハネ、バーリの聖ニコラウス」。本作はペルージアのサン・フィオレンツィオ・ディ・セルヴィーティ聖堂内アンシデイ礼拝堂のために制作された。主題は玉座の聖母子に、成人の聖ヨハネ、守護聖人聖ニコラウスを左右に配した≪聖会話≫。所蔵先のロンドン・ナショナル・ギャラリーでは最も人気の高い作品のひとつとして公開されている。玉座に鎮座し幼子キリストを抱く聖母マリアはキリスト教徒が日常の祈りの際に模範とすべき文章を集めた書物「祈祷書」を熱心に読んでいる姿で描かれ、信仰の重要さを表現し、模範的な祭壇画として教会の支持を得ている。キリストの洗礼者でもある左手に透明な十字架を持ち、成人の姿をした聖ヨハネは右手で、救世主として生誕した幼子キリストを指し示している。バーリの聖ニコラウスは、黄金を渡し身売りされそうだった貧しい貴族の娘を救う伝説のほか、食肉として切り刻まれようとした子供を救った伝説や、死後、嵐を沈め船乗りを救ったなどの伝説が残る聖ニコラウスは、小アジアのミュラで生を受けた司教で、サンタクロースの原型となった人物である。

カニジャーニの聖家族
1507年 131×107cm | 油彩・板 |
アルテ・ピナコテーク

 「カニジャーニの聖家族」の名称は、最初に所蔵していたフィレンツェの一族に由来し、その後メディチ家を経由して、ドイツへと渡った。主題は聖母子と、聖母の母聖アンナ、父聖ヨアヒム、洗礼者聖ヨハネを描いた「聖会話」で聖母は大地に腰を下ろし、謙譲の意を表している。また本作は、鮮やかな色調や構図的なバランスなど、後のアカデミズムに通ずる作風となっている。聖アンナの左上部に描かれる遠景部分の町並みからわかるように、色彩の諧調に支配された色の微妙な変化と、透明感に富んだ大気の表現は、北方に由来していると考えられている。洗礼者聖ヨハネと幼子キリストは両者とも幼子として描かれ、互いの関係や信頼性、キリストの正当性を、ラファエロは外枠(世界)として描かれた三角形に配されるの大人(聖母マリア、聖アンナ、聖ヨアヒム)の中心に表現した。

キリストの遺骸の運搬(ボルゲーゼの十字架降下)
1507年 184×176cm | 油彩・板 |
ボルゲーゼ美術館(ローマ)

 ラファエロ初期の代表作。当時、有力家であったバリオーニ家の若者がペルージアで惨殺された追悼として、若者の母親アタランタ・バリオーニの依頼によりサン・フランチャスコ・アル・プラート聖堂バリオーニ家礼拝堂のために制作された。本作は磔刑に処され死した主イエスの遺骸を岩墓へ埋葬する場面「キリストの埋葬」を描いたもので、本作においてラファエロは、惨殺された若者を死した主イエスに、悲しみのあまりに気を失う聖母マリアを若者の母親に重ね描いている。また本作には全く生気の感じられないイエスの亡骸の表現や身を捩じらせて倒れこむ聖母マリアの運動性にミケランジェロの影響が指摘されている。そのほか、色彩豊かに描かれる情緒的な背景描写や古典の引用を思わせる登場人物の表現など、人々を魅了するラファエロの高度で洗練された表現が感じられる。教皇ユリウス2世がすでに名声を得ていたラファエロをローマへと呼び寄せるための決定的な要因のとなった。なお本作は「ボルゲーゼの十字架降下」とも呼ばれており、プレデッラ(基底部)には現在ヴェティカン宮美術館が所蔵している「信仰/慈愛/希望」が配されていた。

アテネの学堂
1509-10年 814×577cm | フレスコ |
バチカン宮 -署名の間-

 プラトン、アリストテレス、ソクラテス、ピタゴラスなどの古代ギリシャの偉人・哲学者を一面に集約し、人類の英知を壮大に表現した。ヴァティカン芸術の中でも屈指の名作「アテネの学堂」。

 1508年、ラファエロは教皇ユリウス2世の命により、ヴァティカン宮の「署名の間」「ヘリオドロスの間」「火災の間」などの装飾を手がけたが、この「アテネの学堂」は同時期に制作されたミケランジェロのシスティーナ礼拝堂天井画と共に、盛期ルネサンス古典様式の最高傑作として知られている。完璧な遠近法の背景の中に描かれた画面中央の人物は、左がプラトン、右がアリストテレスとされている。

 ルネサンス芸術が、過去、最も偉大であった古代ギリシャ時代と双璧をなすものであることを表現した。本作の主人公とも云える両者のモデルは、長い間レオナルド・ダ・ヴィンチ(プラトン)とミケランジェロ(アリストテレス)であるとされてきたが、現在ではミケランジェロに敬意を示し、ラファエロが描き加えたヘラクレイトスの姿とする説や、他の人物とは明らかに異なるヘラクレイトスの筆触から、レオナルド・ダ・ヴィンチと対立していたとされるミケランジェロが、本作でレオナルド(プラトン)と隣り合い意見を交わす己(アリストテレス)姿に激昂し、自ら描き加えたという説が有力視されている。

  なお画面中央より少し右に立つ、黒い帽子をかむり、じっとこちらを見つめている人物はラファエロ自身で、この仕事(依頼)が、そして己がルネサンス芸術において、どのような意味を持つか理解していたからこそ、自らの姿をそのままに描いたと考えられている(隣は友人であったイル・ソドマ)。

ガラティアの勝利
1511年頃 295×225cm | フレスコ |
ヴィラ・ファルネジーナ

 ラファエロのパトロンであった銀行家のアゴスティーノ・キージから別荘に装飾を依頼された連作壁画より、ガラディアの間に描かれた。後に名門ファルネーゼ家が所有することになったこの別荘の連作壁画は、古代ギリシャ神話「黄金の驢馬(ロバ)」からギリシャ神話でエロスの妻、プシュケの物語を主題に描かれた作品で、制作の大部分が助手の手によるものと考えられている。また別荘の装飾には当時の有名な画家が集められ、それぞれの壁面の装飾を手がけた。海豚の引く貝殻の船に乗り、顔は空から矢を射んとする愛の女神キューピッドの方を向き、波立つ海面を進むガラディアは、「海の老人」と呼ばれる神ネレウスの娘とされている。ネレイデス(別名オケアニデス)は伝承に登場する妖精ニンフの一種で、最も神に近い存在として考えられ永遠の命を持つとされている。またトリトンは海神ポセイドンの息子で、知性が非常に高く三つ又の槍やほら貝を手にしている。またトリトンは一人ではなく、複数の者の総称である。

バルダッサッレ・カスティリオーネの肖像
1514-1515年頃 82×67cm | 油彩・画布 |
ルーヴル美術館(パリ)

 ラファエロ・サンツィオが手がけた肖像画の傑作『バルダッサッレ・カスティリオーネの肖像』。本作に描かれるのは、ロンバルド地方出身の貴族で、16世紀イタリアのルネサンス宮廷生活の典型的な人間像を記した≪廷臣論≫の著者として知られる有名な文学者であり、外交官でもあった≪バルダッサッレ・カスティリオーネ≫の肖像画で、親密な友人関係にあったラファエロの持っていた類稀な技量が存分に示されている。≪バルダッサッレ・カスティリオーネ≫はその著書の中で「肖像画とは、描かれる人物が持つ理念の具現的表現である」と説いているよう、当時の社会の中では最先端の文化人であり、ラファエロは≪バルダッサッレ・カスティリオーネ≫が持つ理念や主義、思想を、人物肖像として画面の中に理想的な再構築を示している。つまりそれは深い精神性と高潔な眼差しを携えるカスティリオーネの表情や、柔らかい毛並みの質感を存分に感じさせる質の高い衣服の描写、落ち着きのある色彩でまとめられる構成など、ひとつの在るべき理想形として人物を表現しているのである。なお、本作をおそらくマドリットで目撃したルーベンスが模写を残している(個人蔵)ほか、オランダ絵画黄金期最大の巨匠レンブラントも水彩で模写を描いており、画家の自画像制作に多大な影響を与えたことが知られている。


聖ゲオルギオスとドラゴン
1506
ナショナル・ギャラリー (ワシントン)

 ゲオルギオスはキリスト教の聖人のひとり、また7人の英雄のひとりでもある。古代ローマ末期の殉教者で魔法の剣アスカロンで凶悪なドラゴンを倒す伝説で有名である。キリスト教の聖人伝説をまとめた「黄金伝説」には数多くのドラゴン退治物語が記載されており、聖ゲオルギオス伝承もその中に記載されている。ゲオルギオスはイギリスの守護聖人で4月23日は「 St.George's day 」として祝いの日になっている。

ヴェールを被る婦人の肖像(ラ・ヴェラータ)
1516年頃 85×64cm | 油彩・板 |
ピッティ美術館(フィレンツェ)

 ラファエロが手がけた数多くの肖像画の中にあって、別格の存在感と想いの秘められた作品『ヴェールを被る婦人の肖像』。通称ラ・ヴェラータ。モデルはパン屋の娘でフォルナリーナ(パン屋の娘の意)と呼ばれる。ラファエロはこの女性と密かな恋愛関係にあったが、ラファエロを支持していた人々の中で最も権威のある人物のひとりビビエーナ枢機卿から姪のマリアとの結婚話を持ちかけられ、野心を持っていたラファエロは、それに従うべくフォルナリーナとの恋愛関係に終止符を打つが、フォルナリーナへの想いを断ち切ることができず、婚礼の衣装を纏った婦人の肖像画として、自己の想いを表現した作品だと云われている。ヴェールを被るフォルナリーナの表情は、自分たちが結ばれないことへの悲しみを表しているとされているが、ヴェールの下に見える髪飾りは人妻を意味し、ラファエロは実現しなかったフォルナリーナの婚姻を本作で表現した。また描かれた当初は婚姻の証である指輪がフォルナリーナの指に描かれていたが、本作が一般に公開されることになったことから、画家自身がそれを隠す為、後から絵具を上塗りしたとされている。

若い婦人の肖像
1518-1519年 85×60cm | 油彩・板 |
ローマ国立美術館

ラファエロが死去しローマのパンティオンへ埋葬されてから60年の後に発見された、この『若い婦人の肖像』、通称ラ・フォルナリーナ。本作はラ・ヴェラータのモデルと同様パン屋の娘(本名はマルゲリータ・ルティと言われている)を描いたものだとされ、多くの点で類似点を発見することができる。描かれた時期はラ・ヴェラータを描き終えてから約2年後とされ、今だ忘れることのできないフォルナリーナへの想いから、ビビエーナ枢機卿から姪のマリアとの結婚に踏み切れず、マリアが病で亡くなった後も、宮廷画家としての立場や枢機卿への配慮からフォルナリーナと結ばれることができなかったラファエロが密かに描き、最後まで手放さなかったために遺品に埋もれ、発見が遅れたとされている。その証拠に、本作の右下部分には非販売を示す『E.I』のサインが画家の直筆によってなされている。

ベルヴェデーレの聖母 (牧場の聖母)
1505 - 1506
美術史美術館

キリストの変容
1518-1520年 405×278cm | 油彩・板 |
ヴァティカン宮美術館(ローマ)

 1517年ナルポンヌ大聖堂の祭壇に掲げるべく、ナルポンヌ司教の枢機卿ジュリオ・デ・メディチより依頼され、制作された祭壇画『キリストの変容』。しかし完成後、実際に置かれたのはローマのサン・ピエトロ・イン・モントリオ聖堂であった。主題はキリストが天から声を聞き、自分が神であることを示す場面≪キリストの変容≫で、本作は主題に添った上部の場面と、下部の悪魔に取り憑かれた少年の治癒物語の場面の2場面構成となっているが、下部の民衆がキリストを指し示すことによって、この奇蹟の場面を一枚の画面に結び付けている。またラファエロの死により、本作が画家の遺作となった。弟子を率いてガリヤラのタボール山に登り、キリストが丘の上に立ったとき、身体が輝きを発し上空に浮かび、両脇からモーセとエリヤ(旧約聖書に出てくる人物)が現れ、天から「これは我が子(神の子)なり」と告げられた。新約聖書に記されるその劇的な一場面を、画家は鮮やかな色彩と巧みな構図で描いた。そしてその下では己が神であることを示したキリストを目の当たりにし、地上にひれ伏す弟子(聖ペテロ、聖ヤコブ、聖ヨハネの三人)が描かれている。また悪魔に取り憑かれた少年を表す画面下部は、ラファエロの死後、弟子であったジュリオ・ロマーノの手により描かれ完成されたと考えられていたが、本作の修復をおこなう過程で、ほぼラファエロの直筆であったことが判明した。