ドラクロワ

ウジェーヌ・ドラクロワ(1798年〜1863年)
 フランス・ロマン主義を代表する画家でパリ近郊のシャラントン (サン=モーリス) に生まれる。父は外交官シャルル・ドラクロワであるが、ウィーン会議のフランス代表として知られるタレーランが実の父親だという説がある。7歳のときに父を、16歳のときには母を亡くしている。小さい頃から音楽や文学に才能を発揮したが絵画の道を選んだ。両親を早くに亡くし、また姉のアンリエットを29歳のときになくしている。

 新古典主義の画家ゲランに入門し、1822年「ダンテの小舟」で先輩画家であるアントワーヌ=ジャン・グロの強力な推薦もありサロンに入選した。1824年のサロンには「キオス島の虐殺」を出品する。この作品は当時、実際に起きた事件を題材にしたもので、サロンでも賛否両論を巻き起こした。グロはこの作品を「これはキオス島の虐殺ではなく絵画の虐殺である」とまで酷評したが、結局、作品は政府買上げとなった。

 1830年の七月革命に際しては、有名な「民衆を導く自由の女神」を制作している。この絵画は彼の肖像と共にフランスの100フラン紙幣に描かれていた。

 ドラクロワは芸術的感性によって、それまでの古典派と対極した。絵画をロマン派へと改新し成熟させていった。ロマン派は人間的感動や躍動、生命感をそのまま表現しようとする、動的な実感主義である。それまで一世を風靡した古典派の、気品にあふれた明快な線による絵画表現とは対立するものだった。

 1832年、フランス政府の外交使節に随行する記録画家としてモロッコを訪問した。1834年の「アルジェの女たち」は、モロッコ旅行の際のデッサンをもとに制作したものである。1830年代以降は、リュクサンブール宮殿、パリ市庁舎など、政府関係の大建築の装飾を数多く手掛け、1863年に死去するまで旺盛に制作を続けた。アトリエ兼自宅は、国立のウジェーヌ・ドラクロワ美術館となっている。

 生涯独身で尊敬し親友でもあったロマン派の先駆者ジェリコーも、落馬がもとで若くして亡くなっている。しかも病弱で、後半生は悪性の喉頭炎に悩まされ、躍動的な画風にくらべ、その一生は苦しみの連続だった。ドラクロワは古典派を批判して次のように言っています。

「冷たい正確さは芸術ではない。多くの画家のいわゆる制作良心とは、精を出して人々を退屈がらせる技術を完成することのようだ。君たちの巧みさを見ていると、私の心は冷却し、私の空想はその翼をつぼめるのだ」

 ドラクロワの絵画は、いつも人間としての情感に満ちていて、見る者の心に豊かな余韻を残してくれる。晩年は重病におかされるなど健康を著しく悪化させ、1863年パリで死去している。

ダンテの小舟 

1822年| 189×264cm | 油彩・画布 | 

パリ ルーヴル美術館

 この絵は24歳のドラクロワが初めてサロンに出品し入選した作品で、新古典主義者からの激しい批判があったが、審査員のグロはドラマティックな表現に感激し強力に推薦した。

 小舟に乗ったダンテとウェルギリウスが地獄の川を下ってゆくと、多くの亡霊が助けを求めてしがみついてくる。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を彷彿とさせる凄惨な絵画である。

 小舟の上のダンテとウェルギリウスを中心に、しがみつく亡者たちを三角形図法に組み合わせ、激しい情念を描いている。生気がみなぎり劇的で躍動感がある。さらに色彩も生命感にあふれ、ダンテの頭部を包む赤い頭巾は背景の黒褐色や濃い青が対比をなして全体を引き締めている。後に国家買い上げになったこの作品は、イタリア文学史上最大の詩人ダンテ・アリギエーリの代表作「神曲」中の地獄篇第8歌の場面を描いている。この初期の作品には、すでにドラクロワの才能を見ることができ、亡者たちのうめき声や呪いの声が聞こえて来るようである。

キオス島の虐殺

1823-24年

417×354cm | 油彩・画布 | 

パリ ルーヴル美術館蔵

 この悲惨な作品は、1万人のトルコ兵によるキオス島の急襲と虐殺を描いており、ドラクロワの押さえがたい怒りが全体を覆っている。古代ギリシャに傾倒するドラクロワはヒューマンな心情の持ち主だった。そのためこの虐殺に許し難い憤激を感じていた。克明で堅実な描写によって、苦しみの極限状態にいる人々を描いたこの作品は、ロマン派絵画の誕生を示すものとされている。

 サロンに出品したが、このようなドラマティックな絵画は受け入れられず、入選はしたものの「絵画の虐殺だ」と酷評された。

墓場の孤児

パリ ルーヴル美術館蔵

ドラクロワはたまたま墓場で見かけた若い女の寂しげな表情が印象に残って、この絵を描いたとされている。ドラクロワの心には孤児になった少女の哀しみ、絶望感が焼き付いたようである。

 少女の強い視線、鋭い横顔と野性的な美しさは、後ろに広がる荒涼とした空の色に相まって見る者の胸を震わせる。これほど烈しい女性の顔を堅実な写実で描ききった画家が今までにいなかった。

 生命感そのものを描くことに前向きなドラクロワがあざやかに芸術的才知を発揮した。

異端者とハッサンの戦い

1826年 シカゴ美術館

十字軍のコンスタンティノープルへの入城

1841年 ルーヴル美術館

リエージュ司祭の暗殺

1829年

ルーヴル美術館

ミソロンギの廃墟に立つギリシア

1826年  209×147cm | 油彩・画布 | 

ボルドー美術館

 1821年、「キオス島の虐殺」と同様、オスマン帝国(トルコ)に支配されていたギリシアの人々が蜂起して反乱を起こした「ギリシア独立戦争」を描いている。ミソロンギは重要な要塞で、またギリシアの抵抗に共感した英国出身の詩人バイロンが戦死した場所でもある。

 中央に描かれた悲愴な表情を浮かべる若い女性は、オスマン帝国軍の攻撃に陥落して廃墟と化したミソロンギの町に転がる瓦礫の上で、最も強い光彩を受けて身体全体で絶望を表わしている。左膝の瓦礫の下には戦争で死んだギリシア人の右腕が配されているが、これは独立戦争によって古代ギリシア文化の崩壊を示している。また同時に、同地で死んだ詩人バイロンをも暗示している。

 遠景の画面右側奥にはオスマン帝国軍の兵士が三日月の帝国旗を掲げている。

 感情や時事的社会性への取り組みはロマン主義の大きな特徴であり、ドラクロワ最大の傑作「民衆を率いる自由の女神」へと続く表現として重要である。

民衆を導く自由の女神

1830年 | 259×325cm | 油彩・画布 |

パリ ルーヴル美術館

 1830年7月28日、七月革命はパリ市街戦となって3日間続いた。この動乱で国民の自由が解放されたと実感したドラクロワがこの作品を描いた。女神の左側でシルクハットをかぶり銃を手にした青年は、ドラクロワ自身であるとされている。ドラクロワがこの革命に共感し、自らの姿を描き加えたとされている。

 ここで自由の女神が三色旗を掲げて市民の先頭に立っている姿は寓意的で、革命を象徴する絵画であるが、激しい動勢に高揚する人間の感情そのものを主題にしている。ドラクロワは「われわれが描くべきものは、眼のためでなく心のために作り出すのである」と言っている。劇的な躍動感がドラクロワ芸術の根源であり、生き生きとした人間群像と確かな描写力がこれを支えている。

アルジェの女たち

1834年 

ルーヴル美術館

サルダナパロスの死

1827年 395×495cm | 油彩・画布 |

パリ ルーヴル美術館

 1827年のサロンに出品され、異常なほどの批判を浴びた。この作品は英国の詩人バイロンの詩集「サルダナパロス」に着想を得て描いた作品である。サルダナパロスは古代アッシリア帝国の最後の王の異名である。

 バイロンの詩集では、サルダナパロスは民衆のためを望んだ王で、反乱軍の謀略によって失墜する王の最後は毅然として態度を崩さず、自ら火葬の階段を登ってゆく高貴な姿で書き出されている。

 しかし本作に描かれるのは全く逆で、画面上部左側へ配されるサルダナパロスは鮮やかな赤色の敷布で覆われ黄金の象の寝具で片肘を突き、寝そべりながら周囲の光景を無表情・無感情で眺めている。王の周囲では命令によって臣下や近衛兵、奴隷らが、財宝を破壊し、寵姫や寵馬など王のための全てを殺害する極めて暴力的な様子が描かれている。さらに画面上部や右部分はサルダナパロスが火葬される処刑台が描かれている。

 本作が批評家たちから激しく攻撃されたのは、遠近法を無視した空間、激情的な運動性、過度に鮮烈さを感じさせる色彩、東方趣味的な主題選定、破壊的で改革的な思想、狂乱的な官能性など、当時理想美とされていた古代ギリシア・ローマに基づく保守的な様式と対極にあったからである。

 しかしこれらの要素こそがロマン主義の本質であり、当時のフランス美術界における「反義」そのものである。故にこの作品は今なおロマン主義絵画の最高峰と位置づけられている。なお本作がサロンで公開された際、当時の美術大臣が「公的な仕事を請けたければ、別の表現で描かなければならない」と警告したとされている。

ハムレットとホレイショー

1839年 ルーヴル美術館

モロッコのスルタン

1845年 オーギュスタン美術館

母虎と戯れる子虎

1831年 ルーヴル美術館

 エビのある静物(大海老と狩りと釣りの獲物のある静物)

1826-27年 81×107cm | 油彩・画布 | 

 

ルーヴル美術館(パリ)

 

 ドラクロワが1825年の5月末から8月まで滞在した英国から帰国した直後に描かれた。本作品は1826-27年のサロンへ出品され、牧歌的で雄大な風景の中へ赤々とした大海老、野鳥、野兎、猟銃、籠網などを置いた静物画作品である。

 前景となる画面下部は写実性の高い細密な描写で獲物を描いており、その奥には猟銃など狩猟道具が置かれている。16~17世紀のフランドル絵画やネーデルランド絵画の影響を感じさせる。画面最下部へは一匹の蜥蜴が、野鳥の方へ向かうような姿で加えられており、静物画としての本作に生命感を与える効果を生み出している。

 画面中景から遠景にかけては、清々しい物語性を感じさせる風景が広がっており、画面前景の静物と不思議な違和を生み出している。このやや唐突な構図はドラクロワの野心的展開が示したものとして注目すべきである。画面全体から醸し出される雰囲気は20世紀の前衛芸術にも通じる、超現実主義(シュルレアリスム)な印象すら受け取ることができる。さらに大海老に用いられる赤紅色と青々とした空の色彩的対比、画家の力動を感じさせる筆触など見所は多い。

白い靴下の裸婦(白靴下の女)

1825-26年頃 26×33cm | 油彩・画布 | 

 

ルーヴル美術館(パリ)

 

 ドラクロワの最も官能性豊かな作品のひとつで、1832年のサロンへの出品作としても知られている。白い靴下を履いてベッドに横たわる裸婦を描いた作品で、約26×33cmと小品ながら画家の裸婦画の傑作とされている。

 頭部から足先へ流れるように裸婦が対角線上に配され、画面中央部には女性面を感じさせる下腹部を強調するかのように描かれている。両腕で頭を抱えるような裸婦の姿は、ゴヤの「裸のマハ」と比較されるが、対角線上に配される裸婦は画面の中へ躍動感を与え、観る者を誘うような裸婦の肉感を強調している。この対角線的配置は同時期に手がけられた「サルダナパロスの死(サルダナパールの死)」にも用いられている。

 さらにベッドの周囲の真紅のカーテンの色彩は、艶かしい裸婦や彼女が履く白い靴下、ベッドの白色、ピロー(枕)部分や陰影部分に用いられる黒色に近い色彩と見事な対比を示している。

 細部に注視しても、裸婦の左腕部分やピロー部分などで、下地として対色となる寒色を置くことで色彩の彩度を強調している。この色彩の中に新たな色彩を見出す感覚、観察力は「色彩の魔術師」と謳われたドラクロワ作品の真骨頂である。

女とオウム(オダリスク、おうむと女)

1827年 24.5×32.5cm | 油彩・画布 | 

 

リヨン美術館

 

 1827年に制作されたドラクロワの裸婦作品。ロール嬢を裸婦のモデルにした作品で、ロール嬢はほぼ同時期の「ミソロンギの廃墟に立つギリシア」でもモデルを務めている。画面中央に配されるやや緑色を帯びた青色の長椅子にゆったりと横たわる裸婦は、左手を床に着くほど脱力させ、やや節目がちに視線を傾けながら、一羽の鸚鵡(おうむ)へと手を伸ばしている。

 裸婦の脚は左足を上にして組まれているが、下になる右足は質の良さを感じさせる座布団の上に置かれている。裸婦の身に着ける腕輪、頭部の面紗、首飾り、そして柔らかく座る長椅子や鸚鵡などは当時の東方趣味を感じさせる。本作において注目すべきは色彩の豊かさにある。縦24.5cm、横32.5cmとドラクロワの作品の中では非常に小作な部類に属するが、用いられる色彩、画面左側の赤色と黄色のカーテン、青色の長椅子とそこへ掛けられる大きい葡萄色の織物と、大胆に用いながら画面全体としては非常に気品高い雰囲気を与える。さらに裸婦のしなやかで丸みを帯びた身体へ落ちる微妙な陰影の変化がドラクロワが使用する色彩を効果的に引き立て、流動的でやや大ぶりな筆触によって女性の姿には華やかな生命力を見出すことができる。

ミラボーとドルー=ブレゼ

1831年 177×101cm | 油彩・画布 | 

ニイ・カールスベルク彫刻館

 フランス革命直前に、三部会に集った第三身分者(民衆)たちに対する解散と退去という国王の勅命をドルー=ブレゼ公爵が第三身分者らへ伝達するが、「我々は民衆の意思によって此処に在る。銃剣を用いぬ限り我々を追い出すことは叶わぬ」と勅命に反抗した、フランス革命の指導者オノーレ・ミラボー伯爵の有名な一場面を描いた作品である。

 右側に王党派の第二身分者(=貴族階級者)が玉座を背景に国王の勅命を第三身分者へ伝達する姿が描かれ、それと対峙するかのように画面左側へは大勢の第三身分者らとミラボー伯爵が断固たる態度で明確な反抗の意思を示している。このフランス革命においてあまりにも名高い逸話「球戯場の誓い(テニスコートの誓い)」直後の第三身分者と第二身分者の相容れない張り詰めた緊張感、第三身分者らの静かに燃え上がる革命への熱い想いが伝わってくる。

ヴァイオリンを奏でるパガニーニ

1831年 45×30.4cm | 油彩・画布 | 

フィリップス・コレクション

 パガニーニはイタリア出身のロマン派のヴァイオリニストで、作曲者でもある。あまりにも卓越したヴァイオリンの演奏から「悪魔に魂を売り渡して手に入れた」と実しやかに噂された。そのパガニーニがパリのオペラ座でおこなった独奏会時の姿を描いた作品である。文学や音楽をこよなく愛していた教養高いドラクロワの趣味的傾倒を見出すことができる。ヴァイオリン演奏に没頭するパガニーニの姿のみが描かれる簡素な画面構成が用いられている。パガニーニの肌は浅黒く痩せこけていたとの風貌を一見して連想することのできる。

ポワティエの戦い

1830年 114×146cm | 油彩・画布 | 

ルーヴル美術館(パリ)

  歴史的な戦争画作品で、フランスの王位継承をめぐって同国とイングランド王国の間におこった「百年戦争」の中のひとつの戦いで、1356年9月19日イングランド王エドワード黒太子がフランス・国王ジャン2世を破り捕虜にしたポワティエの戦いの場面が描かれている。

 画面中央やや左側の最も明瞭な光の中に描れるのが国王らしく黄金の衣服(甲冑)に身を包みながら敗色濃厚な戦いを鼓舞するようにフランス軍を指揮している。ジャン2世の傍らにはイングランド軍と果敢に戦う当時14歳のフィリップ2世の姿が描かれている。そして画面右側や画面最前景にはフランス軍へ攻め入るイングランド軍の兵士らが躍動感に溢れる姿で配されている。

 画面左から対角線となる右下がり的に流れる登場人物の配置や高い運動性、強い明暗対比による劇的な場面展開、物語性を感じさせる背景や空の色彩表現、そしてジャン2世が主役とひと目で理解できるよう、本作の中で唯一人、地平線より上に頭部が描かれるなどドラクロワの様々な表現が示されている。

フレデリック・ショパンの肖像

1838年、ルーヴル美術館所蔵

リンボ

リュクサンブール宮図書室の天井画