ドガ

エドガー・ドガ(1834年〜1917年)
 エドガー・ドガはパリで銀行家の息子として生まれた。ドガ家はフランス革命後に勢力を伸ばした新興ブルジョワであるが、ドガが生まれた頃はさほど裕福ではなかった。1855年、ドガは官立美術学校でアングル派の画家ルイ・ラモートに師事し、イタリアを訪れ古典美術を研究している。
 1874年以来、ドガは印象派展にたびたび出品し、1862年にマネと知り合ってからは「カフェ・ゲルボワ」の画家グループにも参加している。しかし光と影の変化をキャンバスに描くるネのような印象派の画家たちとは異なり、ドガの基盤はあくまでもルネサンスの巨匠やアングルの画風にあった。古典的手法で現代の都会生活を描き出すことから、ドガは「現代生活の古典画家」と自らを位置付けている。ドガも他の印象派の画家たちと同様、浮世絵、特に葛飾北斎の影響を受けていてる。ドガは印象派の画家たちが実践している芸術の近代化、さらにかつての巨匠たちの偉大な業績を守りたかったのだろう。伝統の中でデッサン、構成、豊かな色彩を鍛錬したエネルギーが、芸術家としてのドガを輝かせ続けた。
 ドガの初期の作品は海辺の情景画なであったが、1870年代後半からは客と娼婦たちの姿を多く描いている。そして1880年代半ば以降は、閉ざされた部屋で日々の身づくろいをする女性を描いている。野外の風景を描いたのは、競馬場など人々の多く集まる場所に限られ、ドガの関心は都会生活の中の人間にあった。

 ドガは普仏戦争に従軍し、寒さで目をやられ、俗に「まぶしがり症」といわれる網膜の病気を患い、外に出ることをいやがった。
 そのためバレエの踊り子と浴女を題材にした作品が多く、彼女らの見せる何気ない動作を素描することに優れていた。写真にも関心を持ち、マラルメとルノワールが並ぶ有名な肖像写真が残されている。

 40歳ごろまで「働いて収入を得る」ことの意味すら分からないドガであったが、銀行家の父が負債を隠したまま亡くなり、兄が事業に失敗したため、その負債を返済するために大量に絵を描く必要があった。のちの印象派展の開催に熱心に動き、印象派展8回中7回も作品を出品している。また晩年は視力の衰えもあり、人形として使用した踊り子、馬などを題材にした塑像や彫刻作品を残している。それらはドガの死後、アトリエから発見された。
 また気難しく皮肉屋のため、画家仲間との衝突が絶えなかった。晩年はドレフュス事件で有罪を主張したため、ゾラなどの数少ない友人を失った。ドレフュス事件とは「ユダヤ人であるフランス陸軍大尉がスパイ容疑で逮捕された冤罪事件であり、根底には反ユダヤ思想があった。ドガの友人作家ゾラは冤罪を主張したが、名誉毀損で告発されたためスペインへ亡命を余儀なくされた。

オペラ座の稽古場
(ル・ペルティエ街のオペラ座のバレエ教室、踊りの審査)
 1872年 32×46cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

踊りの花形
(エトワール、又は舞台の踊り子)
 1878年頃 60×44cm | モノタイプ・パステル |
オルセー美術館(パリ)

 ライトを浴びながら観客にあいさつするプリマ・バレリーナである。自らの演技の余韻に酔いしれるように、頬を紅潮させ前脚を曲げたあいさつのポーズをとっている。衣装や髪飾りに配された花も黒のチョーカーも、歌うように幸せそうで可愛らしい。
 下からの光が舞台を浮かび上がらせ、カーテンにかくれた演出家や踊り子たちがじっと見守っている緊張感、桟敷席から斜めに見下ろした視線で描かれている。夢見るように顎を上げたバレリーナの白い前脚の筋肉の付き方までよく描かれていている。美しい絵画に感動してしまう。画面を大胆に切って、主役の彼女をあえて中央に置かないことは、絶えず新しいことを試み、描き続けるドガの情熱を感じさせる。

 当時のバレエ界は私たちが想像するような上品な世界ではなかった。バレリーナの多くは貧しい家に育ち、バレエの技術ではなく容貌でバレリーナに選ばれたのである。観客のほとんどが男性で、彼らは愛人を探すためにバレエを見ていたのである。本作品でもバレリーナの後ろにパトロンらしい男性がいる。このようにドガはバレリーナの美と風俗を描いたのである。

舞台の2人の踊り子
 1874年頃 62×46cm | 油彩・画布 |
コートールド・コレクション

 バレエの踊り子(バレリーナ)を画題とした作品で、本番公演の最中を描いたものか、練習の場面なのかは定かではない。しかしドガの卓越した個性的な絵画表現が随所に示されていている。やや高い視点から描かれる2人の踊り子は互いに視線を交わし、バレエの基本的なポーズをとっている。ドガの鋭い観察眼によって感情豊かに描かれるその表情は練習中のようなおだやかな雰囲気を見せるが、姿態のの要所要所ではきびきびとした肉体的緊張が感じられる。また2人の踊り子を画面中央から右側にかけて配し、左側の空間を大きくとった独特な構図成は、日本の浮世絵の影響である。さらに本作に登場する2人の踊り子は、オルセー美術館が所蔵する「舞台のバレエ稽古」や、メトロポリタン美術館が所蔵する「バレエの舞台稽古」にも登場している。画面の中で人物を明瞭に照らす人工的な光や光源、その中で用いられる色彩の描写、背景の荒々しくも自由闊達な筆触などはドガの特長とされている。

舞台のバレエ稽古
 1874年頃 65×81cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

 舞台でリハーサルをしている踊り子たちの一瞬を美しくとらえている。中央で踊り始めた踊り子たちの肉体と精神の緊張、そして左側前景で踊り終えた少女たちの緊張がゆるんだ瞬間、この両者の対比が鮮やかである。

 下からのフットライトに浮かび上がった踊り子たちは、色を抑えた幻想的な世界の中で動きを止めているが、次の瞬間には違う動きをしそうでこの瞬間は二度とない。舞台の中央で順番が来て躍り出した踊り子の不安定な姿勢は、次の安定な姿勢に向かって動こうとするようである。不安定の中の安定こそがドガ独特の世界でである。ドガは「運動するもの」の瞬間をとらえることにすべてを捧げていた。運動とは「あるものが今ここにあって、同時にここにない状態」であるが、ドガは運動するものの一瞬に魅せられ、瞬間に対し飽くなき探究と興味を抱いていた。夢幻的な光の中の踊り子たちも、ドガの絵筆によって一瞬動作を止め、そのまま永遠に凍結させられたようである。瞬間をより美しくみせる写真のような芸術である。

ダンス教室(バレエの教室)
 1875年頃 85×75cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

 ドガは数多くのバレエの絵画を描いているが、この作品は熱心な収集家だった当時のバリトン歌手ジャン・バティスト・フォールの依頼により描かれ、近距離から描かれる踊り子と奥の壁際の踊り子らとの構図の展開は、観る者に強い印象を与える。本作の主題「踊り子」は、視力の低下や、普仏戦争、パリ・コミューン(労働者階級の自治によって誕生した革命政府・民主国家)からの社会的不安を感じたドガが1872年10月から約半年間、アメリカへ旅行した後に描かれた。米滞在による芸術活動の影響はないされているが、これ以降に秀作が数多く描かれている。ドガは踊り子を個別にデッサンし、構図や配置を計算しながら登場人物を合成しており、画面中央にバレエ教師ジュール・ペロが指導する踊り子たちの、本番では決して見せない日常的な姿や人間性に溢れた仕草が、ドガの鋭い観察眼によって示されている。また本作をX線調査した結果、人物配置など当初の構想から大幅に変更(描き直し)されていたことが判明している。なおメトロポリタン美術館に、ほぼ同構図の作品が所蔵されている。

オーケストラ席の音楽家たち
(オーケストラの楽士たち)
1870-72年頃 69×49cm | 油彩・画布 |
フランクフルト市立美術研究所

 ドガの父はアマチュアの音楽家で、週末に友人のオーケストラメンバーを招いていたので、ドガは幼少から音楽に触れる機会が多かった。ファゴット(木管楽器のひとつ)奏者デジレ・ディオとの交友によって、1860年代後半からオペラや舞台の雰囲気に強い興味を示すようになった。本作では画面ほぼ中央から上下に舞台と演奏場が分かれた奇抜な構図が用いられていて、画面下部の前景ではヴァイオリン奏者(左)、チェロ奏者(中央)、オーボエ奏者(右)の頭部と上半身が描かれ、まるで肖像画のような趣がある。また画面上部の舞台上でお辞儀をするプリマバレリーナが身に着けた衣装は、下から照らされるガス灯の光によって人工的な輝きを放っている。これらの表現が示す近代性、奇抜性、幻惑性、平面性などは、画家の絵画情勢に対する鋭い考察と観察によるものである。

オペラ座のオーケストラ
1868-69年 56.5×46cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

アプサントを飲む人
(カフェにて)
1876年 92×68cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

 第3回印象派展(1877年)に出品された本作品である。ドガの友人で女優のエレン・アンドレが、パリのカフェ「ヌーヴェル・アテーヌ」でアプサントと呼ばれる度の強い蒸留酒を飲む姿と、その傍らに彫刻家で禁酒主義者であったマルスラン・デブータンの姿を描いた作品である。ドガにしては珍しく人体が動きのないポーズであるが、顔面の表情を生々しくとらえている。

 ドガは印象派展出品当時この作品を「カフェにて」と呼んでいたが、女性の前にアプサントが、男性の前にはコーヒーが描かれ、ドガの辛辣な現実社会への観察が示されている。カフェにおける朝食時の日常の場面であるが、これはパリに蔓延し社会的な問題になっていたアルコール中毒を克明に描写したものである。本作は公開当時、「不快極まりない下劣な絵」、「胸が悪くなる酔っ払いが描かれた不道徳な絵」などの酷評を受けるが、今日では印象派を代表する作品として広く知られている。また写真を思わせるような唐突に切り取られた構図はドガの特徴であり、気だるく憂鬱なパリの朝の雰囲気をだしている。

 男はよそを見ており、女性は心ここにあらず遠くを呆然と見ている。アプサントとは日本流にいうと焼酎である。落ちぶれた女性とその表情が生々しい。

ベレッリ家の肖像
 1856-1860年 200×253cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

ニューオリンズの事務所の人々
(綿花取引所、オフィスでの肖像)
 1873年74×92cm | 油彩・画布 |
ポー美術館

手袋をした歌手
(カフェの歌手)
1878年頃 52.8×41.1cm | テンペラ・パステル・画布 |
フォッグ美術館

カフェ・コンソール(犬の歌)
1876-1877年 57.5×45.5cm | モノタイプ・アクリル/グワッシュ |
メトロポリタン美術館(ニューヨーク)

競馬場の馬車(プロヴァンスの競馬場)
1869年頃 36.5×55.9cm | 油彩・画布 |
ボストン美術館

室内(強姦)
1868-1869年81.3×114.4cm | 油彩・画布 |
フィラデルフィア美術館

 この穏やかでない作品は、内的葛藤と性的対立を表現している。考えこむ人物を部屋の両側に押しやりながら、極端な遠近法によって彼らを強く結びつけ、ふたりが堪えがたいまでに窮屈な空間に閉じこめられていることを暗示している。室内の神秘的な物事によって隔てられ、それでいて緊迫した重苦しい雰囲気は、ランブと炉火の奇妙な輝きによってさらに際立っている。ランプと炉火の奇妙な輝は、女の肩の官能的な美しさに明るい光を当て、男の背後の不吉な影を目立たせている。ドガはとくにこの作品を愛好していた。これを「私の風俗画」と呼び主題の説明を拒絶したのである。

 フェルナンド座のララ嬢
1879年頃 117×77.5cm | 油彩・画布 |
ロンドン・ナショナル・ギャラリー

 ドガはパリのロシュアール大通りのフェルナンド・サーカスで曲芸を披露している混血の軽業師ララのスケッチを何枚か描いている。ここでは歯でローブをつかんだララが、天井の滑車から吊り下がってい様子を描いている。この作品はドガが瞬間の動作をとらえた、驚くような瞬間である。下にいるサーカスの観客たちの上向きの視線を共有することになり、その迫具性は思いがけない視角によって強められている。この作品は入念な準備と正確な細部への配慮がなされている。これには先行する数点の人物のスケッチがあって、ロープを引っ張る身体の重さまで分析して描いている。また、舞台や木製の屋根の構造、人工照明の効果についてバランスよく描かれている。この作品は、1879年の第4回印象派展に出品された。

風 景
1892年頃 51×50.5cm | パステル・厚紙 |
ヒューストン美術館

アイロンをかける女たち
1884-86年頃 76×81.5cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

 アイロンがけに疲れ、思わず大きなあくびをする白い衣服の女性の無防備な一瞬をとらえている。彼女が握っているワインの空き瓶は、糊付けをしたシャツの型として用いられていたのか、あるいは重労働を紛らわせるためのワインだったのかもしれない。隣の桃色の衣服の女性は力をこめて両手でアイロンをかけているが、この二人筋肉の緊張と弛緩という肉体の対比が対照的である。

 ドガはパリのアイロンがけの女性を多く描いている。当時のパリは都市整備のためにセーヌ川での洗濯が禁止され、代わりに蒸気による洗濯屋が生まれて発達したが、洗濯屋の女性の労働条件はかなり過酷であった。ドガの主題は踊り子、カフェの歌手、裸婦、洗濯屋の女性など気品に関わらず、あらゆるものが芸術表現の主題となった。ドガは多作で特定の主題を繰り返し描き直したが、残酷なほどの人間観察者でもあった。それはドガのプロとしての姿勢だったのだろうが、人間の動作の瞬間をまったくの偶然の瞬間のように画面に定着させることを自覚していた。 

浴盤(たらいで湯浴みする女)
1886年頃 60×83cm | パステル・厚紙 |
オルセー美術館(パリ)