ロートレック

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
(1864年 ~ 1901年)
 名門伯爵家の子供として
フランス南西の都市アルビで生まれる。祖先はカルル大帝の時代までさかのぼる名門で、また裕福であった。父のアルフォンス伯は、奇妙な服装をするなど変わり者として有名であった。
 ロートレックは幼少時から学習帳などにスケッチや風刺漫画を描くほど絵が好きだった。しかし生まれつき骨が弱く、12歳と13歳の2度にわたって足を骨折し、それ以降、下半身の成長が止まってしまう。骨折で療養中に暇を紛らわす為に好きだった絵画に熱中し、精力的にデッサンや油絵を描くようになる。

 17歳の時、画家になることを決意し、パリに出て本格的に絵の勉強する。モンマルトルにアトリエを借りて絵画にいそしみ、若きエミール・ベルナールと出会うが、しだいにナイトクラブ(娼館)に入り浸る生活をするようになった。夜更かしをして、飲んで食べてしゃべって、そして絵を描く生活を繰り返していた。ロートレックの絵画やポスターにナイトクラブを描いたものが多いのはそのためである。ロートレック自身が身体障害者で差別を受けていたこともあって、差別や劣等感を持ちやすい娼婦や踊り子のような夜の女性たちに共感を覚えていた。パリの「ムーラン・ルージュ」をはじめとしたダンスホール、酒場などに入り浸り、退廃的な生活を送るようになる。そして夜の女性達を愛情のこもった筆致で描いている。

 ロートレックは常にスケッチブックを持ち歩き、人や情景の一瞬のしぐさやを素早く描きとめていた。彼はデッサンに優れ、ポスターや絵画にも一瞬のしぐさや様子が描きとめられている。このことがロートレックの絵画がいきいきしている要因なのであろう。

 画家ドガも同じように多くの娼婦を描いたが、描く娼婦たちはあくまでも第三者であったが、ロートレックは一人ひとりの名前が特定できるほど彼女らの内面まで描き出している。ロートレックは娼婦たちの間に壁をつくることがなかった。1886年、パリに出てきたばかりのゴッホに出会う。ゴッホにアルル行きを勧めたのはロートレックである。

 ロートレックは他の画家たちと違い、油絵以外にポスターや雑誌の挿絵を多く描いている。 当時のポスターは、紙に絵を描いて印刷したのではなく、石版に原画を描いて印刷していた。今のようにたくさんの色を使えず、ロートレックは3から4色しか使っていない。少ない色と単純に見える線でユーモアたっぷりの絵に仕上げていく。ロートレックはポスターを数多く手がけ、ポスターを芸術の域にまで高めた。大衆的で実用性の高いポスターの芸術性の向上に貢献し、たくさんのポスターを描き、ポスターの名作も多い。しかし30歳くらいからロートレックは病気にかかり、さらに飲み過ぎで体調を崩すようになる。
 もともと虚弱なうえに、アルコール依存症から入退院を繰り返し、35歳には
幻覚を見るようになる。それでも退廃的な雰囲気のなかで絵を描き続けたが、病気は治ることなく母の城で36歳の若さで死去する。母親はアトリエにあった作品をアルビ美術館に寄付し、アルビ美術館はのちにロートレック美術館と言われるようになる。ロートレックを扱った映画として1999年のフランス映画「葡萄酒色の人生」がある。


ムーラン通りのサロン
1894年

トゥールーズ=ロートレック美術館

 ソファでくつろぐ女性たちは、客待ちの娼婦である。右端には下着をたくし上げた後ろ姿の女性。そして肌を見せずに背筋を伸ばしてすわっているのは、この高級娼館の女主人かもしれない。ロートレックは娼婦館をテーマとして50点以上を描いているが、この作品はその中でも頂点をなす大作である。

 美しい色彩、早描きの確かな線、無駄のない構図に引き込まれる。手前の女性の右肩から左脚への線と、奥にある大きな円柱から左下へ伸びるソファの継ぎ目の線がゆったりとした三角形を作り、奥行きと安定感を与える。円柱を囲むように置かれたソファはくすんだ深紅色で、女性たちの重そうな体を深々と受け入れている。隣にいてもお互いに語り合いこともなく、物思いにふけりこむような、心ここにないような、独特な静寂がある。ロートレックが描く夜の女性たちは、個性的でありながら孤独で虚無的である。


ムーラン・ルージュの踊り
(ムーラン・ルージュにて、踊り)
1890年 | 油彩・画布 | 115×150cm |
フィラデルフィア美術館

 ムーラン・ルージュの情景が描かれているが、右側の緑色女性の顔がインパクトがある。店のライトに照らされている女性を描くことで、店のあやしげな雰囲気が伝わってくる。この右側の女性はあとからキャンバスに付け足して描いている。この顔があるのとないのとで絵画の印象が変わる。


二日酔い1888年(ケンブリッジ フォッグ美術館)     洗濯女 1884(個人所有)

 ここに描かれている女性モデルはユトリロの母親ヴァラドンである。ヴァラドンは洗濯女の私生児として生まれ、1870年に母マドレーヌとともにパリへ移り住み、10代の初めから様々な職に就いた。一時、サーカスのブランコ乗りになるが、ブランコから落ちて負傷、10代後半から絵画モデルになる。ロートレックの上記作品以外に、 ルノワールの「ブージヴァルのダンス」、「都会のダンス」、シャヴァンヌの「聖なる森」などに描かれている。モデルにながらロートレック、ルノワールと愛人関係になっている。

 ロートレック、ルノワールなどの画家の仕事に接しているうちに、彼女もまた画家を目指すようになる。18歳の時、息子ユトリロを生むが、実父が誰かわかっていない。ヴァラドンと同棲していたロートレックは、ヴァラドンの力強いデッサンを高く評価している。ヴァラドンはエドガー・ドガのもとで油彩と版画を学び、エリック・サティとも交際するが半年で破局している。

 サロンにデッサンを出品して、フランス国民美術協会女性初の会員になる。1896年、資産家のポール・ムージスと結婚。1909年、息子ユトリロの友人で、息子ユトリロより3歳年下の青年アンドレ・ユッテルを恋人にして、ムージスと離婚。1914年にユッテルと正式に結婚する。1932年、パリ最大の画廊で大回顧展を開催し、フランスの首相エドワール・エリオがカタログに序文を寄せる。1937年、彼女の主要作品がフランス政府によって買い上げられ、後にパリ国立近代美術館に所蔵される。1938年、自宅で倒れているところを隣人に発見され、病院へ搬送中に脳充血で死去する。