襟裳岬

襟裳岬
 作詞は岡本おさみ、作曲は吉田拓郎というフォーク全盛期を代表する黄金コンビによる作品である。フォークソングのイメージは森に合わない」「こんな字余りのような曲は森に似合わない」とされ、吉田拓郎もこれ以上直せないところまで推敲を重ね、当初はB面扱いだった。当時の森進一は、母親の自殺や女性問題から苦境に立たされていたが、この曲の3番の歌詞に感動した森進一が当時所属していた渡辺プロダクションのスタッフを押し切り、両A面という扱いに変更して発売した。
 累計では約100万枚]のレコード売上を記録し、森進一は本作で1974年の第16回日本レコード大賞と、第5回日本歌謡大賞の大賞をダブル受賞。ライバルの五木ひろしに先を越されていただけに、森進一の喜びようは尋常ではなかった。さらに同年の第25回NHK紅白歌合戦において初めての大トリを飾った。また、その紅白ではレコ大からの移動で慌てていたこともあり、ズボンのファスナーを開けたまま歌唱した。
 ヒットした当時、襟裳岬のあるえりも町の人々は、サビに登場する「襟裳の春は何もない春です」という歌詞に、反感を持つ人も少なくなく、抗議の電話もあったが、やがて襟裳の知名度アップに曲が貢献するとおのような感情もなくなり、森進一はえりも町から感謝状を贈られた。1997年にはえりも町にこの歌の歌碑が建設され、その記念に同年の紅白でも歌唱された。
 フォーク界との融合による本作の成功は、以後の歌謡曲界に大きな影響を及ぼした。本作以降、フォーク系シンガー・ソングライターが歌謡曲・ポップス系や演歌歌手に曲を提供するケースが目立って増えるようになった。
 昭和22年、森進一は山梨県甲府市で生まれる。母子家庭に育ち、沼津、下関などを転々とした。最終的には母の郷里の鹿児島に落ち着き、鹿児島市立長田中学校卒業と同時に集団就職で大阪に出てきた。金の卵と呼ばれた若年労働者として、家族に仕送りするために少しでもいい賃金を求めて17回も職を替えた。
 昭和40年、テレビ番組の「リズム歌合戦」に出場して優勝。チャーリー石黒にその才能を見出され、渡辺プロダクションに所属した。芸名の名付け親はハナ肇であり、本名の「森内」と「一寛」から一字ずつ取り、渡辺晋のシンを進と読み替えて合成した氏名であった。
 元は普通の声であり、ルックスもよいことからポップス系でデビューさせる予定でいた。しかし個性が弱いとして、チャーリー石黒は売れるためには声を潰し、演歌を歌うしかないと森を説得。翌1966年、猪俣公章作曲、吉川静夫作詞による「女のためいき」でデビューした。「恍惚のブルース」でほぼ同時期にデビューした青江三奈と共にため息路線として売り出された。猪俣はその後の彼の数多くの代表曲を手がけることになる。美声歌手が主流だった当時の歌謡界において、かすれ声で女心を歌う森のデビューは衝撃的であり、世間からは「ゲテモノ」「一発屋」と酷評された。しかしその後も「命かれても」「盛り場ブルース」と立て続けにヒットを重ね、ついにはデビュー3年目の1968年、ヒット曲「花と蝶」で第19回NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。
 演歌歌手という括りで扱われることが多いものの、本人は演歌歌手と呼ばれるのは不愉快で、流行歌手であるとしている。そのため、演歌の枠に捉われず常に新たな音楽の領域に挑戦している。
 1968年『第19回NHK紅白歌合戦』に初出場して以来、2014年(第65回)の紅白まで47回連続出場をしており、これは連続出場記録としては紅白歴代第1位の記録である。大原麗子、森昌子との結婚歴があり(いずれもその後離婚)、昌子との間に3人の息子がいる。