ミレー

ジャン=フランソワ・ミレー
 ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)は、フランス北部ノルマンディー地方の小村グリュシーに生また。両親は農民で、敬虔なカトリック教徒で、ミレーは 8人兄弟の長男で、父は村の教会の合唱指揮者かねていた。小さい頃は村の牧師の手ほどきを受けラテン語と文学を習っている。1933年に両親の賛同を得て画家となるため生まれ故郷の近くの港町シェルブール絵の修業をはじめる。その後パリの美術学校へと進み、アカデニスムの大家に師事し、本格的に画家として活動すえう。1840年にサロン初入選をはたした。

 アカデミーの画家たちに学んできたため、当初はロココ風の華やかな画風でしたが、しだいに労働者、農民なども描くようになる。

 1849年、パリでコレラが流行したため、バルビゾンへ移住する。 バルビゾンはパリからおよそ60km南に位置するフォンテーヌブローの森のはずれにあり、農地や森に恵まれた土地である。 この地でミレーは有名な「落ち穂拾い」「晩鐘」(共にオルセー美術館蔵)などを制作した。

 バルビゾン村に定住し、風景や農民の風俗を描いた画家たちを「バルビゾン派」と称するがミレーはその代表的な画家である。ミレーのほかルソー、ディアズ、トロワイヨンなどがいる。バルビゾン派の中で大地とともに生きる農民の姿を、宗教的感情を込めて描いたミレーの作品は、早くから日本に紹介され、農業国の日本人には特に親しまれてきた。ミレーの代表作である「種まく人」が岩波書店のシンボルマークとして昭和8年から採用されている。昭和52年にその「種まく人」が日本で展示された時は大きな話題になった。
 

 その後、ミレーは19歳の時、グリュシーから十数km離れたシェルブールで絵の修業を始め、22歳からパリへ出て、奨学金を得たミレーはエコール・デ・ボザールに入学、新古典主義の巨匠ポール・ドラローシュのもとで学ぶことになった。デッサンや模写のほか、聖書や神話などの画題となる古典文学を学んでいる。この頃のミレーは、マニエル・フルーリ(華やかな手法)と評され、繊細で柔らかなタッチと明るい色彩が特徴で、神話画などを手がけている。
 1839年、はじめてサロンに出した作品が落選、それでも頑張って翌年のサロンには「ル・フラン氏の肖像」を入選させた。しかし奨学金が切れ、生活は貧しく肖像画や裸体画を描いていた。

 ある日パリを散歩をしていると、美術商の店先に掛けてあるミレーの裸体画を、2人の男が眺めているのに出くわした。「この絵は誰が書いたんだい?」「ミ レーって男さ」「ミレー? どんな絵描きだい?」「いつも女の裸ばっかり描いていて、それしか能のないやつさ」2人の男はそう言って立ち去っていった。それを聞いていたミ レーは愕然とし た。金のために仕方ないとはいえ、裸体画ばかり描いていたので、世間では低俗な画家と評価されていたと悟った。ミレーは「もう裸体画は書かない」と心に決 めた。
 1841年、仕立屋の娘と結婚しパリに住むが、彼女は3年後に肺結核により病死する。さらにサロンも落選し、落胆したミレーはシェルブールに戻る。シェルブールに戻ったミレーはカトリーヌ・ルメールという小間使いの女性と知り合い同棲するようになる。1846年には同棲中のカトリーヌとの間に第1子が誕生すが、カトリーヌと正式に結婚するのは7年後のことである。

 パリに出たミレーはバルビゾン派と呼ばれる画家たちと知り合い、この頃のミレーは、神話などをモチーフとしてマニエル・フルーリと呼ばれる鮮やかな手法を用いていた。結婚以前の1849年、パリでコレラが流行したため、ミレーはバルビゾンへ移住を決意し、以後同地で制作を続けた。この頃には共和国政府から絵画の依頼もあり経済的にも安定してくる。カトリーヌとは1853年に入籍し、9人の子供をもうける。

 農民画に専念し、「種まく人」をサロンへ出品するのは翌1850年のことである。ミレーの代表作に数えられる「晩鐘」「落穂拾い」などの農民画はバルビゾン移住後の作品である。ミレーはドラクロワやその弟子アンドリウとも交流し、1864年には「羊飼いの少女」がサロンの一等賞を獲得し、1867年のパリ万国博覧会で名声を得たて、レジョン・ドヌール勲章を受賞している。

 ミレーの代表作のである「種まく人」は、晩夏に麦の種をまく農民にインスピレーションを受け、「ヨハネ伝」12章24節でキリストが「自分を「麦(信仰)の種」、神を「信仰という「種」をまく人」に喩えた話を絵画化したものである。大原美術館にある、故郷の海岸の風景を描い「グレヴィルの断崖」は、晩年の1871年頃の制作である。

 1875年にパリ郊外のバルビゾンにおいて、60歳で亡くなっている。

晩  鐘
1855-1857年 55.5×66cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

 ミレーが子供のころ、夕方の鐘が鳴ると、祖母は農作業の手をやめさせ帽子を脱ぎ、哀れな死者のためにアンジェラスの祈りをささげていた。そのような思い出を描いたのがこの晩鐘である。独特の低い視線で画かれ、逆光で2人の顔はさだかではなが、生きる為の労働を祈っているようにみえる。

 ミレーは農民画家といわれているが、ミレー自身農民の子として生まれ、家は貧しくミレー少年は農作業を助けて働いていた。ミレーにとって農業は単なる作業でなく尊い労働だったのだろう。風景よりも農民が主役で、労働で生きる尊さを表現するため、人物を手前に濃く描いている。

 作家のロマン・ロランは「この絵に音楽的な魅力がある」と述べているが、右奥にかすかに鐘楼が見える。本来ならば1日に3回(午前6時、正午、午後6時)に鐘がなり、「ミレ一は田舍の夕暮れの音である遠い鐘の声を、その絵のなかで聞かせようとしたのである。人間と大地との闘争がすんで、たそがれの広漠たる野にいる平和で詩的な寂しさと、素朴に祈る厳粛さとを感じる。

 ところでこの作品が完成する1859年、ミレ一は「死と樵夫」という作品をサロンに送ったが落選し、ミレーの家に薪はがない悲惨な状態だった。ところでミレーの死から10年後、ミレーの価値が認められ、絵の値段は高騰し、特にこの晩鐘はパリの競売場ですさまじい競争を巻き起こした。アメリカのロックフェラ一とフランス政府との争いにしぼられ、フランスが落札したときには「フランス万歳」の熱狂の声が群衆から起こった。しかし、あまりに高額のため、政府が支払いを認めず、アメリカに行く羽目になる。

 しかし1890年、ルーヴル百貨店の創始者が買い戻してフランスに持ち帰えりオルセ一美術館に移された。アメリカが購入し仏政府によって買い戻された。同国で公開されると同時にミレーブームが起こり、キリスト教伝道とともに明治時代の日本へ紹介された。当時、日本国内で最も良く知られる西洋絵画作品のひとつであった。サルバドール・ダリが主題として幾度も取り上げた作品としても知られている。

落穂拾い
1857年 83.5×111cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

 農民画家ミレーの名作として知られる。落穂拾いとは刈り取りの終わった畑に落ちている穀物を一粒、一粒拾っていく作業である。拾うことで、農地に落ち残った稲穂を拾い集める貧しい農民を描いている。

 この作品は1857年のサロンに出展されたが、農村の実情を知らない保守的な批評家たちから「貧困を誇張している」「社会主義的だ」さらに「畑に立っている案山子」などの批判を受けた。しかし描かれている3人の女性はこの畑の所有者ではなく、収穫後の田畑に散らばった稲穂や穀物拾っている貧しい農民である。

 聖書には落ちた穂は取ってはいけないと書かれている。しかしそれは「困った人たちのために、全てを収穫するのはやめまよう。落ちた穂は貧しい農民に分け与えなさい」という意味で、落穂拾いは女性や弱者の仕事であった。フランスでは落穂拾いは弱者の権利として定着しており、刈り入れの終了から日没までの間、落穂を拾うことが認められていた。落穂を拾う間は監督官が見張っていて終了の合図も監督官が出す。この絵の右上に馬に乗っているのが監督官である。

 落穂拾いをとり上げたミレーの作品は、政治的プロパガンダの意味合いをもつように評されたが、ミレーは自分は評論家ではないし、ただ自分が見た情景を率直に描いただけであると答えている。しかし、光と影によってみごとに縁取リされ彫刻のように浮かび上がる人物像とたコントラスト的効果をもつ背景の処置などに、ミレーの卓抜した技量が見てとれる。近景と遠景といった単純な対比だけを見ても、そのすばらしさを実感させられる。農婦の手の表情などはよく観察しなければ描けない表情がある。

 1856年から57年にかけて、ミレーは貧窮のどん底にあり、一時は自殺も考えていた。そういう時期に描かれたのがこの作品である。

羊飼いの少女

1862 -64年

81x101cm

パリ オルセー美術館

 1864年のサロンに出品して2等賞となり、大衆らも初めて高い評価を得た作品である。この作品はミレー芸術の集大成といっても過言でない。 晩鐘にも似た夕暮れに暮れゆく地平線や、バルビゾンの荒野の中で1本の木のようひとり直立する少女。立ちつくす少女の物思い。羊の群と地平の広がりに対して、垂直の立像を配して立体感と奥行きを強調している。

 この羊飼いの少女の示す詩的な静けさから無言歌が聞こえてくるかのようだ。1日の仕事を終えた人の営みと、羊たちの充足とともに、自然は幕をおろす直前の光を投げかけている。

種をまく人
1850年 | 油彩・画布 | 99.7×80cm |
山梨県立美術館(甲府)

 日が傾き夕闇が迫り、なにやら雨雲もわいてきた。急いで残りの分を蒔き終わらなくては、といった焦りと疲れが感じられる。顔は日焼けと土と汗でよく見えない。荒々しく、勢いのある作品。

種をまく人
1850年 | 油彩・画布 | 101.6×82.6cm |
ボストン美術館

 勢いよく畑に種をまく農民が。蒔き始めの元気の良さがうかがえる。顔もすがすがしく、ポーズも決まっている。画面いっぱいに力強く表現されています。サイズはボストンの方が2cmほど大きめである。


 1850年、ミレーはバルビゾン移住の翌年に二点の「種をまく人」を描いている。画面のサイズから構図までほとんど同じ作品を2枚描いていて、2枚のうち1枚はボストン美術館に展示され、もう1枚は山梨県甲府市の山梨県 立美術館に所蔵されている。どちらも模写ではなく本物である。ミレーの農民画は同時代や後世の画家に影響を与え模写されているが、特にゴッホはミレーに親 しみ、自分の作品のなかにミレーのモチーフや構図をそのまま取り入れている。ゴッホの「種をまく人」はミレーの作品を正確に模写し、ミレーとは異なる明る い色彩で描かれている。

 二点の「種をまく人」のうち一点を同年末のサロンに出品している。「種をまく人」は好評をもって迎えられたが、保守的な批評家からは、この時代の農民 反乱などの社会的事件から感情的に非難された。

 秋の夕暮れ、若い農夫が斜面の畝を下りながら冬小麦の籾を力いっぱいまいている。背後の畑には二頭の牛と農夫が夕日を受けながら畝溝を作っている。ヨーロッパ流のダイナミックな種まきであるが、中世の教会の装飾彫刻や写本の月暦図(10月)にその原型を見出す事ができる。またミレーがシェルブールでの修業時代に市の美術館で模写した作品としては、ヤコポ・バッサーノの『秋』があり、収穫図の背景に同様の種をまく人が描かれている(現在同市トマ・アンリ美術館蔵)。このボストン美術館作品は背景も日の高い青空であり、農夫のポーズも大股で腕も広げ、元気は満点、こちらに迫ってくるような対角線構図も効果的である。ミレーのアメリカ人弟子、モーリス・ハントが1853年にミレーから購入し、ボストンに運ばれて1917年からボストン美術館の名品に数えられている。
 山梨作品は1873年までミレーの親友A.サンスィエが所蔵、これもアメリカに売られて、デパート王ヴァンダービルトからフィラデルフィアの銀行に移り、「勤労精神のシンボル」として所蔵されていた。1977年のオークションで飯田画廊が落とし、山梨県企業局が購入。1978年オープンの県立美術館の守護神として、年間40万人の来館者を呼んだ。

 ミレーがなぜ同構図の『種をまく人』を二点制作したのか、またどちらがサロンに出品したのかは未だ判っていない。第1作のカンヴァスの上下の寸法が人物に比べて短い事をミレーが不満とし、第2作を描いてサロンに出品したとされている。またE・モロー=ネラトンは、第1作目(ボストン美術館蔵)の人物の右手がカンヴァスの縁に寄り過ぎたとして改作(山梨県立美術館蔵)し、それをサロンに出品したと述べている。しかしミレーがサロン出品作をその様に軽率に扱う事は疑問であり何か別の理由が秘められている可能性がある。ミレーは第1作目を失敗作としたのではなく、全く異なった効果を考えつつ、同構図の別作品のつもりで改作したのであろう。

 山梨県立美術館で1984年末にX線写真調査がおこなわれ、X線写真に表れた下絵は現在の画面よりも人体各部のプロポーションがボストン作品に近く、左上に車輪のようなものが描きかれ古いカンヴァスを使ったことが分かる。ミレーはまずボストン作品を描き、何らかの事情でもう一作を追加する必要に迫られ、新しいカンヴァスを用意する時間もないまま前作に似た人体構図の下絵を描いたが、ミレーは全く同じ物を作る気がなくなり、仕上げていく段階で効果を変えて現在の山梨作品のように直したと考えられる。
 X線調査の結果を見ればボストン蔵が第1作、山梨蔵が第2作は確定してよい。しかしサロンに出品したのがどちらかについてはわかっていない。
 結局現在これといった確証はなく、山梨蔵が有力であるが、アメリカ側の反論も有力である。確実にいえることは両作品ともにミレーが描いたということである。

 この「種まく人」はゴッホにも強烈な印象を与え、ゴッホが描く「種まく人」がある。ゴッホが南仏・アルルに滞在した時期の作品で、強烈な夕陽を背景に、農夫が種をまいている。遠くに見える黄金色の穂波も、手前の耕された畑も、沸き立つような筆致と色彩で描かれている。農夫はミレーが描く農夫のように、力いっぱい種をまいていて、農夫の動作は鮮やかな太陽の光りに負けないくらいに生命力に満ちている。ゴッホはミレーの「種まく人」のエッチングを所有していて、日ごろから色彩のある「種まく人」を描きたいといっていた。そして実現したのが、この鮮やかで強烈な色彩に満ちた「種まく人」だった。聖書の一節を承知していたゴッホは、畑の比重を大きくしているように思える。またアルルの陽光を強く意識している。ミレーの絵に比して、明るく、力強い光りが支配するゴッホ独特のイメージ世界になっている。

鍬(くわ)を持つ男

 1860-62年 油彩・カンヴァス  

マリブ、ポール・ゲッティ美術館

 ミレーの50歳直前のリアリズムに位置する作品である。1863年のサロンに出品されると酷評を受けた。疲れた農夫の醜さに非難が集中し、人間じやない、怪物だ、犯罪者だ、果てには殺人者だなどと勝手な悪口をたたかれた。ミレーがこのように苦渋に満ちた、また疲労し切った農夫を描いたことはなかった。社会正義への抗議を感じさせる。

 遠景の収穫の終わった明るい畑と、前景の石だらけの不毛な大地を極端に描き、収穫の恵みには、このようなつらい労働が必要なことを率直に表しているのであろう。

 ミレーは額に汗する人を見て、心に浮かんぶ着想を素直にえがいた。この真に迫る素直さが、絵としての魅力をはるかに上回る、尽きることのない偉大さを感じることができる。岩石だらけの所で、朝から喘ぎ声を出して疲れはてた男が、一息入れるためのほんのわずかな時間、そして再び身を起こそうとしている現実が、まばゆいばかりの光に包まれている。

馬鈴薯植え 

1861-62年 油彩・カンヴァス 

ボストン美術館

 ミレーは1851年にデッサンを描いている、全く別の作品の構図となっている。子供を木陰に寝かしつけ、作業にいそしむ夫婦は「落ち穂拾い」を描いたミレーなればこその存在感に満ちている。これも一種の「種をまく人」なのであろう。フランスでは馬鈴薯は下等な食物として蔑まれた。実際1862年この作品が展示されたとき、批評家はテーマが下品と非難したほどであった。これに対しミレーは「馬鈴薯や豆を植えるという仕事がなぜ他のものより貴いものでないと言えるのだろうか。このような画題でも、表現する手法にのみ貴賎があるのであって画題自体にはない。

月明かりの羊小屋 

1856 - 1860 年

ウォルターズ美術館

 ゴッホは羊の群れを白波が立つという言葉で表現しているように、羊の群れを描くのは難しい。ミレーはそれを可能にした画家である。羊の習性と光の技法を知らなければ描けないだろう。

 

1868-1873年

86x111cm パリ オルセー美術館

 この作品「春」はミレーの絵としてはめずらしく純粋な風景画 で、ミレーの家の裏庭から見たフォンテンブローの森を描いている。嵐にぬぐわれた空は濁って暗いが、別れを告げる冬を強調し、対照的に虹を描いて次にくる季節、春への橋渡しの役割をもたせている。すでに木々には、春の花が咲き始めている。陰と陽との強烈なコントラストには、 先年亡くなった友人テオドール・ルソ一や、風景画で知られるオランダの画家ロイスダール、イギリスの画家カンスタブ ルの影響が見られる。

 ミレーは生涯で3つの「四季」の連作を制作しているが、これは最後の四季の1点である。「四季」は春」から取り掛かり、「夏」「秋」を描き上げたが「冬」は未完のまま亡くなった。

烏の巣狩り人たち(灯明による鳥の巣狩り)

1874年 油彩・カンヴァス 

フィラデルフィア美術館

 1874年にミレーが病床から筆を入れていたのが本作品である。ちょうど制作中のミレーにインタヴューした会話が残されている。

「子供の時に野鳩の大群が木に泊まっていてね。夜になると灯明を待って,光で鳩の眼を眩まして,棒で何百羽と打ち殺したものだよ。もうその光景は見ていないが、絵を描けば全部目の前に浮かんでくる」

 鳥や動物に優しかったミレーがこのような殺戮のイメージを描くのは,単に子供の時を思い出したからというよりも何か事情があるのではないか、ミレーの翌年の死と宿命的に結びつける解釈がとられている。この作品でミレーは「人間の運命と、自らの野蛮さには盲目の、人間のアイロニーに対する怒りをぶつけるために全力を注ぎ込んだ」と述べている。子供時代に弱い動物いじめをするのは古今東西に等しい経験であろうが,ミレーの場合,些細な幼時の思い出でも,そこに現在の自分の心境を重ねている。

「グレヴィルの断崖」は、ミレーの故郷グリュシー村の近くにある。 晩年にいたるまでミレーは郷愁をもってこの断崖を何度も描いている。パステルで描かれ、光にあふれた自然の美しさが丹念に描かれている。ミレーはパステルから、油彩画の大作に仕上げるつもりだった。 

 児島虎次郎は、1922(大正11)年にパリの画廊でこの作品と出会った。農民たちの勤労生活や美しい田園風景を描いたミレーは、児島にとって憧れの画家であった。 東京美術学校時代、児島は下宿していた自分の部屋の壁にミレーの自画像の模写を掛け、それを励みに勉強していた。

 バルビゾンにあるミレーの家は、現在「ミレー記念館」となっているが、その一角に、「この家を訪れた画家たち」として、ミレーのアトリエを訪れた画家たちの名前や写真を展示されているが、児島虎次郎も写真とともに紹介されている。

井戸から戻る女 

1855-60年 油彩・カンヴァス 

姫路市、中村コレクション

 

 

 

 1860年、本作を含む多くの作品が展示され、特に本作は多くの人気を集めた。サンスィエの伝記によれば、この中でミレーが描こうとしたのは、「この女が水運びの女でも女中でもなく、家事に使うための水、夫と子供たちにスープを作るための水を汲んでくる女である。そして手桶一杯の水の重さを表現したかった。

 また彼女の両腕を引っ張る重さと日光による瞬きが、いかにも田舎らしい善良らしさを表している。女が水運びを苦役とせず、家の他の雑用と同じく、毎日の生活であり習慣でもあるような素朴さと善良さを成している。また井戸の古さから、遥か以前から多くの人々が、そこに水を汲みに来ていたことをもわかる。1999年秋、姫路市立美術館で初公開された中村コレクションである。


待つ人 

1860-61年 油彩・カカンヴァス

ネルソン・アトキンズ美術館

1861年のサロンに出品された3点中で批評家から最も酷評を受けた作品。ミレーの父は早く1835年に没し,祖母は1851年に,母は1853年に亡くなっているが,ミレーは1845年に故郷を出てから帰省しておらず,彼女らの葬儀にも出ていない。農家の長男としての責任放棄ばかりでなく,自分が今あるものも実家の犠牲に立っているという罪悪感が,事あるごとにミレーをさいなんでいく。特に故郷で孤独に残された母の苦悩と息子に対する愛情をミレーはバルビゾンで受けとめている。


 トビト書10-7の「トビアの帰郷」の冒頭の部分である。老母アンナは通りに物音が聞こえるたびに表に出るが,誰もいないのに落胆して家に入り泣き暮す。盲目の夫トビトはきっと息子は帰ってくると老母をなぐさめる。

 この作品は母の没年から準備されていた。母親を後ろ姿にした熟慮した周到な構図と夕日の色彩効果が当時のミレーの農民画でも稀な重厚感を生み出している。石造りの家はバルビゾンの住いと生家を合成してモデルとしており,玄関前の道路から右へ行くと上り坂になっている所はグリュシーに近い。ただし遠景の森はバルビゾン村の入り口から見たフォンテーヌブローの森である。ベンチで毛を逆立てる猫の扱い方も面白い。

自画像

1841年 油彩・カンヴァス      シェルブール、トマ・アンリ美術館

ポーリーヌ・オノの肖像 

1841-42年頃  油彩・カンヴァス

甲府市、山梨県立美術館

くつろいだポーリーヌ・オノの肖像

1843年 油彩・カンヴァス 

シェルブール、トマ・アンリ美術館

鏡の前のアントワネット・エベール 1844-45年 油彩・カンヴァス

八王子市、村内美術館

横たわる裸婦

1844-45年 油彩・カンヴァス      パリ、オルセー美術館

 

 

 

 

 1840年のサロンに肖像画が初入選したミレーは故郷にようやく錦を飾ることができ、シェルブールで若手の肖像画家として活躍を始める。内省的だが自信と野望を秘めた27歳の画家の姿がここにある。ミレーの自画像は油彩が2点、素描2点が知られるのみで、すべてが1850年以前の作になる。この作品は新婚の妻ポーリーヌの実家に妻の肖像と一緒に残してきたものだけに、表情は多少しかつめらしく、服も盛装をして公的な感が強い。パリの美術学校ではミレーは野人扱いされたが、ここではすでに繊細な感受性をもつ安定した人格の芸術家に成長している。

 

 

 

 

 

 

 このモナ・リザのポーズをとった作品はパリに出るに際しシェルブールのオノ家に残してきたもので、耳がまだ未完成であり、手にしたショールが後の「華やかな手法」を予見させる柔らかな軽いタッチで描かれている。ミレーの肖像画得意の「うるんだ瞳」がここでも魅力的。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミレーの最初の結婚は1841年11月、相手は以前から肖像画のモデルを務めたシェルブールの洋服仕立店の娘ポ-リーヌ・ヴィルジニー・オノであった。彼女は1821年生まれなので20歳の花嫁となる。彼女の肖像は1836,7年作のデッサンが知られており、二人の出会いは4,5年前に遡れる。美人というよりかわいいといった感じの女性で、油絵だけでも4点描いたミレーの寵愛ぶりがほほえましい。実家の家柄もよく、農家とはいえ格式の高かったミレー家もこの結婚は大歓迎で、皆から祝福されたお似合いのカップルであったが、不幸にも花嫁は病弱で、パリに出てからの貧乏画家生活に耐えられず、1844年4月、肺結核で3年もたたずに没した。一時の幸せがはかないものであることを、この絵は示して余りある。

 

 

 

このモデルの少女は、ミレーの友人であるシェルブールの図書館員フェリックス=ビヤンネーメ・フーアルダンの妻の連れ子であり、当時6歳であった.外から帰ってきて鏡に映る自分の姿をのぞき込むあどけない表情からは、ミレーの父親にも似た優しい眼差しが感じられる。「華やかな技法」と呼ばれた時代の代表作だが、この少女像の表現の根底には、当時ミレーがパリで見ていたと思われるベラスケス作のマルガリータ王女の面影が読み取れる。不思議に明るい色調には当時のロココ・リバイバルを意識した画家のプロフェッショナルな技のさえを見ることが出来よう。

 

 

 

 

 

ミレーの1840年代の裸婦像の代表的作品。この裸婦の暖かい肌色には、ミレーのパリのアトリエの隣組で親しかった画家ディアズの影響が大きい。左右の赤いカーテンから奥の寝台を覗かせる構図もロココ風で、田舎にいたのではミレーにこの洗練味は出せない。モデルを直接写生した以上にレンブラントやベラスケス、ブーシェ、フラゴナールなどの過去の巨匠たちの裸婦を記憶によってアレンジしたものと私は見た。サンスィエの伝記によれば、パリの画廊でミレーは裸婦しか描かないと言われたのを恥じて農民画に完全に転向した、とあるが、そう言われたのは事実だとしても、バルビゾンに移って以後も裸婦は描いている。


ルイーズ=アントワネツ卜

フーアルダン

1841年 73.3x60.6cm  カンヴァス 油彩

J・ポール・ゲティ美術館、ロサンゼルス

 

 ミレー27歳の作品。絵が売れず悩んでいた頃であるが、隠し切れない才能が十分現れている。モデルは親友の若妻であるが、化粧のない美しさを十分に画き出している。この肖像画でものミレー特有の「下からのアングル」である。